フェイト/ゼロ Vol.2 「王たちの狂宴」 虚淵玄(ニトロプラス) ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》…ルビ |…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》 [#]…入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから〇字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] フェイト/ゼロ Vol.2「王たちの狂宴」 目次 ACT5────────5 ACT6────────7 ACT7────────85 ACT8────────249 解説──────────388 イラスト/武内崇 作画・彩色/こやまひろかず・鳶月誉雄・MORIYA・simo ロゴデザイン/yoshiyuki(ニトロプラス) 装丁/WINFANWORKS [#改ページ] [#改ページ] ACT5 [#改ページ]   -150:39:43  |冬木市《ふゆきし》の|深山町《みやまちよう》を続けている。  道幅こそ二車線あるものの、街灯すら|疎《まぱ》らな路上には行き交う車の姿などない。深夜零時の国道は、さながら静寂の中に忘れ去られたかのような|有様《ありさま》だった。  そんな夜のしじまを、荒々しく引き裂いて駆け抜けていく白銀の猛獣がいる。  メルセデス・ベンツ300SLクーペ。古雅を|匂《にお》わす流麗なボディラインは貴婦人を|彷彿《ほうふつ》とさせながらも、直列六気筒SOHCエンジンの|胞吼《ほうこう》はまさに猛獣の雄叫びである。  時速一〇〇キロを上回る無謀きわまるスピードで高級クラシックカーを|疾駆《しつく》させるのは──あろうことか、うら若き貴婦人の細腕であった。 「ね? ね? けっこうスピード出るもんでしょ? これ」  得意満面の笑みでステアリングを握るアイリスフィールに、助手席のセイバーは緊張に強張った薄笑いで|頷《うなず》くしかなかった。 「お、思いのほか……達者な、運転……ですね……」 「でしょ? こう見えても猛特訓したのよ」  そうは言うものの、えいと掛け声まじりにギアを変える手つきは荒々しく極端で、円熟したドライビングとは程遠い。 「|切嗣《きりつぐ》がアインツベルンの城に持ち込んできてくれた|玩具《おもちゃ》の中でも、私はこれが一番のお気に入りなの。お城じゃ中庭をグルグル回るだけだったから、こんな広い所を走るのは初めてよ。もう最高!」 「玩具、ですか……」  |権《そり》や自転車の|類《だぐい》ならば、その認識にも異は唱えまい。だが時速一〇〇キロオーバーで蛇行する夜道を駆け抜ける機械装置には、|相応《ふさわ》しくない分類だった。扱いを誤れば死に至るような道具を、ふつう玩具と呼んではならない。  四〇年も以前のクラシックカーとはいえ、排気量2,996�のM198エンジンは時速二六〇キロの最高速度をマークする。アイリスフィールの暴走行為も、この車の潜在力からしてみれば、まだまだほんの序の口でしかないのだ。  聞けば|衛宮《えみや》切嗣は、アイリスフィールとセイバーが冬木市入りを果たした後の移動手段にするようにと、事前にこの車をアインツベルン城から運び込んでおいたのだそうだ。半月あまりもホテルの地下駐車場に保管されていた愛車を引き取って、二人はいま彼女たちの拠点となるべきアインツベルンの別宅へと向かう途中だった。 「む。待ちなさいアイリスフィール。さっきまで貴女は道の左側を走っていませんでしたか?」 「あ、そうよね」  さも|些細《ささい》な失敗であるかのようにアイリスフィールは気安く頷いて、ガクン、と走行車線を変更する。  生まれてこのかたアインツベルン城の地所から出たことがないというアイリスフィールなのだから、当然、公道を走るのはこれが初体験だろう。セイバーはさっきから彼女の視線を目で追っているが、あきらかにアイリスフィールは道路標識など気にとめていない。そもそも道路を走るのに法律がある、という知識さえ持ち合わせているのかどうか。  さすがに信号機の意味は察したようで、赤のサインで|減《・》|速《・》|す《・》|る《・》程度の|配慮《はいりょ》は見せたものの、いかに交通量の減った深夜とはいえ、市街地を無事に抜け出せたのは奇跡に等しいかもしれない。 「……この地にあるアインツベルンの所領というのは、まだ先なのですか?」 「自動車で小一時間ぐらい、と聞いてるわ。近づけばそれと解るはずなんだけど──」  セイバーとしては一分一秒でも早く、この危険きわまりない道中が終わってくれることを願って止まなかった。深夜の国道に対向車の姿が見当たらないのはせめてもの幸いだったが、それでも道がカーブに差しかかる都度、セイバーの血中アドレナリンは臨戦状態にまで|高騰《こうとう》する。サーヴァントである彼女の超人的な体技をもってすれば、いざとなればアイリスフィールを抱えて瞬時に車外へと脱出することも充分に可能である。その場合、時価一〇〇〇万円を軽く上回る伝説のスポーツカーは|無惨《むざん》な|鉄屑《てつくず》へと成り果てるだろうが、それを惜しむような経済感覚などセイバーは持ち合わせていない。 「……専門の運転手を雇っても良かったのでは?」 「|駄目《だめ》よそんなの。つまんない──じゃなくて、危険ですもの。いったん冬木市に入った以上は、いつどこで他のマスターに襲われても不思議はないわ。巻き添えを出すのは、セイバーだって嫌でしょう?」 「それは、そうですが……」  この|峠道《とうげみち》の往来で襲われる可能性と、アイリスフィールの運転と、はたしてどちらが危険度として上なのか──半ば本気で検討しかかっていたセイバーは、そのとき意識に|刃《やいぼ》の切っ先のような冷気を感じ取った。 「止まって!」 「え?」  突然の警告を判じかねたアイリスフィールが|呆気《あつけ》にとられるのも構わずに、セイバーはなかばドライバーに覆い被さるような姿勢で強引に運転席まで半身を乗り出すと、片手でハンドルを|掴《つか》み、左脚の|爪先《つまさき》でブレーキを床まで踏み込んでいた。  この暴走機械をいかにして御するか、即座に判断がついたのは、サーヴァントとして彼女が獲得した騎乗スキルの成せる|業《わざ》であった。未知、既知を問わず全ての乗用道具の操作について、今の彼女は|通暁《つうぎょう》している。  急ブレーキに|舵輪《だりん》がロックしたものの、幸いにも道路は直線だった。スピンに|陥《おちい》ることもなく、メルセデスはタイヤから白煙を巻き上げながらアスファルトの上を|滑走《かっそう》する。制御不能の空走が続く数秒間──その合間に、セイバーは自身を総毛立たせた霊感を改めて再認していた。  まぎれもない、これはサーヴァントの気配。まさに|噂《うわさ》をすれば影、といったところか。 「セイバー、あれ──」  メルセデスのヘッドライトが路上に投げかける光の輪の中、その怪異なる姿を|見讐《みどが》めたアイリスフィールが、言いさした言葉を失う。  長身の人影は、迫りくる車両の危険などまるで眼中にないかのように、平然と道の中央に|佇立《ちょりつ》していた。  時代がかった|豪奢《ごうしゃ》な長衣。|漆黒《しっこく》の布地に血のような|真紅《しんく》の染め抜き。異様なまでに大きい|双眸《そうぼう》が夜行性の|獣《けもの》を思わせる。その出で立ちの異様さを度外視しても、場所と時間を|鑑《かんが》 みれば、あれをただの通行人と思えるわけがない。  車体の運動エネルギーがついにタイヤの|摩擦《まさつ》に屈し、ようやくメルセデスが停止する。 立ちはだかる人影との間隙は、わずか一〇メートルにも満たなかった。 「……セイバー?」  緊迫したアイリスフィールの呼びかけに、セイバーは素早く状況を推し量る。 「私が降りたらすぐに、|貴女《あなた》も車外に出てください。なるべく側を離れないように」  サーヴァントが相手とあっては、鋼管フレームの車体といえども紙箱も同然である。車内に留まったところで何の防備にもなりはしない。ならいっそ、すぐにも|庇《かば》える位置にいてくれた方がいい。  セイバーはガルウィングのドアを開け放つと、冷たい夜気の中へと降り立った。夜風に騒ぐ木々の|匂《にお》いに混じって、タイヤの焼ける|悪臭《あくしゅう》がツンと鼻をつく。  対峙する孤影は、つい先刻に倉庫街で出くわした五人のいずれとも異なっていた。まだ未見のサーヴァントとなれば、キャスターか、あるいはアサシン……そうセイバーは見当をつける。  前夜に|遠坂《とおさか》邸で仕組まれた狂言劇をまだ知らないセイバーとアイリスフィールは、アサシンを可能性から除外できなかったわけだが、とはいえ逃げも隠れもせず堂々と立ちはだかる敵がアサシンとも考えがたく、そうなれば結論は消去法でキャスターに絞り込まれる。  だが…… �これが、戦いに|赴《おもむ》いた者の表情か?�  そう騎士王を当惑させたのは、あらためて観察した相手の|相貌《そうぼう》である。  笑っている、というだけならまだ解る。死地に臨んで歓喜を|懐《いだ》く戦士はけっして|希有《けう》ではない。だがこのキャスターの笑顔はどうか? まるで生き別れの親兄弟とでも再会を果たしたかのように、いじましいほどの|無垢《むく》な喜びに輝くこの顔は……  やや気後れしたセイバーが誰何するよりも先に、キャスターはさらに彼女の予測を裏切る行動に出た。  なんと|恭《うやうや》しく|頭《こうべ》を垂れて、アスファルトの路面に膝をつき臣下の礼を取ったのである。 「お迎えに上がりました。聖処女よ」 「な……」  セイバーの当惑は深まる一方である。たしかに彼女は王として、幾多の英雄豪傑から|脆拝《ち はい》を受けてきた。だがいま眼前に|鋸《うずくま》る男の風貌にはまったく心当たりがない。キャメロットで彼女に仕えた臣下に、こんな男はいなかった。  第一、�聖処女�などという呼称がそもそもおかしい。アーサー王としてブリテン国を統治した彼女は、最期の時まで性別を|偽《いつわ》ったまま生涯を終えたのである。  遅れてメルセデスの運転席から降り立ったアイリスフィールが、用心しいしいセイバーの背中からキャスターを覗き見る。 「セイバー、この人、あなたの知り合い?」 「いや、見覚えはありませんが──」  そう|曝《ささや》き交わすセイバーの声を聞き|咎《とが》めたのか、キャスターは血相を変えて|面《おもて》を起こした。 「……おおお、御無体な! この顔をお忘れになったと|仰《おお》せですか?」  さも|大仰《おおぎょう》な言われように、セイバーはなおのこと|撫然《ぶぜん》となった。 「知るも何も、貴公とは初対面だ。──何を勘違いしているのか知らぬが、人違いではないのか?」 「おお、おおお……」  キャスターは哀れをもよおす|陣《うめ》きを上げて、両手で|髪《かみ》を|掻《か》きむしった。さっきまでの歓喜から一転し、|脂《あぶら》ぎった異相は|狼狽《ろうばい》と落胆で|戯画《ぎが》のように|歪《ゆが》んでいる。危ういほどに感情の振幅が激しい人物であることが、これだけでも窺えた。 「私です! 貴女の忠実なる永遠の|僕《しもべ》、ジル・ド・レェにて御座います! 貴女の復活だけを祈願し、いまいちど貴女と巡り会う奇跡だけを待ち望み、こうして時の果てにまで|馳《は》せ参じてきたのですそ。ジャンヌ!」  |嘆《なげ》きを込めた訴えに、アイリスフィールが息を|呑《の》む。 「ジル・ド・レェ……!?」  彼女たちにとって、自ら|真名《しんめい》を明かすサーヴァントはこれで二人目だった。その意図がどうあれ、なるほどキャスターとして現界するに相応しい伝説の威名である。  だがセイバーにしてみれば、素性が知れたことでなお明らかに、疑念が否定へと固まっただけのことだった。 「私は貴殿の名を知らぬし、そのジャンヌなどという名にも心当たりはない」  |呆《あき》れ半分の溜息とともにセイバーがそう言い放つと、キャスターはなおいっそう取り乱して喘ぎを漏らす。 「そんな……まさか、お忘れなのか!? 生前の御自身を!?」  一向に話が通じないことに|苛立《いらだ》ちを覚えつつも、セイバーはキャスターを冷厳に見据えて言い放つ。 「貴公が自ら名乗りを上げた以上は、私もまた騎士の礼に|則《のっと》って真名を告げよう。我が名はアルトリア。ウーサ! ペンドラゴンの|嫡子《ちゃくし》たるブリテンの王だ」  |毅然《きぜん》と胸を張り、自らの誇りの由来を宣言した少女を前にして、キャスターはしばし呆然と言葉を失ったあと── 「おおぉ! オオオオオッ!!」  ──なかば悲鳴に等しい|鳴咽《おえつ》を張り上げながら、|無様《ぶざま》に地を叩きはじめた。 「なんと痛ましい! なんと嘆かわしい! 記憶を失うのみならず、そこまで錯乱してしまうとは……おのれ……おのれぇぇッ! 我が|麗《うるわ》しの乙女に、神はどこまで残酷な仕打ちを!」 「貴公、いったい何を言っている? そもそも私は──」 「ジャンヌ、貴女が認められないのも無理はない。かつて誰よりも激しく、誰よりも|敬慶《けいけん》に神を信じていた貴女だ。それが神に見捨てられ、何の加護も救済もないままに魔女として処刑されたのだ。おのれを見失うのも無理はない」  |畏怖《いふ》とはまた違うおぞましさに、セイバーはうなじの毛が逆立つのを感じた。  この男は、セイバーの言葉を聞いていない。最初から聞く意図がないのだ。セイバーの素性について、既に自分勝手な妄想を確信し、結論としている。それを覆すようなセイバーの発言には、いっさい耳を傾けようとしない。  つまりは、この応答は会話でも何でもない。ただ狂人の世迷い言につき合わされているだけの茶番劇に過ぎないのだ。 「目覚めるのですジャンヌ! これ以上、神ごときに惑わされてはならない! 貴女はオルレアンの聖処女、フランスの救世主たるジャンヌ・ダルクその人なのだ!」 「いい加減にしろ! 見苦しい!」  もはや当惑も遠慮もなく、セイバーは|脆《ひざまず》くキャスターを|嫌悪《けんお》も露わに|叱責《しつせき》した。 「我が身はセイバー。そして貴様はキャスターの英霊。我らは共に聖杯を賭けて|鎬《しのぎ》を削るサーヴァント。ここで巡り会った|縁《えにし》など、それ以上でもそれ以下でもない」 「……セイバー、その男には何を言っても無駄よ」  激高する騎士王を、背後からアイリスフィールが|窘《たしな》める。  セイバーことアルトリアは、いまだ英霊として不完全であるが|故《ゆえ》に、英霊の座で与えられる時空を越えた知識を持ち合わせていない。故に知らぬのだ。『|青髭《あおひげ》』ことジル・ド・レェ伯爵の狂気に彩られた伝説を。  フランス救国の英雄として元帥の座にまで登りつめながら、その栄光に背を向けて黒魔術の背徳と淫欲に|耽溺《たんでき》し、ついには数百人もの少年を|虐殺《ぎゃくさつ》するまでに到った『|聖なる怪物《モンストル・サクレ》』──  ジルの狂気への|凋落《しゆうらく》は、彼と共に戦った女傑ジャンヌ・ダルクが悲運の末路を辿るのと時期を同じくしている。そのため両者を関連づける伝承は数多い。果たして、いま聖杯に招かれ現界した英霊ジル・ド・レェの見せる妄執は、まさに狂気と呼ぶほかなかった。セイバーことアルトリアの容姿や風采が、どこまでジャンヌ・ダルクと類似しているかは定かでないが、まさか見分けも付かぬほど瓜二つということはあるまい。にもかかわらずジル──キャスターは、セイバーを想い人そのものと確信したきり、疑念の余地すら許さないのである。 「ジャンヌ、もはや御自身をセイバーなどと御名乗り召さるな。私をキャスターなどと御呼び召さるな。既に我らはサーヴァントなどという|頚木《くびき》に繋がれてはいない。聖杯戦争は既に決着している!」 「それはまた随分な意見ね」  怒りのあまり声もないセイバーに代わって、今度はアイリスフィールがキャスターを質す。 「ねぇジル元帥、戦いが終わったというのなら、いったい聖杯はどうなったのかしら?」 「勿論、万能の釜たる願望機は、すでに我が手に収まっている!」  キャスターは満面の笑みも晴れやかに、堂々と胸を張って宣言した。 「なぜならば我が唯一の願望、聖処女ジャンヌ・ダルクの復活が、まぎれもなくここに果たされているのだから! |何人《なんびと》と競い争うまでもなく、既に我が願望は成就した。戦うまでもなく聖杯はこのジルを選んだのです」  ギン、と|凄烈《せいれつ》な響きを上げて、キャスターの眼前のアスファルトが真っ二つに断ち割れた。  セイバーの不可視の剣である。キャスターには見えざるとも、すぐ鼻先に突き立てられた鋭刃の存在は、立ちのぼる剣気だけでそれと知れたであろう。 「我ら英霊すべての祈りを、それ以上|愚弄《ぐろう》するというのなら──次は手加減抜きで斬るぞ。|キ《・》|ャ《・》|ス《・》|タ《・》|ー《・》」  感情を抑えたセイバーの言葉は、まさに声音そのものが刃の温度であった。 「さあ立て。平伏した者を斬るのは主義に反する。貴様も武人の端くれならば、妙な|誰弁《きべん》を|弄《ろう》するのでなく、尋常に戦い抜いて真に聖杯を掴むがいい。最初の一人はこのセイバーだ。今ここで相手になってやる!」  キャスターの|双眸《そうぼう》から、熱狂の炎がかき消えた。  激情に歪んでいた異相が、それまでとはうって変わった静かな面持ちで、立ちはだかるセイバーを仰ぎ見る。が、その視線が|孕《はら》む強烈な意志の力は、|微塵《みじん》も衰えていない。  それは秘めた決意の眼差しだった。彼の内側の狂気は、ただそのままに違う質の意志へと形を変えただけなのだ。 「もはや言葉だけでは足りぬほど……そこまでに心を閉ざしておいでか。ジャンヌ」  |沈響《ちんうつ》にそう|咳《つぶや》く声にも、もう嘆きの色はない。 「致し方ありますまい。それなりの荒療治が必要、とあらば──次は相応の準備を整えてまいりましょう」  黒いローブはするりと身を退くと、セイバーの間合いから大きく離れたところで立ち上がる。あらためて見る長身の|体躯《たいく》には、脆いて無様な泣訴を述べ立てていたのとは別人のような威圧感があった。それは一度ならず大地を血で染め上げた者のみが|纏《まと》う威風……英雄と崇められ、あるいは暴君と畏怖される者ならではの気迫であった。  この男、断じて|容易《たやす》い敵ではない──立ち上がったキャスターと相対したセイバーは、直感でそう確信する。 「誓いますそジャンヌ。この次に会うときは、必ずや……貴女の|魂《たましい》を神の呪いから解放して差し上げます」 「聞く耳持たぬ。剣を|執《と》る覇気がない者は去れ」  すげないセイバーの答えに黙礼を返すと、キャスターは実体化を解いて夜の闇に消えた。  深く|吐息《といき》をついて、セイバーは臨戦態勢を解く。脱力したアイリスフィールも疲れ切った様子でベンツのフェンダ──に寄りかかっていた。 「会話の成立しない相手って……疲れるわよね」 「全くです。が、次は言葉を交える前に斬ります。──ああいう手合いには|虫酸《むしず》が走る」  キャスターが退散した後も、セイバーは憤愚やるかたない様子だった。 「むざむざ取り逃がしたのは悔しい?」 「ええ。いっそこの場で妄言を|償《つぐな》わせてやりたかった。──と、言いたいところですが」  怒気をやや神妙な色に曇らせて、セイバーは何やら不本意そうに|眉《まゆ》をひそめる。 「正直なところを言えば、キャスターの方から|退《ひ》いたのは、今夜の私にとって|僥倖《ぎょうこう》だったかもしれません」 「え、そうなの?」  セイバーの弱気な発言は、アイリスフィールにとって意外だった。  魔術戦に特化したキャスターのクラスに対しては、最強の抗魔力を備えたセイバーのクラスが極めつけの鬼札となる。真っ向から勝負する限りにおいては、セイバーに圧倒的な優位があったはずなのだ。  だがセイバーは、彼女自身も得心いかない面持ちのまま、苦々しくかぶりを振る。 「あのキャスターは……何かが違います。あるいは尋常な意味での魔術師とは違うのかもしれない。確証はないのですが……左手を封じられた今の状態で立ち向かうには、危険すぎる敵のように感じました」  セイバーの第六感は、クラス特性によって強化され未来予知の域にまで達している。そんな彼女が不穏なものを感じた敵とあっては、アイリスフィールも評価を改めるしかない。 「|兎《と》にも|角《かく》にも、まずランサーね……」 「はい。幸い、あのランサーは高潔な戦士です。逃げも隠れもしないでしょう。彼もまた私との決着を望んでいる」  敵でありながらもそう断言するセイバーは、よほどあのランサーに響くところがあったのだろう。が、それでもアイリスフィールは|一抹《いちまつ》の不安を拭えなかった。サーヴァントがいかに騎士道精神に|溢《あふ》れていようとも、そのマスターまでもが同じとは限らない。  サーヴァントという|枷《かせ》に|囚《こら》われたこの騎士王が、この先はたしてどこまで、その剣の誉れとするべき戦いを貫いていけるのか……それを思うとアイリスフィールは、やるせないながらも悲観を懐かざるを得なかった。  アイリスフィールもセイバーも、そして先に退去したキャスターすらも伺い知らぬことだったが、彼らの選遁の一部始終は、追跡者の監視下にあった。  国道に隣接する深い森の中、闇に|呑《の》まれた|梢《こずえ》に身を潜めて、|眈々《たんたん》と目を光らせていたのは、|不気味《ぶきみ》な白い|燭艘《どくろ》の仮面だ。  影に溶け込むのみならず、自らが影そのものであるかのように、一切の気配を|遮断《しマだん》してセイバーたちの感知を逃れていた追跡者。他ならぬアサシンのサーヴァントである。|言峰綺礼《ことみねきれい》の下知により、倉庫街よりセイバーとアイリスフィールを追跡し続けて、ここまで馳せてきたのだ。  アインツベルンのマスターと|目《もく》されたアイリスフィールをマークしておくための任務だったが、ここにきて事態は思わぬ展開を見せていた。倉庫街での乱戦にも姿を現さなかった最後のサーヴァント、キャスターの存在を、ついにアサシンは捕捉したのだ。  霊体化して離脱したキャスターの気配は速やかに遠ざかっていくが、アサシンの鋭敏な霊感は、まだその気配を捉えている。追うならば今だ。 「無論、追わぬ手はあるまいて」  アサシンの背後から、そう呼びかける声が湧いた。闇に沈む森の中から|朧《おぼろ》に浮き上がったのは──なんと、新たなる白醐骸の仮面である。  第二のアサシンの風体は、体格こそいささか違えど、仮面に黒ローブという装束は共通だった。そもそもこの二人は、体格といい、声音といい、それぞれ倉庫街での|斥候《せっこう》を務めていたアサシンともまた異なる。同じクラスのサーヴァントであるとはいえ、各々明らかに別個の個体に違いない。 「では、頼めるか?」 「うむ。おぬしは引き続きセイバーとそのマスターを追尾せい。……ところで、綺礼どのはこの状況を見届けておいでか?」 「|否《いな》、俺とは知覚共有をしていない」  最初からアイリスフィールの追跡を請け負っていた方のアサシンがかぶりを振った。やはり、まぎれもなく倉庫街の斥候とは別人である。  それを聞いた二人目のアサシンは、忌々しげに舌打ちをした。 「万全を期すならば、この展開、綺礼どのの耳にも入れておくべきではあるが……」 「その役は私が引き受けましょう」  さらに割り込む第三の声。もはや驚くには値しないとはいえ、またも白い燭膿面が闇の中に現れた。今度はまだ子供とおぼしき甲高い声と|矮躯《わいく》の持ち主である。もはやこの場に何人のアサシンが集結しているのかすら知れたものではない。  メルセデスのモンスターエンジンが夜気の中で息吹を吹き返し、胞吼も高らかに国道を遠ざかっていく。アイリスフィールとセイバーもまた、ふたたび先を急ぎはじめたのだろう。  三つの影は首肯を交わし、旋風のように夜の闇へと消えた。             ×               ×  濃密すぎる血の色で黒に塗り込められた闇の中。ただひとつ|灯《ごも》された|燭台《しょくだい》の輝きが、雨生龍之介の細い顔を照らしている。  男にしては優美すぎるほど細くて長い指は、べっとりと深紅に|濡《ぬ》れていた。長机に向かって座す彼の前には、ぬめぬめと|艶光《つやびか》る帯状の生肉が、横に三列、並べて張ってある。  |腸《ちよう》だ。長机の丈いっぱいに引き延ばして|釘留《くぎど》めされた、人間の腸である。  ひどく真剣な|眼差《まなざ》しでその肉帯を|凝視《ぎょうし》しつつ、|龍之介《りゅうのすけ》は左手に持った小さな|音叉《おんさ》を机の角に打ちつけ、ちいん、と澄んだ音を生み出した。  清涼な響きが尾を引いているうちに、素早く右手の指を腸の各所に点々と押しつける。そのたびに──  ひぃ……  ぎぃ……  ──と、痛ましい|苦悶《くもん》の声がじわりと闇の中に広がる。  それらの声に注意深く耳を傾け、音叉の残響と聴き比べてから、龍之介は満足げに頷き、「よおし、じゃぁ�ミ�はここ、と」  そう咳いて腸の一点に音符の描かれたタグをピン留めする。同じような音符のタグは、ひくひくと震える肉帯の各所に、既にいくつも|穿《うが》たれていた。  このような仕打ちを受けながらも、この腸はまだ生きていた。正確には腸の持ち主が、だが。  長机の上に掲げられた十字架の上には、絶え間ない痛みに畷り泣く少女が礫にされていた。その下腹部が横真一文字に切り裂かれ、引きずり出された内臓がいま長机の上で龍之介の|慰《なぐさ》み物になっているのだ。  生きた人間の腸を鍵盤にして、悲鳴で歌うオルガンを作ってみようという龍之介のアイディアは、『青髭』も高く評価してくれた。素材に選んだ少女には、失血や感染症で死んだりすることがないよう幾重にも|治癒《ちゆ》再生魔術がかけられ、また脳内物質で痛みが麻痺することもないように痛覚にも処置が施してある。  あまり|凝《こ》ったことをするとすぐに生命活動を停止してしまう人体のデリケートさは、龍之介にとって以前から悩みの種だった。だが今では魔術師が工作を手伝ってくれるおかげで、何の困難もありはしない。|生半可《なまはんか》なことでは|消耗《しょうもう》しない|生賛《いけにえ》の肉体をカンバスにして、もはや龍之介は自由自在に感性の翼を拡げることができた。 「は──い。それじゃぁワンス・モァ・タァイム。�ド��レ��ミ�〜っと」  自らも歌いながら龍之介は腸の鍵盤に指を押し当てる。が、それに応じて湧きあがった苦悶の声は、音程も何もない不協和音にしかならない。 「……んん?」  血みどろの調律師は眉を|獲《しか》めて首をかしげ、さっき音叉で確認したはずの腸の位置を、もう一度押してみる。|礫《はりつけ》にされた少女が漏らした陣きは、またしてもタグの表示と違う。  よく考えてみれば、同じ痛点を刺激したからといって毎回同じ音程の悲鳴が出てくるとは限らないのではないか。そうなるとこの人間オルガンという構想には構造的な欠陥があることになる。 「あっちゃぁ……参ったなぁ」  落胆の吐息とともに、龍之介は頭を掻いた。  昨日まで悪戦苦闘し続けた人間パラソルの発明に続いて、またしても失敗である。こう|挫折《ざぜつ》が続くと、さしもの彼も自信を失ってしまいそうだ。  だが龍之介は、昨夜の『青髭』の言葉──パラソルを壊して落胆する弟子を優しく慰めてくれた訓辞を思い出す。 『何事も最初の発想が大切です。たとえ満足行く結果が出なくても、挑戦する行為にこそ意義があるのです』  そう笑って、偉大なる悪魔は龍之介を激励してくれた。それまで誰にも理解されない芸術を孤独に志してきた青年にとって、あの言葉はどれほど励みになったことか。  頑張らなきゃならない。そう気を.取り直して龍之介は弱気の虫を追い払った。失敗を恐れてはいけない。すべてはトライ・アンド・エラー。千里の道も一歩から。  ともかく前向きに考えよう。この人間オルガンにしても、諦めるのはまだ早い。問題点を根本から見直せば、何か打開策が見出せるかもしれない。  そもそも音はさておき、剥き出しの腸を|弄《いじ》られるときの少女の表情は素晴らしく魅惑的だ。こんなにも素敵な顔で|暗《な》く素材を、みすみす|廃棄《はいき》してしまうのは惜しい。  血臭たちこめる闇の大気が、そのとき大きくうねった。空気中の魔の密度が一段と濃さを増す。この魔術工房の主たる人物が帰還したのだ。 「あ、おかえり。|旦那《だんな》」  燭台の光の輪の中にうっそりと立ち現れた『青髭』ことサーヴァント・キャスターは、能面のような仏頂面のまま、龍之介には|一瞥《いちべつ》もくれない。出かける時は歌い踊らんばかりの上機嫌だったというのに、まるで一八〇度違う態度である。  出先でよほど不愉快なことがあったのだろうか? 龍之介は少なからず心配になったが、それはそれとして自分の作業の成果についても報告しておかねばならない。 「旦那ゴメン。やっぱオルガン駄目だったわ。でも俺さぁ──」 「──足りない」 「え?」  ぼそりと漏らした『青髭』の咳きは、明らかに龍之介の言葉を受けてのものではなかった。詞しむ龍之介を余所に、キャスターはローブの裾から手を伸ばし、十字架の上で生殺しのままに|喘《あえ》いでいる少女の頭を|鷲掴《わしつか》みにする。 「まったく足りていません! この程度では!」 「あ、うん。それはオレも気付いたんだけどね……あぁ?」  龍之介の弁解の言葉は途中で立ち消えになった。キャスターが|蜘蛛《くも》の足のような五指に力を込めて、少女の頭を果実のように握り潰してしまったのである。 「そ、そんなぁ」  あまりのことに梢然となったものの、龍之介は『青髭』の機嫌が悪いどころの騒ぎではないことを理解した。彼はいま|激昂《げきこう》している。龍之介のことなど眼中にもなくなるほどに。 「|忌《い》まわしくも神めは、いまだジャンヌの魂を束縛したまま放さない! いまだ|涜神《とくしん》の生賛が足りないのです!」  |唾《つば》飛ばすほどの勢いでまくし立てる『青髭』の眼差しには、理性の光など欠片も残っていなかった。何があったのか知らないが、ジャンヌというのはきっと遠見の水晶球で見たあの|鎧姿《よろいすがた》の娘のことだろう。 �女|絡《がら》みかあ。こりゃ尾を引くかもなあ�  龍之介は同情した。まだ付き合い始めて日は浅いものの、この異相の悪魔が実はひときわナイーブな精神の持ち主であることを、彼は既に知っている。 「この世界において、神の聖性などもはや|ま《・》|や《・》|か《・》|し《・》にすぎないのだという現実を、彼女に知らしめねばなりません。世界に救済などないのだと、子羊の祈りなど決して天には届かないのだと!」 「うんうん、そうだよな。解るよ旦那」  相槌を打つ龍之介は、もちろん『青髭』の語る意味などこれっぽっちも理解できずにいたが、深く追求する気はさらさらなかった。彼とて男女の問題に口を差し挟むほど|野暮《やぼ》ではない。 「もはや、ただ神を|辱《はずかし》めるだけでは済まされない! 我々は証明しなくてはならないのです。神威の失墜を、神の愛の|虚《むな》しさを! 神は既に裁きを下すこと能わず! いかなる非道も、悪徳も、決して神罰には値せず! そうですね龍之介!」 「ああ。神なんてのはマスかきしか能のねぇチキン野郎だ。旦那の方がよっぽどCOOLだ」 「しからばッ! 我らはさらなる背徳を! さらなる冒涜を! 涜神の生賛を山と積み上げ、しかと彼女の前に示すべし!」 『青髭』のその宣言に、龍之介はやや|躊躇《ちゅうちょ》した。 「えぇと、そりゃつまり……これからは質より量、ってこと?」 「そうです! その通りです! さすがにリュウノスケ。ちゃんと心得ているではありませんか!」  我が意を得たりとばかりに『青髭』は急に笑顔を取り戻し、龍之介の肩に手を回して何度も叩く。こういう|躁鬱《そううつ》の激しい切り替わりは今に始まったことではないので、もう面食らうこともないのだが、それにしても彼の言うような方針転換には、いまひとつ気乗りがしなかった。 「さてリュウノスケ、いま牢にいる子供たちは何人です?」 「……生きてるのは一一人。そのうち三人ばかりは、ちょっと遊んじゃったから壊れかけ」 「|宜《よう》しい。まずはその一一人から、速やかに賛とします。すぐにも始末し、それから朝が来るまでに新しい子供たちを補充しましょう」 「なんか……|勿体《もったい》ないなぁ」  いわゆる大量虐殺というやつは、龍之介の趣味ではない。彼はあくまでアーティストであって、殺人機械とは違うのだ。味も素っ気もない死体の山を、ただ|嵩《かさ》だけ積み上げるなど、そんなのは戦争や天災と似たようなものであって、生命の|全《まった》い浪費である。一人一人をじっくり時間をかけて|粥《なぶ》りものにしていくのが、殺しの妙味というものではないのか。  そんな不服に『青髭』も気付いたとみえて、彼は持ち前の慈愛に満ちた天使の笑顔で、聞き分けのない子供をあやすように龍之介を|奢《たしな》めた。 「ねぇリュウノスケ。このさい|吝嗇《りんしよく》は禁物ですよ。この世界のすべての生命は我らの財産なのだから、貴方はそう思って王侯の余裕を持つのです。浪費なさい。|汲《く》めども尽きぬ|己《おのれ》の財を知りなさい。そうやって貴方は、私のマスターたるに相応しい風格を身につけなければならない」 「王様、かぁ」  そう、龍之介はすでに富豪なのだ。  貨幣などに興味はない。龍之介にとって、消費することで価値を生むものとは人間の生命だけだ。そして『青髭』の助力を得た彼は、もはやどんな殺人を犯そうとも法の手で裁かれることはあるまい。いつ何処で誰を何人殺そうとも、彼の自由だ。そうするだけの権力を『青髭』は与えてくれた。  この地上のありとあらゆる生命を|恣《ほしいまま》にできるというならば、それらは全て龍之介の所有物も同然だ。法王も大統領も比較にはならない。雨生龍之介こそは、いま世界で誰よりも富める者なのだ。 「でもなあ、使い道ってのも大事だと思うんだけどさあ……」 「リュウノスケ、この資本主義とやらに毒されきった時代に生を受けた貴方には、抵抗のある概念かもしれません。だが心得なさい、貴族にとって浪費とは美徳なのです。富を持つ者は皆、それを誇りとして世に示す義務を持つ。そうやってこそ富とは輝きを放ち、意味を持つのです」 「うん……」  四の五の言っても、龍之介の『青髭』に対する信任は既に揺るぎないものがあった。この死と退廃の巨匠であれば、あるいは思いもよらぬ形で彼に新たな感動を|啓蒙《けいもう》してくれるかもしれない。  とりあえず今夜のところは、『青髭』の指示通りに、手早く子供たちを始末することに専念しよう。限られた時間の中でも、彼なりの|拘《こだわ》りや趣向の凝らし方を模索できるかもしれない。そう考えると、それはそれで興味深い試みのように思えてくる。  それにしても──  これだけの説法を受けてもなお、龍之介は人間オルガンにするはずだった少女のことが頭から離れなかった。 『青髭』に握り潰されて、今はもう見る影もないが──あの顔、本当に可愛かったのに。 [#改ページ]   -149:47:12  冬木ハイアット・ホテル客室最上階──地上三二階の高みから見下ろす眺望は、市内においては他に並ぶものがない。  こと高さにおいては、ほどなく完成が予定されている|新都《しんご》センタービルにナンバーワンの座を譲ることになるだろう。新都はいまだ開発途上の都市であり、ここハイアットホテルはもっとも初期に落成を果たした建築物である。  今後の新都の発展に伴い、新生のホテルは続々と増えていく。だが冬木市における最高級の設備とサーヴィスを誇るホテルとしての地位を、ハイアットが後発に座を譲ることはまずあるまい。支配人と従業人全員が共にそう自負して止まず、また利用者たちも|揃《そろ》って納得するだけの品質と格式を、このホテルは備えていた。  そんな最高級のスイートルームを借り切って、窓際の本革ソファを|恣《ほしいまま》にしておきながらも、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの|鬱屈《うつくつ》した気分はまったく晴れる見込みがなかった。  彼に言わせてみれば、この部屋を|誹《あつら》えた俗物どもは、�|贅《ぜい》を凝らす�という意味をまったく理解していない。ただ闇雲に広い部屋、ただ高価なだけの家具、華美なばかりの調度品。生まれついての貴族であるケイネスは、俗物が背伸びをした上面だけの|豪奢《ごうしゃ》さというものに敏感だった。まさにこのホテルの部屋がそうだ。歴史もない。文化もない。俗物ならではの�富民像�を演出するためだけに、借り物のセンスで表面だけを豪奢に飾り立てただけの、|醜悪《しゅうあく》きわまる豚小屋だ。  その|卑賎《ひせん》さを|糺《ただ》すとなれば、ホテルだけに限った話ではない、この日本というちっぽけな島国そのものが、どこまでもケイネスの神経を逆撫でする醜悪さに満ち満ちている。  あの|狸雑《わいざつ》な香港ですら、土着の風俗に対する執着とポリシ──はあった。そういう異国ならではの情緒が、この冬木市新都には|欠片《かけら》もない。こうして高みから夜景を見下ろしてみても、いったい|何処《どこ》の国のどういう街なのか、判じうるだけのものが何一つ見あたらない。 ただ新奇で薄っぺらなだけの粉飾を、どこからともなく掻き集めてきただけの集積物-都市の精神を問うならば、この街はゴミの山も同然だ。  こんな東の最果ての島国ともなれば、|辺鄙《へんぴ》な漁村のままで純朴な暮らしを保っていれば、まだ|趣《おもむき》もあるというものを……そういう慎ましい分の|弁《わきま》えかたも、日本入という人種には無縁なのだろう。ほんの百年あまり以前には憲法すらなかった未開国が、科学技術だの経済力だのといった浅ましい駆け引きだけで西欧に張り合い、まるで文明国の仲間入りを果たしたかのような厚顔ぶりを晒している。まったくもって、度し難い。  あまりの嫌悪感に偏頭痛さえ|患《わずら》いつつある額を神経質に指で叩きながら、ケイネスは持て余す|苛立《いらだ》ちを吐息にして吐き出した。  実際のところは、たかが宿の質にそこまで剥きになって怒るほど彼は狭量な人間ではない。苛立ちの源はまた他にある。  据え付けのワイドテレビでは、深夜の番組編成を変更して緊急ニュースが報じられていた。ここ冬木市湾岸地区の倉庫街で発生した原因不明の爆発事故について、レポーターが興奮もあらわに現場からの中継を行っている。  |爆《・》|発《・》|を《・》|聞《・》|き《・》|つ《・》|け《・》|た《・》近隣住民からの通報により、消防車が駆けつけたのが約四時間ほど前。 まだ報道では伏せられているが、既に現場検証中の警官たちは、これ見よがしに|撒《ま》き|散《ち》らされた爆発物の痕跡を、喜び勇んで拾い集めていることだろう。その破壊が、実際は余人の与り知らぬ怪異によってもたらされたものだとは|露《つゆ》知らず……  監督役などと息巻くだけあって、なるほど聖堂教会の手際は中々なものだった。時間を逆算すれば、ケイネスが人払いの結界を解いてから三〇分足らずのうちに、すべての|隠蔽《いんべい》工作を終えた計算になる。  すでに真相は、現場に居合わせた者たちの記憶の中にしか存在しない。うち一人がケイネスだ。彼こそはランサーのサーヴァント、英霊ディルムッド・オディナを従えたマスターである。  待ちに待った聖杯戦争の開幕。万全を期して臨んだ|初陣《ういじん》。だがその成果といえば、期待したものとは程遠い。  幼少の頃より、つねにケイネス・アーチボルトは他の子供たちより一歩抜きん出ていた。 どんな課題も、ケイネスより上手く解決できる者はいなかったし、彼と競い合って勝ちを取れるようなライバルも存在しなかった。  彼は執念じみた向上心で努力を積んだわけでも、並外れた目的意識があったわけでもない。ただ単に彼の成し遂げる成果が、いついかなる時も他者より立ち勝っていたという、それだけの事でしかなかった。  当然の結論として、ケイネス少年は自分が�天才�と呼ばれる人種であるものと了解した。それは自他共に認める認識だった。誰も異論を挟みはせず、また彼の自信を脅かすような存在も決して現れることはなかった。だから彼は|驕《おご》りもせず、とりたてて誇りもせず、ただ当然のように天才であり続けた。  壁に突き当たることも、限界に悩むこともなく、若きケイネスの世界はまさに彼自身の支配下にあった。その認識には疑念の余地など何一つなかったのだ。条理を逸する魔術師であること。さらにその名門アーチボルト家の嫡子であること。代々続く魔道の成果を刻印として受け継ぎ、のみならず彼自身もまた|稀代《きだい》の才能を持ち合わせていたこと。すべての『事実』がケイネスの栄光に当然の理由を与えていた。おのれの意に添わぬ事柄など世界に何一つ有り得ないと、そう信じたところで無理もなかっただろう。それはケイネス一人の自負でなく、彼を取り巻く人々の共通の見解だった。  時計塔における華々しい研究成果の数々も、破竹の勢いで位階を上り詰めていく異例の出世も、�名にし負うロード・エルメロイ�と誰もが納得して頷いた。神童と呼び慣わされ、|羨望《せんぽう》と|嫉妬《しっと》を一身に集める立場になろうとも、ケイネスには何の満足も達成感もなかった。 すべては彼の人生において『当然の結果』でしかなかったのだから。  過去においてそうであったように、未来においても彼の成功は約束されている。それは神聖にして不可侵な『人生との契約』であり、ケイネスにとっては疑う余地もない大前提なのだ。  そうやって、世界の秩序は彼にとって自明のことであったが故に──|滅多《めっに》にあることではないが、ごく希に、予期せぬ不都合や偶然の積み重ねによって�|目論見《もくろみ》が外れる�などという事態が発生すれば、それはケイネスにとって断じて許し難い混沌、神の秩序を辱める冒涜でしかなかった。  たとえば。  確実に仕留められるはずだったセイバーのサーヴァントを、みすみす取り逃がす、などという番狂わせは、言語道断と言うほかにない。 「出てこい。ランサー」 「──は。お側に」  打てば響く速やかさで、美貌の英霊はケイネスの膝下に恭しく屈した姿勢で実体化した。 霊体のままでも会話に支障はなく、とりわけ降霊科の主任講師たるケイネスであれば、姿なき霊との応答は慣れ親しんだものだったが、それでも直に顔を見て会話する手段があるなら、それに越したことはない。  とりわけ、このサーヴァントを相手とするときには──ケイネスは、表情の此二細な|機微《きび》まで余さず観察しながら対話したかった。それが対話ではなく|尋問《じんもん》に近い内容であれば尚更である。 「今夜はご苦労だった。|誉《ほま》れも高きディルムッド・オディナの|双槍《そうそう》、存分に見せてもらった」 「恐縮であります。我が|主《あるじ》よ」  淡々と平坦に、ランサーは礼を返す。賛辞に驕ることも、露骨に|喜悦《きえづ》することもなく、また逆に不平不満を胸に秘めた様子もない。控えめで慎み深い、武人の鑑の態度である。  だがそれがケイネスの目には、決して自らの真意を見せようとしない、|不坪《ふらち》な|韜晦《とうかい》としてしか写らない。 「あぁ、存分に見せてもらった上で問うがな。……貴様、いったいどういう了見だ?」 「……と、申されますと?」  やにわに|詰問《きつもん》の色を帯びはじめたケイネスの声音にも、ランサーは依然、慎みを保っている。 「ランサー、貴様はサーヴァントとして私に誓ったな? この私に聖杯をもたらすべく全力を尽くすと」 「はい。相違ありません」 「ならばなぜ遊びに興じた?」  そう断じられても、ランサーは決して怒りや狼狽で表情を曇らせることなく、ただ粛々と目を伏せただけだった。彼は彼なりに、この叱責を予期していたのだろう。 「……騎士の誇りに賭けて、|戯《ざ》れ|事《ごと》でこの槍を執ることはありませぬ」 「ほうそうか。言うではないか」  小馬鹿にしたように鼻を鳴らしてから、ケイネスはさらに追い打ちをかける。 「なら問うが、なぜセイバーを仕留められなかった?」 「それは──」 「一度ならず二度までもセイバーを圧倒しておきながら、貴様は二度とも決め手を逃した。 この私の令呪をひとつ削いだ上でもなお、だ」 「……」  今度ばかりは返答に詰まり、ランサーは沈黙する。 「繰り返すがな。私は今夜の戦いを余すところなく見届けた。見届けた上で|指摘《してき》しているのだ。ランサー、貴様は戦いを�|愉《たの》しんで�いた」  返す言葉もなく|項垂《うなだ》れる騎士を冷ややかに見下ろしつつ、ケイネスはたっぷりと皮肉を込めて詰る。 「そんなにも愉悦だったか? セイバーとの競い合いは。みすみす決着を先送りにしたくなる程に?」  |傍目《はため》に見ればランサーの活躍とて、充分に健闘を讃えられるだけのものだったかもしれない。だがマスターであるケイネスにとっては、それがただの健闘|の《・》|み《・》で終わったことが──確たる結果を出せなかったことが腹立たしくて仕方ない。  もともとの召還の本命であった英霊イスカンダルの聖遺物を、不肖の弟子であるウェイバー・ベルベットに奪われたこと。そのウェイバーが分不相応にイスカンダルのマスターとなった挙げ句、果たしてサーヴァントを制御しきれず完全に暴走させていたこと。そんなウェイバーの失態が、結果として戦況を乱戦にもつれ込ませ、ケイネスのランサーの勝機さえも潰してしまったという結果……それら諸々についての苛立ちは、今現在のケイネスにはない。怒りを叩きつけるべき対象はウェイバーただ一人であり、その当人が目の前にいない以上は|憤慨《ふんがい》したところで何の益もないからだ。怒りはじっくりと胸の内に蒸留しておき、いずれウェイバーと対峙したときに心行くまで発散すれば良いのである。そういう�外に向けた怒り�に関する限り、ケイネスという人間はきわめて実際的であり、冷静かつ冷酷であった。  だがその反面、�内に向ける怒り�については、彼はまったく抑えが効かなかった。なまじ人並み外れた才能に恵まれ、失敗や挫折とは無縁の人生を送ってきただけに、彼の身内や部下が──ごく|希《まれ》にしかないことではあるが──彼の意に添わぬ結果をもたらしたとき、決まってケイネスは|痴性《かんしよう》を持て余してしまう。それは生まれつき成功を約束され、祝福ばかりを一身に浴びて育ってきた者ならではの|脆《もろ》さといえた。  現に今でも、ケイネスは彼の勝利を|阻《はば》んだウェイバーの狼藷よりも、彼に勝利をもたらし得なかったランサーに対して、数段勝る怒りを懐いていたのである。 「……申し訳ありません。|主《あるじ》よ」  ケイネスの怒りの眼差しを、面を伏せて堪え忍びながら、ランサーは抑えた声で粛々と|詫《わ》びた。 「騎士の誇りに賭けて、必ずや、あのセイバーの首級はお約束いたします。どうか、いましばらくのご|猶予《ゆうよ》を」 「改めて誓われるまでもない! それは当然の成果であろう!」  いよいよ激高を露わにしたケイネスが、怒声で謝罪を一蹴する。 「貴様は私と契約した! このケイネス・エルメロイに聖杯をもたらすと! それは即ち、 残る六人のサーヴァント全てを斬り伏せることと同義だ。この戦いの大前提だ──  それを今更……たかだかセイバー一人について必勝を誓うだと? それが価値ある約定だとでも抜かすのか? いったい何を履き違えている?」 「──履き違えているのは貴方ではなくて? ロード・エルメロイ」  ランサーでもケイネスでもない、それは第三者の声だった。はたしてサーヴァントとマスターの遣り取りをいつから立ち聞きしていたのか、奥の寝室から一人の女性が現れる。  燃えるような赤毛とは裏腹に、居住まいは凛烈な氷を思わせる美女だった。年の頃はケイネスよりやや若く、少女期を終えたばかりの|瑞々《みずみず》しい若さを誇っている。|愛嬌《あいきょう》や母性でなく、品位と理知によって磨かれた麗人なのは一目で知れた。きつい眼差しに見下すような高適さが伴っても、それが威厳として魅力に繋がるような、まさに女帝の風格を漂わす女性であった。  さながら臣下を叱責するかのような容赦ない非難の眼差しは──一人、ケイネスにだけ向けられている。 「ランサーは良くやったわ。間違いは貴方の状況判断ではなくて?」 「ソラウ、何を言うんだ……」  ケイネスの性格であれば、ここで感情を爆発させても何の不思議もないところだが、そうはならずに口ごもるのは、この女が彼にとって格別の存在だからである。  ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。降霊学科の長でありケイネスの恩師でもあるソフィアリ学部長の息女。そしてケイネスの栄光を完成させる運命の女神  即ち、彼の|許嫁《いいなずけ》である。  ともに押しも押されもせぬ名門アーチボルト家とソフィアリ家の婚礼、それも稀代の秀才と学部長の娘という組み合わせは、時計塔を上から下へと揺るがす縁談であった。ソフィアリ家伝来の魔術刻印は、家督を|嗣《つ》ぐ兄に譲ったため、ソラウ自身は魔術師として高い位階にあるわけではない。が、ソフィアリ家が代々高めてきた極めつけの魔導の血は、兄弟と等しく受け継いでいる。常人の域を遙かに|上《はる》回る魔術回路を持ち合わす彼女は、�神童�ケイネスの種を受けて次代のアーチボルトに特級のサラブレッドをもたらすことだろう。 まさに約束された栄光である。  が──そんな将来が傍目にいかに輝かしく見えようとも、それが当事者たちにとってもまた幸あるものであるかといえば、必ずしもそうとは限らない。  あからさまに見下しきった、|侮蔑《ぶべつ》の眼差しとさえいえる視線を未来の夫へと注ぐソラウと、その屈辱に顔色を失いながらも|堪《た》え|忍《しの》ぶケイネスの様は、どう|贔屓目《ひいきめ》に見たところで|睦《むつ》まじいカップルとは思えまい。 「ねぇケイネス。私に言わせてもらえればね、あの場ではランサーの提言通り、バーサーカーを標的にするべきだったのよ。いったんセイバーと共闘させてでも」  倉庫街での戦いには立ち会わなかったソラウだが、その顛末は彼女自身の使い魔を通じて逐一|把握《はあく》していた。むろん面白半分の観戦ではない。魔術刻印こそ持ち合わせないものの、彼女もまた名門ソフィアリ家の一員として魔術の|薫陶《くんとう》を受けた人間である。聖杯戦争という魔術師同士の競い合いがどういうものかは、当のマスターであるケイネスに負けず劣らず|知悉《ちしつ》していた。  いや、むしろ彼女の理解に照らしても、ケイネスのマスターとしての立ち振る舞いには大きな不満があったのだろう。 「ランサーの�|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》�はバーサーカーに対してとりわけ有効な宝具だった。さらにセイバーの助勢があれば、あの黒いサーヴァントは苦もなく倒せていたでしょう。敵の一人を、とりわけ効率良く排除できるチャンスだったのよ」 「……君はセイバーの脅威を知らない」  やり場のない憤りを噛み殺しつつ、|掠《かす》れた声でケイネスは反駁する。  彼とて許嫁の聡明さとその分析眼には一目置いている。が、断じてソラウは彼の盟主でも司令塔でもない。ケイネスは一人のマスターとして、徹頭徹尾、彼自身の判断で戦う覚悟でいる。それ以上に、未来の妻となるべき女性に、こうも頭ごなしに|罵《ののし》られたのでは、男としてのプライドが成り立たない。 「私はマスターの透視力で、あのセイバーの能力を把握できた。あれはとりわけ強力なサーヴァントだ。総合力ではディルムッドを|凌《しの》いで余りある。あの場で、着実に倒せる好機を逃すわけにはいかなかった!」 「貴方って人は……自分のサーヴァントの特性を、本当に理解しているのかしら?」  断固と言い放つケイネスを、だがソラウは冷ややかに鼻で|喘《わら》った。 「何のための�|必滅の黄薔薇《ゲイ・ボウ》�だと思っているの? すでに治癒不可能の手傷を負わせたセイバーは、捨て置いたところでいつでも倒せたのよ。それよりも、あの時点では正体不明のバーサーカーの方が脅威度は上だったわ」 「……ッ」  すかさず反論しようとしたものの、ケイネスは言葉に詰まった。論で折れたというよりも、ソラウの威厳と剣幕に、わずかながらも|怯《ひる》みが入ったのである。 「第一、そこまでセイバーを危険視していたのなら──」  その沈黙の|隙《すき》を逃さぬとばかりに、ソラウは重ねて畳みかけた。 「どうして貴方、セイバーのマスターを放っておいたの? あんなに無防備に突っ立ていたアインツベルンの女。ランサーがセイバーを引きつけている隙に、貴方は敵のマスターを攻撃できたんじゃなくて?  なのに貴方がしたことはといえば……最後までただ隠れて見てただけ。情けないったらありゃあしない」  深々と|嘆息《たんそく》するソラウを、ケイネスは怒りと屈辱にわななきながらも、ただ黙して|睨《にら》み返すしかなかった。  他の何者であろうとも、ケイネスはこんな侮辱に耐えたりはしない。ロード・エルメロイの威信に賭けて、侮辱にはそれに倍する意趣がえしで応えてみせる。  だがこの地上において只一人、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリだけは例外だ。  恩師の娘という立場もある。彼女との婚礼によりもたらされる地位と名誉、約束された将来への執着もある。だが何よりも勝るのは、理屈ではない情念だ。  この大粒の宝石のように高慢で|怜悧《れいり》な令嬢こそは、若き天才魔術師が、一人の男として恋いこがれた|只《ただ》一人の女性であった。  一目見たときから、まだ言葉を交わすより以前から、ケイネスの心はソラウの|虜《ごりこ》だった。支配力の位置づけでいえば、とうに彼は許嫁の風下に立っているのだ。ただそれは、誇り高きケイネスの深層心理が頑として理解を拒んでいる現実であったのだが。  そんなケイネスの鬱屈した心中に、さすがに察しがついたのか、ソラウはやや口振りを和らげて|椰楡《やゆ》する語調に切り替えた。 「ケイネス。貴方は自分が他のマスターに対してどういうアドバンテージを持っているのか、理解していないわけじゃないでしょう? 他でもない貴方自身が工夫したことじゃない」 「それは──無論──」 「マキリが完成させた本来の契約システムに、さらに独自のアレンジを加えてのけた貴方は、たしかに天才だわ。さすが|降霊科《ユリフィス》随一の神童と謳われただけのことはあるわよね」  賛辞の言葉などは聞き飽きるほどに聞いてきたケイネスだが、それがソラウの口から出るならば、決してまんざらなものではない。  事実、ソラウのその評価はただの|追従《ついしょう》などではない。今回の聖杯戦争に臨んでケイネスが用意した秘策は、『始まりの御三家』が敷いた戦いのルールを根底から覆すほどの意味があった。  サーヴァントとマスターの、本来なら単一しかない因果線を、二つに分割して配分する変則契約。魔力供給のパスと、令呪による束縛のパスとを分割し、別々の召喚者に結びつけるという荒技を、ケイネスはその才能の|閃《ひらめ》きによって実現させていたのである。  令呪を宿すマスターとしてのケイネスとは別に、サーヴァントを支える魔力の供給源となっている二人目の魔術師……それが他ならぬソラウであった。まさにこの男女は二人で一組のマスターだったのだ。 「──でもねケイネス。貴方は魔術師として一流でも、戦士としては二流よ。せっかくの下準備を、戦略的にまったく活かしていないじゃない」 「いや、私は……」 「ねぇ、何のために私がランサーへ魔力を送っていると思うの? 本当なら貴方が支払うべき代価を、私が肩代わりしてるのよ? すべては貴方の戦いを有利に運ばせるため。貴方に聖杯戦争を勝ち抜かせるため。  貴方、サーヴァントという枷を負った他のマスターに対しては圧倒的に優位に立てるのよ。自分の魔力は自分自身の魔術を行使するために総動員できるんだから」 「だが……戦いはまだ序盤なんだ。緒戦のうちは慎重に……」 「あらそう? なのにランサーにだけは結果を急がせるわけ?」 「……」  最初の詰問に比べれば柔らかい口調ではあったが、それでもソラウは、言外にケイネスを臆病者と罵っているも同然だった。ケイネスはなおいっそう|膨《ふく》れあがる|恪気《りんき》を|喉《のど》に詰まらせて、みるみる顔色を失っていく。 「ランサーを責める前に、まずは自分を省みるべきよね。ケイネス。今夜の貴方は──」 「ソラウ様、そこまでにして頂きたい」  |凛《りん》と、低く通る声がソラウを制止する。  ランサーだった。いつの間にか彼は面を上げて、ソラウを真っ直ぐに見据えていた。 「それより先は、我が|主《あるじ》への侮辱だ。騎士として見過ごせぬ」 「いえ、そんなつもりじゃ……御免なさい。言い過ぎたわ」  たった今まで、女帝さながらに厳しい剣幕でまくしたてていた令嬢は、ランサーに|籍《たしな》められるや否や、途端に恥じらうように目を伏せて、なんと詫びの言葉まで口にした。誰がどう見ても極端すぎる豹変だった。  とりわけケイネスの胸中に、その光景は黒く鬱屈した感慨を呼び込んだ。あのソラウが、ただ一言の|諌言《かんげん》で我を折るなどということはまず有り得ない。少なくともケイネスの言葉がそんな効果を上げたことは一度もない。彼は遠からず彼女を|嬰《めと》る男である。ソラウは彼の妻となるべき女である。だが彼女にとっては、たかがサーヴァント風情の言葉が、未来の夫の言葉よりも重いとでもいうのだろうか?  そもそも立ち返ってみれば、ソラウはランサーを|庇《かば》うようにしてケイネスを論破しにかかってきた。彼女はただ単に、ランサーが叱責される様を見かねただけだったのではあるまか?  ケイネスは、伏し目がちにランサーを眺めるソラウの眼差しに、許嫁である自分にはまったく未知の感情が込められているような感覚を懐いた。そして視線を転じれば、何事もなかったかのように今も自分の足許に膝を屈しているランサーの──その左目の下で黒々と輝くかのような黒子を意識せずにはいられない。あらゆる|雌《めす》を虜にするというディルムッド・オディナの『魅惑の黒子』……  邪推するのは愚かしい。常人ならいざ知らず、ソラウは名家ソフィアリに連なる魔道の女である。いかに魔術刻印を嗣がぬ身とはいえ、たかだか魅惑程度の呪的影響に対しては充分すぎる以上の抵抗力を備え持っているはずだ。  |勿論《もちろん》それは、まず本人に抵抗しようという意志があって初めて効果を発揮するのだが──そのとき、何の前触れもなく鳴り響いた防災ベルの騒音が、ケイネスの諸々の想念を断ち切った。 「……なに? 何事?」  ソラウが当惑の眩きを漏らすと、さらに続いて部屋に備え付けの電話がベルを鳴らしはじめる。ランプの点灯はフロントからの着信を表示していた。  慌てす騒がず、ケイネスは受話器を取り上げて係員からの連絡に耳を傾ける。話を聞き終える頃には、その眼差しは魔術師ならではの怜倒な鋭さを取り戻していた。 「下の階で火事だそうだ。すぐに避難しろと言ってきた」  受話器を放り捨てるようにして戻しながら、ケイネスはソラウに告げる。 「|小火《ぼや》程度のものだそうだが、どうやら火元は何ヵ所かに分散しているらしい。まぁ間違いなく放火だな」 「放火ですって? よりによって今夜?」 「フン、偶然なわけがあるまいさ」  ケイネスは不敵に嘘った。胸の内を焦げ付かせていた諸々の憂鬱は、すでに微塵も残っていない。 「人払いの計らいだよ。敵とて魔術師。|有象無象《うぞうむぞう》どもがひしめく建物で勝負を仕掛ける気にもならんだろうからな」  ソラウが緊迫した面持ちで息を呑む。 「じゃぁ──襲撃?」 「おそらくは。先の倉庫街でまだ暴れ足りないという|輩《やから》が、押し掛けてきたのだろう。面白い。不本意だったのはこちらも同じだ。そうだろう? ランサー」 「はい。確かに」  ランサーは迷いなく頷く。まだ見ぬ敵の素性には、期待するところがあった。七人のマスターのうち、こうも事を急いてまでケイネスを狙ってくる者がいるとするならば、心当たりは一人しかない。──�|必滅の|黄薔薇《ゲイ・ボウ》�の傷を受けたセイバーのマスターであれば、可能な限り早急に槍の呪いを解消したいところだろう。 「ランサー、下の階に降りて迎え撃て。ただし無碍に追い払ったりはするなよ」  含みを持たせたケイネスの指示に、ランサーは頷いた。 「承知しました。襲撃者の退路を断ち、この階に追い込めば宜しいのですね?」 「そうだ。ご客人にはケイネス・エルメロイの魔術工房をとっくりと|堪能《たんのう》してもらおうではないか」  金額にものを言わせてフロアひとつを借り切ったのは、ここを活動の拠点として徹底的に|改《・》|装《・》する必要があったからだ。もちろん物質的な意味ではなく、魔術的な強化である。この三二階にケイネスが敷いた結界の数は二四層。まさに魔術城壁とも言うべき備えである。さらに彼専用の魔力炉を三器と、猟犬代わりに召還しておいた悪霊、|魍魎《もうりよう》が数十体。 トラップにもぬかりはなく、廊下の一部には異界化させている空間まである。  敵地においても、まず自陣たる工房を完壁に整えるのは魔術師として当然の|嗜《たしな》み。そこへむざむざ踏み込んでくるという挑戦者には、ロード・エルメロイの真の恐ろしさを徹底的に理解させてやらねばならない。 「他の宿泊者どもが引き払えば、もう何の遠慮もいらない。お互い存分に秘術を尽くしての競い合いができようというものだ」  抑えきれぬ笑いが、ケイネスの喉の奥から湧いて出た。歓喜すら伴う武者震いが総身を駆け抜ける。  今まさに彼が必要としていたのは行動だった。ソラウに味わわされた屈辱感を帳消しにするだけの行動と結果。天才と謳われた持ち前の潜在力を存分に発揮し、おのれの有能さを証明できるだけの状況。  そう、まさしく今のケイネスは血に飢えていた。彼が内側で持て余す黒い|憤怒《ふんぬ》の念は、もはや誰かの血をもってしか鎮めようがなくなっていた。不幸にも今この瞬間に襲いかかってきた敵対者こそは、格好の生賛に他ならない。 「私が戦士として二流だという指摘、すぐにも撤回してもらうよ、ソラウ」 「ええ、もちろん期待してるわよ」  普段は気難しいばかりの許嫁から、このときばかりは満面の笑みを投げ渡されて、ケイネスはより一層に闘志を|昂《たかぶ》らせた。        ×                ×  就寝中を火災警報に叩き起こされ、屋外駐車場に誘導された宿泊客たちは、火事への恐怖と、眠気と寒さの不快感とが相半ばする蟄め面で居並んでいた。そんな人々の間を、ホテルの従業員たちが慌ただしく右往左往している。 「……アーチボルト様! ケイネス・エルメロイ・アーチボルト様! いらっしゃいませんか?」  宿泊者名簿にある名前のうち、まだ点呼の取れていない最後の一組を捜し求めて、宿直のフロント係が声を張り上げる。最上階のスイートルームをフロアごと借り切った大金持ちの奇人の存在は、全ホテルマンが注目していた。ある意味では、誰よりもトラブルに遭ってほしくはない最重要人物である。 「アーチボルト様! いらっしゃいませんか──!?」 「──はい私です。ご心配なく」  背後から、落ち着き払った声でそう返答され、フロント係は振り向いてから当惑した。 彼に声をかけたのは、くたびれたコート姿の冴えない日本人男性である。  悪戯にしては度が過ぎる。苛立ったフロント係は相手を糺す言葉を口に出そうとして──その男の目に釘付けになった。  得体の知れない吸引力で、相手から目を反らすことができない。思うように声を出すこともままならない。 「ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは私です。妻のソラウともども避難しました」  誰とも知れぬ東洋人は、落ち着いた明瞭な声で、言い含めるようにそう宣言する。奇妙に霜のかかった思考のまま、フロント係は何の疑いもなくその言葉を受け入れた。 「……そうですか。ああ、はい。そうでしたか」  フロント係は、手にした名簿に�避難済み�とチェックを入れ、宿泊客全員の安否が確認されたことで|安堵《あんど》の溜息をついた。たったいま交わした|ア《・》|ー《・》|チ《・》|ボ《・》|ル《・》|ト《・》|氏《・》|と《・》|の《・》|会《・》|話《・》については、疑問も違和感も、跡形もなく消え失せていた。  引き続き、他の避難客たちへの対処に奔走するフロント係を見送ってから、衛宮切嗣は人混みを離れた。当座|凌《しの》ぎの|暗示《リライト》だが、一般人の魔術抵抗力などはたかが知れている。しばらくは破れることはない。  ホテルから一区画ほど離れた物陰で、誰の視線もないことを確かめてから、切嗣はボケットの|携帯《けいたい》電話を取り出した。こういう道具が民間に普及したことで、切嗣の仕事は昔より大いに助けられている。簡易で万能な無線端末でありながら、誰が持っていようとも怪しまれることはない。  まずは、監視ポジションにいる|舞弥《まいや》に連絡。 「準備完了だ。そちらは?」 『異常なしです。いつでもどうぞ』  舞弥が配置についているのは、冬木ハイアットホテルの|斜向《はすむ》かい……未だ建設中である高層ビルの上階である。どこよりも近接した位置からケイネスたちのいる部屋を見張れるよう、切嗣が指示したポジションだ。  短く一息つき、切嗣は片手でポケットの中から煙草の紙箱を探り出しつつ、残るもう一方の手で携帯電話に一連の番号を打ち込んだ。  呼び出されるのは、架空名義で登録されたポケットベルである。ただし振動も呼び出し音も発しはしない。着信は改造された回路を通じて、C4プラスチック爆弾に接続された起爆信管に送られる。  爆発そのものは小規模なもので、無人のホテルの外には音さえ漏れることはなかった。  が、代わりに夜気の中に響き渡ったのは、鉄筋コンクリートが|軋《きし》みをあげる不気味な断末魔であった。  異常に気付いた避難者たちが、頭上に|省《そび》える高層建築の異変を見て悲鳴を上げる。 「ホテルが、ホテルが崩れる!」  崩壊は無駄なく速やかに、そして徹底的だった。  全高一五〇メートルに及ぶ高層ホテルは、直立の姿勢を保ったまま、まるで大地に吸い込まれるようにして崩落した。すべての外壁が内側に向けて倒壊したために、周囲には破片ひとつ飛び散ることなく、代わりに崩落で押し出された大気が粉塵を巻き上げて、さながら入道雲のような煙幕となって周囲一帯の街路を|躁躍《じゅうりん》した。  |爆破解体《デモリッンョン》──主に大規模な高層建築の解体に使われる高等な発破技術である。強度上の要となる支柱をピンポイントで破壊することにより、ビル自体の重量でもって全体を内側へと圧壊させる。最小限の爆薬で、効率よく確実にビルを|瓦礫《がれき》の山へと変えるテクニックだ。古今東西の破壊工作に精通する衛宮切嗣は、この破壊の芸術ともいうべき専門技法にも心得があった。  冬木市に既存の建物で、魔術師が根城に選びそうなものは、すべて切嗣の破壊対象としてリストアップされている。この冬木ハイアットもその一つだった。予め建設図面は取り寄せてあったし、爆発物設置のポイントも見定めておいた。準備は万端。実作業には小一時間とかからなかった。  崩落の危険域からは離れた場所にいた避難者たちだったが、それでも粉塵の洗礼をもろに浴びた彼らはパニックに|陥《おちい》り、我先にと逃げ出して往来に散っていく。それを後目に見遣りながら、切嗣はようやく風圧が収まったところを見計らって、|衛《くわ》えていた|煙草《たばこ》に火を|点《つ》けた。 「舞弥、そっちは?」 『最後まで三二階に動きはありませんでした。標的はビルの外には脱出していません』  と、いうことは──切嗣は灰儘に帰した冬木ハイアットホテルの残骸を、冷ややかな満足感とともに一瞥しつつ思った──『ロード・エルメロイ』ことケイネス卿は、哀れあの瓦礫の山の仲間入り、ということで間違いない。  ケイネスのいた三二階は、爆破解体の連鎖的破壊によって支えを失い、最終的には地上一五〇メートルの高みから自由落下して叩きつけられたに等しい。どんな魔術結界で防備を固めていたにしろ、そんな破滅的な状況から室内の人間を保護する術はあるまい。  しゃくり上げる子供の泣き声が、切嗣の注意を瓦礫の山から引き戻した。  怯えて泣きじゃくる子供を抱きかかえた母親が、一心不乱の足取りで切嗣の傍らを通り過ぎていく。着の身着のままの寝間着姿は、全身に粉塵を浴びて真っ白に汚れ、見るも無惨な有様だった。  その後ろ姿に、切嗣は目を逸らすこともできずに|凝《じ》っと見入り……指を焦がす煙草の熱気で、ようやく我に返ると、半分以上が灰になった吸いさしの煙草を投げ捨て、苛立ち紛れに踏みつける。  衛宮切嗣は、気の迷い、などというセンチメンタリズムを自分に許すことは決してない。 そんな弱体は命取りに直結する。だが、自分自身の失敗から目を逸らすのも、それはそれで冷静な態度ではない。  そう。認めたくはないが、事実だった。──惨劇から逃げる母子の姿に、ほんの一瞬だけ、イリヤとアイリの姿を重ねて見てしまった。  かつての切嗣がやってきたことは�犠牲の分別�だ。すべての命を等価に計り、より犠牲の少ない道を選択する。その判定においては女子供の命でも特別視などしなかった。  聖杯は世界を救う。そしてケイネスは聖杯獲得のために排除せざるを得ない障害だった。冬木ハイアットの中にいた人間ぇそ一〇〇人余り。対して聖杯が救済するのはざっと五〇億人以上。必要とあらば切嗣は、宿泊客全員をケイネスの巻き添えにすることも辞さなかっただろう。  ならばなぜ自分は、わざわざ事前に小火騒ぎなど演出したのだろうか?  当初それは、当然の策術だと思えた。ケイネスに|罠《わな》よりも襲撃を警戒させて、籠城策を取らせるためのブラフとして。実際それは功を奏した。かの天才魔術師は迎撃に鉄壁の自信を誇っていたと見えて、まさか床板そのものが崩れ落ちるものとはつゆ知らず、罠の内側に留まり続けた。  だが、本当に自分の真意はそれだけだったのだろうか?  無関係な宿泊客を避難させたいという感傷が、無意識のうちに働いたのではあるまいか?  だとしたらそれは、致命的な甘さだ。戦場においては必ずや命取りになる。  胸の内に生じたわずかな動揺を鎮めようと、切嗣は新たな煙草に火を点けた。  衰えている。程度はどうあれ明らかに、今の自分は九年前の衛宮切嗣に劣っている。こんな調子で聖杯戦争を勝ち抜こうなどと思うのは甘い見込みだ。どうにかして、往年の冷酷さと判断力を取り戻さなくてはならない。一刻も早く。  異変に目を覚ました深夜の町が、ようやく騒動の兆しを見せはじめた。わらわらと街路に群れ集まってくる野次馬たちを後目に、切嗣は紫煙を深く吸い込んで気持ちを切り替えると、舞弥に撤退を指示するべく携帯電話を耳に当てた。  だが彼の耳に届いたのは部下の声でなく、冷え冷えと刃を鳴らす金属質の|轟《とどろ》きだった。             ×               ×  未だ名もなき鉄骨の|櫓《やぐら》。やがて落成の暁には、冬木センタービル三八階と呼ばれることになるであろう場所。  建設工事の行程は半ばを過ぎ、いよいよ外装に差し掛かろうかという段階である。後の冬木市新都のランドマークともなるべき複合高層ビジネスビルも、まだ今は鉄筋コンクリートの地肌を剥き出しにしたまま、夜空を吹き抜ける強風に|晒《さら》されている。  地上の街の灯からも、天上の星明かりからも、等しく遠い虚空の闇。そんな直中に|久宇《ひさう》舞弥はいた。片膝立ちのまま微動だにせず、ついさっきまで肩付けして構えていた暗視装置付きAUG突撃銃は、立てた左膝の上に預けてある。  万が一にも魔術師ケイネスが切嗣の罠に気付き、窓の外か屋上へと逃れようとした場合には、ここから舞弥が銃撃して仕留める手筈であった。結局、その備えは杞憂に終わったが。 『舞弥、そっちは』  耳に|挿《さ》したイヤホンから、地上にいる切嗣の声が問うてくる。両手でライフルを扱う都合上、舞弥は携帯電話にインコムを装着してハンズフリー方式で使用していた。 「最後まで三二階に動きはありませんでした。標的はビルの外には脱出していません」  口元のマイクに向けて、舞弥は見届けたままを手短に報告する。たったいま壊滅的な破壊を目の当たりにした直後でありながら、昂揚は微塵もない。  この場での監視任務は終わった。出番のないままに終わった突撃銃から弾倉と銃身を取り外し、ケースに収納して肩に背負うと、舞弥は立ち上がって階下に降りる階段を目指す。  異状に気付いたのは、そのときだ。  臭いや物音といった兆しではない。もっと不明確な気配の変化。修羅場で研ぎ澄まされてきた兵士の直感のみが、明確に捉えうる気配。 「──察しがいいな。女」  立ち止まった舞弥の背中に、低く冷ややかな男の声が投げかけられる。声は林立する鉄骨の中で反響し、その出所は判然としない。  舞弥は|誰何《すいか》などしなかった。ただ平静に、かつ刃のように神経を尖らせて周囲を探りつつ、腰のホルスタ──から9�口径のグロッグ拳銃を抜き放つ。  この場に居合わす第三者、それも舞弥の存在を意識している何者か──それだけの理由で、彼女はそれを射殺の対象と見なしていた。 「──フン、それに覚悟もいい、か」  姿なき男の声音に、小馬鹿にしたような含笑が加わる。  とある柱の陰から、何かがゆるやかな放物線を描いて舞弥の足下にまで放り込まれた。  |咄嵯《とっさ》にグロッグの銃口は|投郷物《ごうてきぷつ》を追ったものの、それが危険物でないと見て取った時点で、舞弥は即座に照準を投榔者の居所に切り替えた。だがそれでも視界の隅には、足下に落ちたモノが引っかかって離れない。そのぐらい、舞弥にとっては意識を向けざるを得ない代物だったのだ。  小動物の死骸、である。  |蠕蟷《こうもり》。それも腹にCCDカメラを括りつけられたそれは、まぎれもなく舞弥が放った使い魔であった。冬木教会の近辺に待機させたきり、消息を絶っていた一匹である。  その死骸をわざわざ投げ寄越してきた者、ともなれば、その正体はもう問うまでもない。 相手もまた隠すつもりはなかったのだろう。ゆっくりと身を潜めていた柱の陰から歩み出て、舞弥の視線と銃口の前に身を晒した。  名伏しがたい威圧感を漂わせる長身の男であった。影そのものが厚みを得て立ち上がったかのような、漆黒の僧衣姿。舞弥にとって見知らぬ人物ではなかった。 「|言峰《ことみね》、|綺礼《きれい》……」 「ほう? 君とは初対面なはずだが。それとも私を知るだけの理由があったか? ならば君の素性にも予想はつくが」  舞弥は咳きを漏らした|迂闊《うかつ》さを悟って、胸の内で舌打ちした。  綺礼は舞弥の銃口に怖じる素振りすら見せず、泰然と言葉を続ける。 「そうだとすれば、君は他にも色々と知っていただろうな。ここが冬木ハイアットの三二階を見張るには絶好の位置だったことも、あのホテルに誰が|逗留《とうりゅう》していたのかも」  今度は舞弥は沈黙を通した。だが胸の内では、いったい何を思って聖杯戦争のマスターの一人が……それも周到に姿を隠していたはずの言峰綺礼が、おめおめとこの場に姿を現したのか、その真意を推し量るのにかかりきりだった。  その一方で、綺礼はわずかに首を巡らせてビルの外──もはや舞い上がる粉塵の|霧《もや》だけを残して跡形もなく消え失せた冬木ハイアット・ホテルの位置を見やり、呆れ果てたと言わんばかりに長い溜息をつく。 「それにしても──建物もろともに爆破するとは。ここまで手段を選ばぬ輩が魔術師とは到底思えんな。或いは、よほど魔術師の裏をかくのに|長《た》けている、ということか?」 「……」  この男は──舞弥はかすかな驚きとともに悟った──知っているのだ。衛宮切嗣を。ちょうど切嗣が言峰綺礼を知るのと同様に。 「私にばかり|喋《しやべ》らせるな、女。返答はひとつだけでいい。──おまえの代わりにここに来るはずだった男はどこにいる?」  そう問われた時点で、舞弥は言峰綺礼についての判断を保留した。その真意を判ずるまでもなく、この男は殺すしか他にないと結論した。  舞弥の速射は銃声に間断すら挿まず、三重奏の轟音を鳴り響かせた。|軍用弾《パラペラム》と呼称される9�口径の威力は、殺傷力として必要に足るものではあるが、それでも充分に過ぎるという程ではない。よって腹を狙っての三連射がプロフェッショナルの心得だ。即死に至る小さな急所より、より大きく狙いやすい箇所から重傷に至らしめる。殺人術としての射撃の鉄則であった。  にも拘わらず、フルメタルジャケットの鉛弾が挟ったのは僧衣の下の内臓でなく、堅く脆いコンクリートの床面だけだった。  身を躱わした綺礼の動きは、たしかに信じがたいスピードではあったが、なにも銃弾の超音速より速かったわけではない。舞弥が照準を定めてから引金を引き絞る、その思考の速度に先んじただけのことである。驚嘆すべきはその戦術判断だ。舞弥の視線から照準点を、銃の反動に備えた四肢の緊張から発砲のタイミングを読みとって、銃弾を見切ってのけたのである。たとえ魔術の域にはなくとも、既に常人に為せる業ではない。  のみならず──  咄嵯に身を|翻《ひるがえ》して物陰に隠れたのは、舞弥の方だった。空になった右手にはべったりと|血糊《ちのり》がつき、そこに握っていたはずのグロッグは空しい音を立てて床面を転がり飛んでいく。そして彼女の驚嘆の眼差しが見つめるのは、さっきまで彼女が背にしていた鉄柱に突き立つ、冷ややかな刃の光であった。  刃渡り一メートル余りの薄刃はフェンシングフォイルを連想させるが、刀剣にしては柄が極端に短い。『黒鍵』と呼ばれる、聖堂教会の代行者が使う特徴的な投櫛武器である。たった今、舞弥の右手の甲を浅く裂いてグロッグを取り落とさせた刃がそれだった。綺礼は銃の弾道から逃れる動作と連動して、この剣を投げ放っていたのだ。  手投げ武器でありながら鉄骨に突き刺さる程の威力。それでいて必殺を期したわけでもなく、狙いはあくまで舞弥の手からグロッグを奪うためだけのものだった。武器だけでなく舞弥の戦意までも奪おうという意図があってのことだろう。生かしたまま捕らえようというのだ。──舞弥は、まだ先の綺礼の問いに答えていない。 「動きもなかなかに悪くない。相当に仕込まれているようだな」  攻守逆転して完全に優位に立った綺礼が、|焦《あせ》ることもなく悠然と歩み寄ってくる。その両手にはさらに一本ずつ新たな黒鍵が抜き放たれていた。長い刃は魔力を編んで構成された半実体で、携行時には小さな柄部分だけを隠し持っておけばいい。綺礼があの長い僧衣の下にあと何本の黒鍵を潜ませているのかは見当もつかない。  聖堂教会においては代行者の基本装備のひとつに数えられている黒鍵だが、その取り扱いは難しく、実戦において使いこなせるのはごく一握りの達人のみであるという。そういう希有な一人に、どうやら舞弥は行き会ってしまったようだ。  舞弥は武人ではなく兵士である。己が身につけた戦闘術には誇りも愛着もなく、ただその効果を推し量るのみだ。そんな彼女の思考は、何の執着もなく�敗北�を認めていた。 言峰綺礼の戦闘能力は、明らかに自分のそれを凌駕している。装備もなく、策略も地の利もない、そんな状況下で対峙していい相手ではない。 『どうした舞弥? 何があった?』  耳のインカムから切嗣の問う声が届く。ポケットの中の携帯電話は、まだ地上の切嗣と繋がったままだ。が──答えるわけにはいかない。舞弥の声は綺礼に聞かれる。あの恐るべき代行者が本命として狙っているのは、舞弥ではなく切嗣だ。綺礼が察している通り、彼女が切嗣の部下であり、その指示に従って動いているという事実には、この場で確証を与えるわけにはいかない。 「どうした? 助けを呼ばないのか? 衛宮切嗣は近くにいるんだろう?」  もはや綺礼はその名を口にすることを慎みもしなかった。彼もまた確信していたのだ。 アインツベルンに囲われた切嗣が今回の聖杯戦争に噛んでいるのなら、間違いなく今夜のうちに動くと。  ディルムッドの黄槍の呪いは、その伝承により明らかだ。緒戦で片手を封じられたセイバーは、残る六人のサーヴァントがすべて健在である現状、いの一番に脱落しかねない|窮地《きゅうち》にある。呪いの源であるランサーを一刻も早く排除するのが、アインツベルン陣営の急務なのは間違いない。  だから綺礼はケイネスの拠点の傍で|網《あみ》を張り、襲撃者を待ち受けた。結果、ここぞと見定めた場所に姿を現したのは、衛宮切嗣ではない別人だったが、彼女が切嗣の指示で行動していることに綺礼は確信を持っていた。いま追いつめたこの女こそ、切嗣に至る鍵になろう。  殺してはならない。生かしたまま捕らえる。とはいえ口さえ利ければいいのだ。腕や足まで残しておく必要はない。  冷酷な判断を胸に秘めたまま、綺礼は柱の影に身を潜めた女へと詰め寄っていく。すでに相手は丸腰のはずだ。いったん解体してしまった突撃銃はすぐに組み立て直せるものではないし、弾き飛ばされた拳銃を拾いに走る猶予もない。勝敗はすでに決している。  だがそのとき綺礼を阻んだのは、予期すらしなかった妨害だった。  突如、目前の獲物との間に割り込んで視界を覆い尽くした白い闇。化学反応の刺激|臭《しゅう》が鼻をつく。 �煙幕!?�  猛烈な勢いで辺り一面に充満したのは、軍用の携行発煙筒の煙だった。視野を封じられて綺礼が怯んだその隙に、|脱兎《だっと》の如く駆け去る足音がコンクリートのフロアに反響する。  逃げる女を目掛けて、綺礼は音だけを頼りに黒鍵を投げ放とうとしたが、すんでの所で思いとどまった。歴戦の代行者としての直感が、迂闊に動いてはならないと告げていた。  両手の黒鍵を構えたまま、綺礼は油断なく周囲の気配を探りつつ煙幕が晴れるのを待った。強風が吹き抜ける剥き身のビルの中とあって、濃密な煙幕も数秒とかからず吹き払われる。──が、それは女が姿を|眩《くら》ますには充分な時間だったようだ。  独り、無人のフロアに取り残されているのを知って、綺礼は鼻を鳴らしつつ黒鍵を収納した。深追いをする気はない。そこまで|侮《あなど》ってかかれる敵でもあるまい。  置き土産とばかり床に転がっていた使用済みの発煙筒を拾い上げ、|検《あらた》める。米軍の装備品で手投げ式のタイプだ。特殊なものではなく、然るべきコネさえあれば誰にでも調達できる。  あの女が投げたものではない。そんな素振りを察していれば即座に黒鍵を投じて阻んでいた。誰か別の人間が、綺礼の前に投げ込んだのだ。あの女を逃がす意図で。  無論、このフロアに第三者がいたわけではない。とあれば、この発煙筒はビルの外から放り込まれたと判断するしかない。  綺礼はフロアの縁まで歩み寄り、強風に僧衣を煽られるのも構わず眼下を|眸睨《へいげい》した。  冬木ハイアットが消滅した今、肩を並べるような高層建築は周囲にない。地表から、このフロアを狙ったのだとすれば──高度差は一五〇メートル余り。グレネードランチャーを使ったとしても正確な射撃は至難の業だ。それが手投げ式の発煙筒ともなれば、悪い冗談でしかない。  だが綺礼は、かつて幾多もの魔術師を仕留めてきた異端狩りの代行者である。条理の外にある敵と渡り合うのは慣れていた。この程度の怪異は驚嘆に値しない。  眼下に|瞬《まだた》く街の灯、その隙間にわだかまる闇のどこかに、彼を|阻《はば》んだ魔術師がいる。  それを確認できただけでも、今夜のところは収穫だ。  そのとき、綺礼は|傍《かたわ》らに忍び寄る冷ややかな異形の気配を感知した。 「アサシンか?」 「は。恐れながら」  綺礼の膝下に屈する姿勢で、漆黒のローブ姿が実体化する。いかにもアサシンのサーヴァント──つい先刻、遠く離れた国道沿いの森の中でセイバーとキャスターの濯遁を見届けた三人のうち、伝令役を請け負った一人であった。 「市街ではみだりに姿を晒すなと言っておいた|筈《はず》だが?」 「申し訳次第もありませぬ。ですが、早急に御耳に入れておかねばならぬ議がございました故……」 [#改ページ]   -144:09:25  一連の死闘の夜が明け、東の空に|黎明《れいめい》の差し掛かる頃、綺礼は魔導通信機で深山町の遠坂邸を呼び出した。父の|璃正《りせい》も交えて、緊急の対策会議を開くためである。 『そうか。ついにキャスターも捕捉したか』  |真鍮《しんちゅう》の朝顔から流れ出る|時臣《ときおみ》の声は満足げであった。綺礼とアサシンの働きは目論見通りの効果を発揮している。自身のサーヴァントには手を焼かされているものの、|弟子《でし》の方の首尾はすこぶる順調であった。 「さすがに魔術師の英霊だけあって、私のアサシンでも気取られることなく『工房』の近辺にまで踏み込むことは困難です。それでも|大凡《おおよそ》の位置は特定できたので、現在も周囲一帯を包囲して監視下に置き、キャスターが工房の外にいる間の動向は逐一、把握しております」 『つまり、キャスターは工房に|籠城《ろうじょう》するのでなく、その外で活発に活動していると?』 「はい。それなのですが……」  報告の後に予期される時臣の剣幕を思って、綺礼はその先を言い|淀《よど》んだ。それほどキャスターとそのマスターの行動は、由々しい事態を招いていたのだ。 「……二人は深山町から隣市を股に掛けて、就寝中の児童を次から次へと誘拐して回りました。夜明けまでに一五人です。その大方については穏便に事を運んでいましたが──うち三件では家人が目を覚まして騒ぎになり、一家皆殺しという結末に」  通信機の向こうの気配だけでも、時臣の動揺はまざまざと伝わった。相手が何か言う前に、綺礼は重ねて追い打ちをかける。 「キャスターは何の配慮もなく魔術を行使し、その痕跡の|秘匿《ひとく》も一切行っていません。既に父の指示で、聖堂教会のスタッフが隠蔽工作を遂行中です。が……今後にキャスタ〜とそのマスターが行状を改めるとも思えません」 『……いったい何を考えているんだ? 何者なのだ? キャスターのマスターは』 「アサシンの聴覚で、二人の会話を盗み聞いた限りでは──マスターは、キャスターを召還するより以前から同じような凶行を重ねていた模様です。まだ確証はありませんが、この男、いま評判の連続殺人犯と同一人物ではないかと」 『……ッ』  苦い陣きを漏らして、時臣は押し黙った。  今月に入ってから報道を賑わせている『冬木市の悪魔』こと謎の連続殺人犯。近年希に見る残虐な手口を揮い、市内だけで既に四件、しかも最後の一件については就寝中の家屋に忍び込んで一家全員を惨殺したという、極めつけの凶悪犯である。すでに冬木市警察は捜査本部を設け、近隣の所轄とも連携して総動員態勢で事件の解決を急いでいるのだが、依然、容疑者どころか犯人像すらも特定できないのが現状だ。  時臣にとっては、よりにもよって聖杯戦争の実施に重なってこんな大事件が引き起こされたのは頭痛の種でしかなかったが、それはすべてのマスターにとっても同じ思いのはずだった。聖杯戦争の進行は秘密裏に行われるのが鉄則だ。今の時期にこの土地が世間の注目を|惹《ひ》くような事態を、歓迎する者がいよう筈がない。  そもそも、なべて魔術師とは|秘蹟《ひせき》の担い手である。誰であろうとも魔術の存在が公にならないよう、己の業を徹底して秘匿するし、守秘を徹底できないような愚か者は速やかに魔術協会によって排除される。こと事態の隠滅に関する限り、魔術協会は断固として徹底的だ。その追及を恐れない魔術師などいはしない。  従って──仮にも魔術師の端くれたる者が、連日に渡って三面記事の紙面を飾るような|狼藩《ろうぜき》者であり、のみならずサーヴァントを従えるマスターであるなどとは、二重の意味であり得ない事態である。 『……その二人組についてだが、何か身元の知れる手掛かりはないのか?』 「両者の呼称を聞き取ったところ、マスターの名は『龍之介』、またキャスターは『青髭』と呼ばれている様子です」 『|青髭《ブルー・ベア》? ではキャスターの真名はジル・ド・レェ伯か?』 「有り得る話かと思われます。錬金術と黒魔術への耽溺でも知られている人物だけに」  その伝説の知名度からすれば、サーヴァントとして聖杯に招かれたとしても何の不思議もない威名である。ただしその性質は英霊とは真逆──まさに『怨霊』と呼ぶに相応しい存在であろうが。 「会話の流れから察するに、この龍之介というマスターには聖杯戦争の知識どころか、魔術師としての自覚すら備わっていない模様です」 『さもありなん、だな。大方なにかの偶然で、魔術の素養もない部外者がサーヴァントとの契約を果たしてしまったのだろう。……ではそのマスター、サーヴァントの偲縄に成り果てているわけか』 「いえ、それが……」  アサシンの耳を借りて聞き届けた会話の内容を顧みると、さしもの綺礼といえど言葉を濁さざるをえなかった。 「……どうにもキャスター自身の言動もまた、常軌を逸しておりまして。聖杯はすでに我が手にあるだの、ジャンヌ・ダルクの救済がどうの、と、まったく要領を得ない話ばかりです。  私個人の感想としては──キャスターとそのマスターには、もはや聖杯戦争そのものが全く眼中にないのではないかと」  それを聞いて、時臣は内心の腹立ちを吐き捨てるかのように、深々と溜息をついた。 『錯乱して暴走したサーヴァントと、それを律することもないマスター、か。一体どうしてそんな連中が聖杯に選ばれたのやら……』  サーヴァントが人を襲う──それ自体は決して奇異なことではない。魔力を|糧《かて》とする霊的存在であるサーヴァントは、マスターから供給される魔力だけでなく、殺傷した犠牲者の魂を貧ることでも力を得られる。サーヴァントに充分な魔力を提供できない非力なマスターは、時として生賛を捧げることで不足分を補うこともある。  今回の聖杯戦争においても、そういう手合いが現れるであろうことは時臣とて予測の内だった。それ自体はいい。魔術師は条理の外にある存在だ。倫理で是非を問うことはない。無関係な一般人に犠牲が出ようとも、それが慎重に隠蔽され、秘密裏に行われる限りにおいては黙認して横わない。  だがそういった殺獄を|憚《はばか》りなく堂々と繰り広げ、いらぬ騒動を引き起こすとあっては、言語道断というほかない。 「これは放任できんでしょう。時臣くん」  苦虫を噛み潰したような渋面で、璃正神父が口を|挿《はさ》む。 「キャスターたちの行動は、明らかに今回の聖杯戦争の進行を妨げるものだ。ルールを逸脱して余りある」 『無論です。それ以前に、私は魔術の秘匿に責任を負う者としても、断じて赦せない』  遠坂の家門は代々、冬木の地のセカンドオーナー──即ち、この地における霊脈の管理と怪異の監視を、魔術協会から直々に|委託《いたく》されてきた責任職にある。遠坂が『始まりの御三家』の一角に数えられるのも、聖杯戦争の舞台として自らの管轄地を提供したことが要因だ。  従って時臣は、聖杯を巡るマスターとしてでなく、それ以前に地元の責任者としてキャスターたちの狼籍を阻まなくてはならない立場にあるのだ。 「おそらくは、四度目の殺人事件より以降に引き続いている児童失踪事件も、この二人の仕業でしょう」  そう綺礼は淡々と見立てを述べた。 「報道されているだけでも、行方の知れない子供たちは一七人。今朝の�再調達�も含めれば三〇人を越す勢いです。彼らの行状は今後さらにエスカレートしていくものと思われます。父上、早急に手を打つ必要が」 「うむ。既に警告や罰則の程度で済まされる問題ではない。キャスターとそのマスターは、排除するしか他にあるまいな」 「──問題は、そこです。サーヴァントにはサーヴァントを以て抗するしか手段はない。 さりとて、私のアサシンを差し向けるわけにもいきますまい」  綺礼の指摘はもっともだった。わざわざ策を弄して存在を|隠匿《いんごく》したアサシンを、今さら表立って動かすわけにはいかない。  璃正神父はしばし黙考してから、時臣に向けて提案を切り出した。 「若干のルール変更は、監督役である私の権限の内です。ひとまず尋常なる聖杯争奪を保留し、全てのマスターをキャスター討伐に動員しましょう」 『ほう、それは……何か策がおありですか? 神父』 「キャスターを仕留めた者には、後の戦局を有利に運べるだけの恩賞を用意します。他のマスターたちとて、キャスター一人の暴走で聖杯戦争そのものが|破綻《はたん》するような結末は望まんでしょう。必ずや応じてくるはずです」 『 成る程。ゲームの趣向を変えてキツネ狩りを競う、というわけですな』  昨夜の乱戦で手傷を負った者はいれど、まだ脱落したサーヴァントは事実上一人もいない。その全員から一斉に標的とされれば、キャスターの命運は風前の|灯火《ともしび》に違いない。 『しかし、キャスター討伐の報償によって余程のアドバンテージがもたらされるようでは……それが後々に跳ね返って我々の障害になりかねませんな』  通信機越しの時臣の言葉に、璃正神父は含み笑いで応じる。 「無論、それは好ましくない。やはり他の猟犬たちに追いつめられ、消耗しきったキャスターに最後のとどめを刺すのは、アーチャーでなければなりますまい」 『 成る程。当然ですな』  綺礼のアサシンの眼があれば、頃合いを見計るのは造作もない。戦いのルールが変更されても、遠坂陣営の戦術はあくまで同じだ。 「では早速、他のマスターを招集する準備を整えますので」  方針が固まったところで、璃正神父は席を立って地下室を出ていった。綺礼もまた退出しようと腰を上げたところで、時臣の声に呼び止められる。 『──ときに綺礼、聞けば昨夜の君は冬木教会の敷地を出て行動を起こしたそうだが?』 時臣の追及を受けるのは、綺礼も覚悟の上だった。表向き、彼の弟子は聖杯戦争の敗退者としてこの教会に保護されている身の上である。迂闊に出歩いていいわけがない。 「申し訳ありません。危険は承知の上でしたが、小うるさい間諜に目をつけられたため、処置するためにやむを得ず……」 『間諜? 教会にいる君に対してか?』  時臣の声音がさらに厳しくなる。 「ご心配なく。曲者の口は封じました。抜かりはありません」  さらりと言ってのけてから、綺礼は、この師に対する始めての虚言に何の抵抗も感じなかったことに、むしろ彼自身が驚いていた。 『なぜサーヴァントを使わなかった?』 「それには及ばない|瑣事《さじ》と判断しまして」  重い沈黙の間を開けて、時臣は不興の念を露わにした。 『……たしかに君ほどの|手練《てだ》れの代行者ともなれば、己の手練を頼みとするのも解るがね。今のこの局面においては、いささか軽率すぎたのではないか?』 「はい。今後は慎みます」  またしても|嘘《うそ》だった。  今日より後も、自分は幾度なりとも忍んで戦場へ赴くことだろう。衛宮切嗣の影を追い求めて、いずれ巡り会うその時まで。  それきり沈黙した通信機に|暇《いとま》を告げて、今度こそ綺礼は地下室を後にした。  一階にあてがわれた私室のドアを開けた途端、綺礼はまるで誤って他人の部屋に踏み込んだかのような違和感にとらわれた。  匂いでもなく、温度でもなく、もはや|雰囲気《ふんいき》としか言いようのない空気の感触が、明らかに変質している。質素に徹した綺礼の部屋が、まるで宮廷の一室か何かのように、華やいだ雅な気配で満たされている。  むろん調度も照明も何一つ変わってはいない。ただ単に、一人の男が我が物顔で長椅子にくつろいでいるだけのことである。  無断で部屋を占拠していたその人物が、あまりに意外な相手であったため、綺礼は少なからぬ驚きに眉を墾めた。 「──アーチャー?」  燃え立つような黄金の髪に|紅玉《ルビー》の如き双眸。他でもない遠坂時臣のサーヴァント、英雄王ギルガメッシュである。それも英霊としての本来の姿である黄金の甲冑ではなく、毛皮のファーをあしらったエナメルのジャケットにレザーパンツという現代風の服装だ。  召喚されて以来、単独行動スキルに物を言わせて好き勝手に|物見遊山《ものみゆさん》を繰り返しているこの英霊は、最近では霊体化したままでは飽きたらず、実体化した上で『遊び着』に着替えて夜の街を|闊歩《かっぼ》しているのだという。時臣が|愚痴《ぐち》を交えて語るところに聞いてはいたが、それがまさか自分の部屋にまで出向いてくるなど、綺礼は想像もしていなかった。  アーチャーは無断の入室にも何ら悪びれた素振りを見せず、それどころか勝手にキャビネットから持ち出したワインをグラスに注いで、優雅に|岬《あお》っている有様だ。 「数こそ少ないが、時臣の酒蔵よりも逸品が揃っている。けしからん弟子もいたものだ」 「……」  その来訪の意図を判じかねたまま、綺礼はテーブルの上にずらりと並べられた酒瓶の列を見渡した。どうやら部屋にあるボトルを片っ端から持ち出して利き酒をしていたらしい。  |端《はに》から見れば意外すぎる側面と思われることだろうが、綺礼は極上の美酒だと聞けば、ひとまずは購入してみるという奇癖があった。  酒というのは、質を追究しだせば底抜けに奥深い世界だ。ともすれば或いは、彼の心の空洞を満たすほどの味覚というのがあるかもしれない。もしそんな出会いがあるならば、いっそ酒精に|溺《おぱ》れるのも悪くはない、と──この袋小路に行き詰まった|求道者《ぐどうしゃ》は、半ば本気でそう思っていたのだ。  とはいえ目下のところ、渉猟が報われた試しはない。ただ仰々しいラベルの酒瓶が増えていくばかりである。むろん客を招いて振る舞おうなどと思ったことは一度もない。まして勝手に押し掛けてきた酔漢ともなれば、たとえ酒を褒められたところで歓迎する気になろう筈もない。 「一体、何の用だ?」  感情を殺してそう問うと、アーチャーはグラスを掲げて、意味深な視線を綺礼に投げ返す。 「退屈を持て余している者が、|我《オレ》の他にもいる様子だったのでな」 「退屈?」  そう問い返しはしたものの、胸の内では綺礼も、すぐさまアーチャーの言葉の含みに気付いていた。──どういう次第かは解らないが、この英霊は、昨夜の綺礼が時臣の意図から離れた行動を取ったことを知っている。 「どうなのだ綺礼とやら? お前も、あの時臣めに奉仕するばかりで心満たされているわけではないのだろう?」 「……今さら契約が不服になったのか? ギルガメッシュ」  綺礼はアーチャーからの問いに返答するでなく、そう|憔然《ぷぜん》と混ぜ返した。伝説の英雄王といえど、臆するつもりは毛頭ない。時臣個人の意識がどうあれ、あくまでサーヴァントとはマスターの下僕。この英霊が何者であろうとも、アーチャーのサーヴァントである限りは時臣の下に位置する存在でしかない。時臣の直弟子である自分と比較しても、せいぜいが同格の立場であろう。無駄に|謙《へりくだ》る理由などどこにもない。  そんな綺礼の態度にも、アーチャーはべつだん機嫌を損ねることなく、フンと鼻を鳴らして手の中のグラスを岬る。 「|我《オレ》を招いたのは時臣だし、この身の現界を保っているのも時臣の供物によるものだ。そして何よりも奴は臣下の礼を取つている。まぁ、応えてやらんわけにもいくまい」  そんな、思いのほか律儀な発言をした後で、ギルガメッシュは人間離れした赤い|瞳《ひごろ》を憂いに|騎《かげ》らせる。 「だが正直、あそこまで退屈な男とは思わなんだ。まったくもって|面白味《おもしろみ》の欠片もない」 「……とてもサーヴァントのものとは思えん|言《い》い|種《ぐさ》だな、まったく」  ほとほと呆れ果てるあまりに、綺礼の中では既に、アーチャーの|不躾《ぶしつけ》きわまりない居直りように対する腹立ちや、その来訪の真意を|詞《いぶか》る気持ちが薄れつつあった。妙に|弛緩《しかん》した空気の中で、すでに綺礼はこの部屋におけるアーチャーの存在を容認しかかっていた。 「そんなにも退屈か? 時臣師の差配は」 「ああまったく退屈だ。万能の願望機を以てして『根源の渦』に至る、だと? つくづくつまらん企てがあったものだな」  すべての魔術師の悲願とするところを、英雄王は失笑ひとつで一蹴する。その感覚は、だが綺礼とて解らなくもない。 「『根源』への渇望は魔術師だけに固有のものだ。あれは、部外者がとやかく言えるものではない」 「そういうお前も部外者だそうだな、綺礼。──しかも聞くところによれば、本来は魔術師どもと対立する立場にあるそうではないか」  綺礼の複雑な立場については、どうやらアーチャーも聞き及んではいるらしい。唯我独尊のようでいて、不思議と|耳敏《みみざと》い男でもあった。  綺礼は腕組みをして黙考する。遠坂時臣の弟子としてでなく、|聖堂教会《せいどうきようかい》・第八|秘蹟部《ひせきぶ》の代行者として見た場合に、時臣の聖杯戦争はどういう意味を持ち合わすのか。 「……『根源』へと至る道程とは、いわば世界の�外側�への逸脱だ。それによって.内側�であるこの世界に何がもたらされるわけでもない。だから�内側�の視野しか持たない|教会《われわれ》にとって、魔術師たちの探求はまったく意味のない、つまらない企てとしてしか理解できない」 「成る程な。たしかに|我《オレ》は我が庭たるこの宇宙を|愛《め》でるだけで満たされている」  世界そのものを我が物と宣言するその言葉は、なるほど英雄王ならではの|傲岸《こうがん》さである。 「|我《オレ》は|我《オレ》の支配の及ばぬ領域になど興味はない。『根源』とやらには何の関心も湧かぬ」  綺礼は苦笑した。まさにこのアーチャーこそは、魔術師の対局に位置する存在だ。魔術師の鑑のような遠坂時臣に|辟易《へきえき》するのも無理はない。 「もし冬木の聖杯が『根源』を求めるためだけに特化した装置であったなら、いくら魔術師どもが血眼になろうとも聖堂教会は放任していただろう。ところが不幸にも聖杯は�万能�であった。世界の�内側�をも変革しうる可能性を無限に秘めている。まさに極めつけの異端であり、我らの信仰を脅かすものだ。  だからこそ聖堂教会は遠坂を選んだ。放置できないほど危険な異端であればこそ、それを�無意味でつまらない�用途に使い潰してくれるなら、我々にとっては望ましい結末だからな。──もっとも私の父には、それとは別な私情もある様子だが」 「では時臣以外のマスターどもは、時臣とはまた違った動機で聖杯を求めているわけか?」  アーチャーの問いに、綺礼は頷く。 「時臣師は魔術師の典型であると同時に最右翼だ。今日日、あれほど純粋に魔術師の本道を貫いている人間はそういるまい。他の連中が求めているのは総じて浮世の|冥利《みょうり》であろうよ。威信、欲望、権力……すべて世界の�内側�だけに完結する願望だ」 「結構ではないか。どれも|我《オレ》が愛でるものばかりだぞ」 「おまえこそは俗物の頂点に君臨する王だな。ギルガメッシュ」  アーチャーは不敵に笑って手の中のグラスを干した。綺礼の評価を、決して侮辱とは受け取らなかった様子である。 「そういうお前はどうなのだ? 綺礼、聖杯に何を望む?」  そう問われて、はじめて綺礼は虚を衝かれた。 「私はl」  そう、最大の疑問だ。何故に言峰綺礼の左手には聖痕が刻まれたのか? 「私には……べつだん望むところなど、ない」  迷いを孕んだ綺礼の返答に、アーチャーの赤い瞳が妖しく光る。 「それはあるまい。聖杯は、それを手にするに足る者のみを招き寄せるのではなかったか?」 「そのはずだ。が……私にも解らない。成就すべき理想も、遂げるべき悲願もない私が、なぜこの戦いに選ばれたのか」 「それが迷うほどの難題か?」  綺礼の硬い表情を茶化すかのように、アーチャーは失笑した。 「理想もなく、悲願もない。ならば愉悦を望めばいいだけではないか」 「馬鹿な!」  綺礼が声を荒げたのは、まったくの無意識のうちだった。 「神に仕えるこの私に、よりにもよって愉悦など──そんな罪深い堕落に手を染めうと言うか?」 「罪深い? 堕落だと?」  色めき立った綺礼を前にして、アーチャーはますます面白がるように底意地の悪い笑みを返す。 「これはまた飛躍だな、綺礼。なぜ愉悦と罪とが結びつく?」 「それは……」  綺礼は返答に詰まった。同時に、いったい自分が今なにに触発されて狼狽を露わにしてしまったのか、それすらも解らず途方に暮れた。  押し黙る綺礼をからかうように見据えながら、アーチャーはしたり顔で先を続ける。 「なるほど悪行で得た愉悦は罪かもしれん。だが人は善行によっても喜びを得る。悦そのものが悪であるなどと断じるのは、いったいどういう理屈だ?」  この程度の問答でなぜ言葉を返せないのか、綺礼には解らない。まるで自分の内側に、まったく未知の空洞の領域を見出してしまったかのような、そんな漠然とした不安に囚われる。 「──愉悦もまた、私の内にはない。求めてはいるが見つからない」  ようやくのことでそう答えたものの、声には並日段の彼にあるような自信の裏打ちが欠け落ちていた。体裁を繕う返答がそれ以外に見つからなかったかのような、そんな空虚な言葉であった。  アーチャーは、その赤い瞳でじっくりと|吟味《ぎんみ》するように綺礼を見つめ、それからにんまりと破顔した。それは艶やかな食虫花が毒を|滴《したた》らせるかのような、おぞましくも|凶々《まがまが》しい笑みであった。 「言峰綺礼──|俄然《がぜん》、お前に興味が湧いてきた」 「……どういう意味だ?」 「言葉通りだが。まぁ気にすることはない」  グラスに新しい酒を注ぎ直してから、アーチャーは再びソファに背を預け、|蕩《とドつごロつ》々と語り始める。 「愉悦というのはな、言うなれば魂の|容《かたち》だ。�有る�か�無い�かではなく、�|識《し》る�か�|識《し》れない�かを問うべきものだ。  綺礼、お前は未だ己の魂の在り方が見えていない。愉悦を持ち合わせんなどと抜かすのは、要するにそういうことだ」 「サーヴァント風情が──私に説法するか?」 「粋がるなよ雑種。この世の贅と快楽とを|食《むさぼ》り|尽《つ》くした王の言葉だぞ。まぁ黙って聞いておけ」  綺礼は|遅蒔《おそま》きながら気がついた──口ではどう言おうとも、既に内心ではアーチャーの言葉に進んで耳を傾けようとしている自分に。  この時臣のサーヴァントの、傲岸で|揮《はばか》ることのない物言いは、どうしたことか不思議と綺礼の神経に障ることがない。 「ともかく綺礼、お前は、まずは娯楽というものを知るべきだ」 「娯楽──だと?」 「ああ。内側にばかり目を向けていても仕方ない。まずは外に目を向けろ。……そうだな、手始めに|我《オレ》の娯楽に付き合うところから始めてはどうだ?」 「今の私には、遊興に費やしていられる時間などない」  おまえとは違ってな、と、綺礼はそう胸の内で付け加える。 「まぁそう言うな。時臣に課された役務の片手間に出来ることだ。そもそも綺礼、お前は他の五人のマスターに間諜を放つのが役目であろう?」 「……確かに、そうだが」 「ならば連中の意図や戦略だけでなく、その動機についても調べ上げるのだ。そして|我《オレ》に語り聞かせろ。造作もないことであろう?」  たしかにその程度であれば、今の綺礼の任務から大きく逸脱する行為ではない。監視対象が周囲の者と交わす会話に終日耳を傾けていれば、それぞれが聖杯を求めるに至った経緯についても、おのずと推察がつくようになるだろう。そういった話題も聞き漏らさずにおくよう、各マスターを監視するアサシンたちに言い含めておけば良い。 「──だがアーチャー、そんな事を聞いてどうするというのだ?」 「言ったであろう? |我《オレ》はヒトの業を愛でる。条理を捻じ曲げ、奇跡にまで縄ろうとする度し難い願望の持ち主が五人も雁首を揃えておるのだ。きっと中には面白味のある奴が一人か二人は混じっているさ。少なくとも、時臣に比べれば|如何程《いかほこ》かマシであろうしな」  綺礼はつとめて冷静に熟考した。彼としては衛宮切嗣以外のマスターなどまったく眼中にないし、アーチャーの注文に応じるような義理もない。が、時臣一人では御しきれずにいるこのサーヴァントに対し、綺礼もまた何らかの形で影響力を及ぼせるようになったなら、将来的には時臣陣営のプラスに働く結果をもたらす可能性もある。 「……いいだろうアーチャー。請け負った。ただし、それなりに時間はかかる」 「構わぬ。気長に待つとする」  再びグラスの中身を干してから、アーチャーはソファを立った。この男の動作が空気を動かすだけで、まるで部屋の照明が揺らいだかのような印象を受ける。天上天下の黄金律を我が物としたこの英霊は、目では見えざる輝きの気配をつねに|燦然《さんぜん》と放っているのかもしれない。 「まぁ、今後も酒の面倒は見に来るぞ。ここの酒は、べつだん天上の美酒とまでは言わんが、僧侶ごときの倉で|腐《くさ》らせておくには惜しいものばかりだからな」  拒んだところで聞き届ける相手でもあるまいし、綺礼は仏頂面のまま否定も|首肯《しゆこう》もしなかったが、アーチャーはそれを許諾と受け取ったのだろう。さも満悦そうに笑いながら部屋から出ていった。  途端に室内の華やぎが磐り、綺礼の私室は普段のままの殺風景な空気を取り戻す。  ようやく独りになれたところで、綺礼は風変わりな客人との風変わりな問答について、あらためて思いを馳せた。  アーチャーと直に言葉を交わすのは、じつにこれが始めての経験だったのだが、それにしては我ながら|随分《ずいぶん》と|饒舌《じょうぜつ》に語ったものだ。  思えばマスターであれサーヴァントであれ、この聖杯戦争に集ったのは悲願の成就を求めて血眼になっている者ばかりであるはずなのに、あの放増な英雄王は、ぺつだん聖杯を求めるわけでもなく、彼の伺い知らぬところで宝物の所有権を争う騒動が起きることを良しとせずに参戦しているにすぎない。いま冬木に集う七人のサーヴァントのうち、おそらくあの英霊ほどに戦う理由が希薄な者は他にいるまい。そういう意味では、綺礼と通ずる所がある。──なぜ自分が聖杯戦争に参加しているのか解らないマスターなど、やはりこれも他にいるとは考えにくい。  否、理由はどこかにあるのだろう。でなければ、遠坂時臣に続いて二番目に令呪を宿したという順位には説明がつかない。綺礼自身すらも未だ|識《し》らずにいる、内なる心の領域で、言峰綺礼は聖杯の奇跡を求め欲しているのかもしれない。  だがそれは、断じてアーチャーの言うように�愉悦�などではない。そこばかりは綺礼とて、これまでの生涯のすべてを求道に費やしてきた身として、意地に賭けてでも譲れない。  真に答えを知るべき男は、アーチャーではなく他にいる。  衛宮切嗣。綺礼の求め欲する解答に、誰よりも迫ったであろう男。ついさっきアーチャーと語らったように、あの男と問答できたなら──綺礼はそう思わずにはいられなかった。  無論、お互いの立ち位置はあくまで違う。そんな二人が交わしあうのは言葉ではなく銃弾と刃になるだろう。だがそれでも構わない。綺礼は切嗣という人間を識りたいだけだ。 ならば生命の応酬は、あるいは言葉よりなお雄弁にあの男の魂の形を浮き彫りにしてくれるかもしれない。  空しい祈りを胸に沈めたまま、綺礼はアーチャーの飲み散らかしていった酒瓶を片づけにかかった。 [#改ページ]   -140:41:54  冬木ハイアットビルの倒壊現場で、レスキュー隊の作業は夜を徹して行われた。  ホテル側の避難誘導に手違いがあったことが後になって発覚し、当初は倒壊の時点で無人と思われていたホテル内に、じつは二人の宿泊客が取り残されていたことが解ったのである。  客室最上階のスイートをフロアごと借り切っていたというその男女の生存は、もはや絶望的ではあったが、ともかく遺体だけでも確認しなければ始まらない。照明車のハロゲン作業灯が煙々と照らし出す中で、重機を使った瓦礫の撤去は急ピッチで進められた。  やがて夜が明け、隊員たちの表情にも疲労の色が濃くなりはじめた頃に、その怪事は起こった。 「妙なものが見つかったって?」  知らせを受け、駆けつけた現場主任が目にしたのは、直径三メートル余りもあろうかという銀色の球体である。どう見てもビルの建材ではないそれは、瓦礫の山の中から忽然と現れたのだという。 「……内装品か? 展望レストランにあったオブジェとか」 「それにしちゃ、傷一つないってのは妙じゃぁりませんか?」  言われてみれば球体の表面には欠損ひとつない。艶やかな光沢は鏡のようですらある。まるでたった今この場で磨き上げたばかりかと見紛うほどだ。 「なんか──水銀の|滴《しずく》みたいだな」  ふと思いついたままの感想を述べながら、現場主任は近寄って球体の表面に手を触れた。  軍手を填めた|掌《てのひら》が、ずぶりと銀の中に沈み込む。 「?」  |瞠目《どうもく》したものの、よく見れば手は堅く冷たい球体の表面に触れたまま、何の異状もない。 「主任?」 「……」  周囲の隊員たちは誰一人として気付かなかったらしい。狐につままれたような表情で立ちすくむ現場主任を、|胡乱《うろん》そうに眺めている。 「あの、どうかしましたか?」 「……こいつを、運び出さないと」 「は?」 「トラックに乗せるんだ。さあ、急げ」  現場主任は奇妙なほど落ち着き払ったまま、有無を言わさぬ語調で隊員たちに指示を飛ばした。  みな一様に設りはしたが、この球体が何なのかはさておき、さっさと撤去しなければならない障害物のひとつなのは間違いない。すぐさまパワーショベルが動員され、銀の球体を|掬《すく》い上げてダンプトラックの荷台へと搬送する。 「あれ? 主任は?」  はたと隊員の一人が気付くと、ついさっきまで作業を監督していた主任の姿がない。途方にくれた隊員の背中を、やおらエンジンを始動させたダンプトラックの排気音がどやしつける。  悠々とステアリングを巡らせて倒壊現場から走り去ってゆくダンプトラックの運転席に、虚ろな目をした現場主任の姿を見鬱めたときには、もう何もかも手遅れだった。銀の球体を荷台に載せたまま、トラックは黎明の街の中へと消えていった。  五時間後、市郊外を|警邏《けいら》中のパトカーが、手配中だったダンプトラックと、その車内で人事不省に陥っている現場主任を発見することになるのだが、そのとき既にトラックの荷台はもぬけの|殻《から》だったという。          ×                × 「……」 「……」 「……あの、こちらはマッケンジー様のお宅で宜しいでしょうか?」 「うむ。それはここの家主の姓で相違ない」 「……えぇと、征服王イスカンダル、様って──いらっしゃいますか?」 「余のことだが」 「……。ああ、はい、そうでしたか。アハハ……。あ、ここに受け取りのサイン、お願いします」 「署名か、宜しい。──では、確かに受け取ったぞ」 「毎度ありがとうございました。し──失礼します」 「うむ。大義であった」  既に我が家も同然に慣れ親しんだグレン・マッケンジー宅二階の寝室で、ウェイバー・ベルベットは眠りから覚めた。  外はもうだいぶん日が高い。何の変哲もない休日の朝を寝過ごしたというだけの、|気怠《けだる》い目覚め。そんな風に思い込もうとすれば何の苦もなく納得できそうな、いつもと変わらぬベッドの中。  今ならば、すべてが夢だったと思うことさえできそうだ。あの凄絶なる血闘も、大破壊の数々も……  だが令呪は依然として左手の甲にある。|夢幻《ゆめまぼろし》などではなく、ウェイバーはライダーを統べるマスターであり、昨夜の五大サーヴァントの激突は、まぎれもない現実だ。  昨夜、少年は初陣に立った。生と死が交錯する狭間を駆け抜けた。  恐怖した。|戦懐《せんりつ》もした。かつてないほど鮮烈に。  なのに、いまだ胸に余韻を残す感覚は──決して悪寒やそれの類ではない。むしろ喜びと呼んでしまうには|面映《おもばゆ》ゆい、ささやかな誇りと昂揚が、今も静かに心に猿る。  昨夜のウェイバーが何をしたわけでもない。すべての行動はイスカンダルの独断であり、そのマスターである彼はサーヴァントの隣にしがみついていたというだけで、何の働きもしていない。あまつさえ途中で気絶してしまい、最後まで局面を見届けてすらいない。  そんなウェイバーだが、彼自身にとって、あれは大きな意味を持つ戦いだった。彼が得たものとその価値は、おそらく彼自身にしか理解できない。  居並ぶ敵を前にして、ライダーが並べた数々の放言。あの戦場に集った魔術師もサーヴァントも、おそらくはみな顧みることもなく、記憶すらしていないかもしれない、そんな無為な言葉の数々のうちの、たったひとつ。それが今もウェイバーの胸に残っているのだ。 �──姿を晒す度胸さえない臆病者なぞ、役者不足も|甚《はなは》だしい──�  ライダーがランサーのマスターに向けて投げかけた侮蔑の言葉。あの恨めしくも恐ろしいロード・エルメロイを、臆病者と一笑に伏した剛胆な声。  ライダーが讃えるような蛮勇は愚行でしかない.もし戦いの采配がウェイバーの手にあったなら、サーヴァントを正面に立て、マスターである自分は隠れて戦況を見守る策を取っただろう。つまりはケイネスとまったく同様に。それが戦略として正しい。  だが �──余のマスターたるべき男は、余と共に戦場を馳せる勇者でなければならぬ──�  ウェイバーは決して自ら進んでライダーに同伴したわけではない。言うなれば巻き添えも同然だ。橋のアーチの上に取り残されるよりはまだマシだと、逃げるようにしてライダーの戦車に乗った。まかり間違っても勇気を示そうなどと思ったわけではない。  が、それらはこの際、どうでもいい。  そんな理屈の諸々をすべて棚に上げてしまえるほどに、あのときの肩を抱かれたライダーの掌の大きさ、いかつい力強さは、今もまざまざと確かに心に蘇ってくる。  ウェイバーを指して、おのれのマスターに相応しいと──あのときライダ〜は確かに言った。  それも神童の呼び名も高き天才講師、かつてウェイバーがその足元にも及ばなかったロード・エルメロイと比較して、その上でなおウェイバーに|秤《はかり》を傾けたのだ。  自分の価値が、認められた。──思えばそれは、物心ついて以来初めてのことだった。  賞賛など屑ほどの価値もないと思ってきた。他人の賞賛に気を良くすることこそ愚かだと、それまで誰に顧みられることもなかった少年はそう信じて疑わなかった。  だから今、ウェイバーは胸の内のこそばゆい歓喜をどう処していいか解らない。|躍《おど》る心は抑えがたいが、さりとて有頂天になるにはプライドが邪魔をする。  およそマスターに対する礼節など意中にない、それどころかウェイバーを名前で呼ぶことすらしない傲岸にして不遜なサーヴァント──だがそれでも、これまでの屈辱的な扱いの数々を忘れてやってでも、自分は感謝の念を抱くべきなのだろうか? この自分の価値を認めてくれた最初の一人である男に対して。 「……」  複雑な想いに囚われて、ウェイバーは頭を毛布の下に引っ込めた。今日これから一日を始めるに至り、いったいどんな顔をしてあの巨漢のサーヴァントと向き合えばいいのだろうか……  そこではたと、ウェイバーは気がついた。普段ならばすぐ横から聞こえてくるはずの|大軒《おおいびき》が、今朝はない。  がばと毛布を搬ね除けて顔を出してみれば、あにはからんや、床で寝ているはずのライダーが見あたらない。あれだけ霊体化するのを疎んじていた男である。まさか何の理由もなく実体化を解いて不可視になることはあるまいし、もし不可視だったとしても自分のサーヴァントの気配ぐらいはウェイバーにもはっきり判別できる。今この部屋にライダーの存在はない。  ウェイバーはつとめて冷静に考えようとした。今朝の自分は寝過ごした。ライダーが先に起きたとしても不思議はない。だが、いやそもそも、問題なのは今この場に彼がいないという事態であって、つまりライダーはウェイバーの伺い知らない場所を勝手にほっつき歩いているということであ──  廊下の階段を、階下からずしんずしんと踏み鳴らす音が上ってくる。  聞き慣れたその質量感にウェイバーは安堵しかかったものの、すぐさまそれの意味するところに気付きまた蒼白になる。 「おぅ、起きたか坊主」  のっそりとライダーの巨躯がドアから入ってきた。その重厚な胴鎧は、すでに見慣れたウェイバーにとっても、日常と常識の外にある異物だ。当然ながら、マッケンジー夫妻にはサーヴァントのことは伏せてある。こんな奇天烈なモノを見せてしまったら、あの老夫婦にかけてある催眠暗示が一発で御破算になりかねない。  そのため、平時を霊体化して過ごすことを頑として拒むライダ〜には、せめて二階の個室から出るなと厳命してあった。──今朝までは。 「……オマエ……その格好で下に降りたのか?」 「案ずるな。家主の夫妻であれば、今朝は早くから外出中だ。だが二人の留守に荷物が届いたのでな。余が受け取りに出た」  とりあえず、家主との鉢合わせは回避できたと知って安堵しかかったものの、ライダーの語るところがよりいっそう由々しい事態であることに気付いて、さらにウェイバーは色を失った。  見ればライダーは、宅配便の伝票が貼られた小包を手に持っている。 「……その格好で、玄関に?」 「仕方あるまい。届け物を預かってきた使者を、ねぎらうことなく帰らせるわけにはいかんだろうが」  もう手遅れだ。フォローのしようがない。  せめてライダーを目の当たりにしたのが、毎日顔を合わせる同居人でなく、一期一会の他人であったのが幸いだったと思うしかない。おそらくは配達員の口から、この家に前へレニズム時代の甲冑を着た大男が居着いているという噂が流れることになるのだろうが、それが悪い冗談で済まされることを祈るしか他にない。 「あのな、別にオマエ宛ての荷物じゃないんだから、ねぎらうとか何とか関係ないだろ」 「いや。受け取ってみたら余の荷物であった」 「……なに?」  ライダーが自慢げに見せびらかす小包の宛名書きを確かめる。──『冬木市深山町|中越《なかごし》二−二−八マッケンジー宅・征服王イスカンダル様宛』と冗談のような内容が大|真面目《まじめ》に書かれている。送り主は『キャラクターグッズ専科・アニメンバーなんば店』とあった。 「……説明しろ。ライダー」 「通信販売というヤツを試してみたのだ。『月間ワールドミリタリー』の広告欄に、なかなかそそられる商品があったのでな」 「つ、通販……?」  そういえば数日前、いつものようにライダーの要求で軍事関係の雑誌やらビデオやらを買い出しに行かされた時、なぜか官製ハガキ皿枚が買い物リストに加わっていたのを思い出す。その時点ではウィエバーも、ライダーがそれを何に使うのか判らなかった。いや判ろうという努力を放棄しつつあった頃合いだった。 「オマエ、一体どこでそんな知識を手に入れた?」  まさか聖杯による知識の供与に、カタログショッピングなどという項目が含まれていたとは思えない、というか思いたくないウェイバーがいる。 「ん? その程度のこと、本やビデオの巻末にいつも載ってるではないか。端々まで検めれば歴然であるぞ」 「一体いつの間にポストに……っつ──か、代金はどうしたんだよ?」 「問題ない。ちゃんと代引きで申し込んだからな」  はっはっは、と朗らかに笑いながら、ウェイバーに財布を投げ返すライダー。どうやらマスターの寝坊中に勝手に持ち出したらしい。  何せ無邪気にステルス爆撃機を購入したがるような非常識な男である。一体どれほどの高額商品を面白半分に買い入れたことやら知れず、ウェイバーは怒りより何よりもまず恐慌のあまり半泣きになりながら、財布の中身を確認した。  結果、一万円札の数に変動はなく、わずか数枚の千円札が失せたにすぎないと判って、深く安堵の|溜息《ためいき》をつく。安心して脱力しすぎたあまり、勝手に財布を持ち出されたことへの怒りをついうっかり失念してしまう、そんな自分の駄目さ加減について自覚がないのは、この少年にとって幸いなのか不幸なのか。  そんなウェイバーを余所に、鼻歌交じりの上機嫌で包装を解いたライダーは、「おおっ!」 と歓声を上げてその中身を掲げ持った。 「良し良し、気に入った! 実物は写真で見るよりも一段と素晴らしいな」 「……Tシャツ?」  XLサイズの、いかにも安っぽい半袖プリントシャツである。胸には世界地図をからめたタイトルロゴで『アドミラブル大戦略㈿』と刷ってあった。どうやら雑誌の誌面で特集記事を組まれていたゲームの関連商品らしい。 「丁度良い。昨夜のセイバーを見てな、余もひらめいたばかりだったのだ。当代風の衣装を着れば、実体化したまま街を出歩いたって文句はあるまい?」  この英霊がなにかと霊体化を厭う──というより実体化しているのを好む傾向はウェイバーにとっても少なからぬ負担だったのだが、このうえ外を出歩く算段まで始めようとは思いもしなかった。ウェイバーは、彼のサーヴァントにこんな着想を与えた昨夜のセイバーとそのマスターを、今さらながら呪い殺してやりたくなった。  一方ライダーはといえば、さっそく新たな衣装に袖を通すと、一人でさも楽しげにポージングなど決めている。 「フハハ! この胸板に世界の全図を載せるとは、ウム! 実に小気味良い!」 「──ああ、そう」  いっそこのまま毛布を頭から被って寝直すというのはどうだろうか。そうすれば、プリントシャツ姿で小躍りしているライダーを視界から閉め出して、慈悲深い睡眠の中に逃避できる。ウェイバーには、それが今の自分に可能な最良の選択のように思えてきた。次に目を覚ます時には、もしかしたら世界はもうちょっとマシな場所になっているかもしれない。  だがその魅惑的な選択肢も、続くライダーの行動によって諦めざるを得なくなった。 「……おいライダー、待て、ちょっと待て──」  さも平然と部屋から出ていこうとするライダーを、ウェイバーは慌てふためいて呼び止める。 「オマエ今どこへ行こうとした?」 「無論、街へ。この征服王の新たなる偉容を民草にみせつける」  十一月の寒空にTシャツ一丁という風体だけでも充分に異常だろうが、それ以上に問題なのは、ライダーがその|逞《たくま》しい体躯にTシャツのほかに何一つ身につけていないという点だ。 「外に出る前にズボンを履け!」 「ん? ああ|脚絆《きゃはん》か。そういえばこの国では皆が履いておったっけな」  ぱんつはいてない褐色の巨漢は、やや困った風に|拳《こぷし》をぐりぐりと額に押し当ててから、しごく真剣な顔でウェイバーに問うた。 「あれは、必須か?」 「必要不可欠だッ!」  既に顔を洗うまでもなく、ウェイバーの眠気は綺麗さっぱり消し飛んでいた。  こんな思慮も分別も常識もデリカシ──も一片だに持ち合わせていないゴリラ同然の筋肉バカに──いかに|寝惚《ねぼ》けた頭だったとはいえ、つい今し方まで心を許す気になりかかっていたのかと思うと、もう悔しいやら情けないやらで、ウェイバーは自分が腹立たしくて仕方ない。 「先に断っとくが、ボクはオマエのために街まで出向いて特大ズボンを買ってくるなんてことは絶対にしないからな!」 「なんだとう──!?」  ライダーが仰々しく目を見開いてウェイバーに迫る。だが今日という今日は断じて譲らない──すでにウェイバーは鉄の意志でそう心に決めていた。 「坊主、きさま余の覇道に異を唱えると申すか?」 「覇道とオマエのズボンとは、|一切合切《いっさいがっさい》! |金輪際《こんりんざい》! まったくもって関係ない──外を遊び歩く算段なんぞする前に、敵のサーヴァントの一人なりとも討ち取ってみろ!」 「ええい、|気忙《きぜわ》しい奴よのう。サーヴァントの相手なんぞいつだってできるではないか!」 「じゃあ今やれ! 今すぐ誰か倒してこい! そしたらズボンでも何でも買ってやるl」  むぅ、とライダーは檸猛に捻って沈黙した。 「……成る程、あい判った。とりあえず敵の首級を上げさえすれば、そのときは余にズボンを履かすと、そう誓うわけだな?」  案に反して拍子抜けするほどあっさり譲歩したライダーに、むしろウェイバーはなおのこと脱力した。 「……オマエ、そんなにそのTシャツで外を歩きたいのか?」 「騎士王の奴めがやっておったのだ。余も王として遅れを取るわけにはいかん。──何より、この服の柄は気に入った。覇者の装束に相応しい」  こんな度外れた馬鹿者を英雄として後の世に語り継いだのは、もしかしたら過去の歴史家たちの壮大なる悪ふざけなのではあるまいか? ウェイバーは、そんな時空を越えたミステリ!にまで思いを馳せるようになっていた。  そのときである。どん、という遠く重い破裂音がウェイバーの耳朶を打った。いや正確には音ではない。聴覚に感じた刺激かと錯覚しかかったものの、今のはウェイバーが魔術師として|鍛《きた》えた霊感に響く波動だった。──つまりは魔力のパルスだ。 「何だ? 今のは……東の方角か?」  サーヴァントであるイスカンダルにも、今の音ならぬ音は聞こえたらしい。  窓を開けて外を見ると、晴れ渡った空の上に、たなびく煙のようなものが見て取れる。 ちょうど打ち上げ花火の|残津《ざんし》のようにも見えるが、|雲母《うんも》を散らしたかのようにチカチカと煙めくそれは、明らかにただの煙ではない。  ウェイバーの目にこそはっきりと見えているが、あの煙は魔術に縁のない人間には不可視のものだ。先の音についても同様で、常人の耳では爆竹程度にしか聞こえなかったに違いない。おそらくは何らかの呪香を混ぜ込んだ火薬を破裂させたのだろう。打ち上げられたのは、言うなれば魔力で彩色した花火であった。 「あの方角って、たしか……冬木教会のある辺りだよな」  聖杯戦争に携わるマスターとしての基礎知識を持ち合わすウェイバーは、その意味するところにもすぐ察しがついた。  戦いを見守る聖堂教会の監督役が、何か重大な決定事項をマスターたちに知らしめる際には、確か、ああいう狼煙で合図を送る取り決めになっていたはずだ。各々の所在すら定かでないマスターたちへ同時に信号を送るには、なるほど最適な手段であろう。 「あれは我々に関わりのあるものか?」  ライダーに問われたウェイバーは、いささか返答に窮した。 「そうと言えなくもないんだが、どうしたもんかな……」  実のところウェイバーは、冬木教会の監督役にマスターとしての申告をしていない。  サーヴァントを従えて冬木の地に立てば、その時点で押しも押されもせぬマスターとしての立場が確固たるものになる。ならば教会の顔色なぞ伺う必要はまったくない──と、それがウェイバーの判断だった。第一、彼はあまり褒められたものではない手段によって聖遺物を手に入れたという経緯がある。なにが|藪蛇《やぶへび》になって痛くもない腹をつつかれる羽目になるやら知れたものではない。  とはいえ、だからといっていま東の空に示されている招集の狼煙を無視できるかといえば、そうもいかない。ウェイバーの知る限りでは前例のない事態だ。全てのマスターに対する監督役の用件というのが何なのか……想像しうるところでは、何らかのルールの変更や条件付けの告知、といったところか。それに伴う情報の開示もあるかもしれない。  それを知るか知らないかが、今後の戦いにおける鍵となる可能性もなくはない。今の戦局にまつわる情報の収集、と考えれば、監督役の話にも耳だけは傾けておくべきかもしれない。それがもし足枷になるような告知ならば、そのときは聞かなかったふりをして無視すれば良いだけのことだ。 「……ライダー、ズボンの件は後回しだ。その前にちょっと用事ができた」 「何だというのだ忌々しい。せっかくの散歩|日和《びより》だというのに!」  撫然となるライダーを放置して、ウェイバーは|支度《したく》にとりかかった。 [#改ページ]   -138:15:37  信徒席に|旙《わだかま》る深い闇。  ただの暗がりにしてはあまりにも濃すぎる妖気の密度が、言峰璃正神父の背筋を冷ややかにくすぐる。  思いのほか集まりがいい──老神父は皮肉な心持ちで、闇の奥からこちらを見つめてくる視線の数々に苦笑した。  マスター招集の信号から一時間。堂々と冬木教会に姿を現すような無防備なマスターは一人もいなかったが、代わりに差し向けられてきた使い魔はきっちり五体。表向き脱落したことになっている綺礼と、おそらくは信号の意味合いすら理解していないであろうキャスターのマスター、龍之介を除けば、すべてのマスターが揃った計算だ。全員が全員とも、教会への表敬など意中になく、ただ話だけは聞いておこうという魂胆である。  狂言の相方である遠坂時臣もまた、ぬかりなく使い魔を参列させている。よって残る四体の使い魔はおそらく、アインツベルン、間桐、そして外来のマスター二人……冬木ハイアットホテルの爆破で消息不明になっていたロード・エルメロイも、これで生存が確認できたも同然だった。 「礼に|適《かな》った|挨拶《あいさつ》を交わそうという御仁は、どうやら一人もおらぬ様子ゆえ、ここは単刀直入に用件に入らせていただく」  皮肉な前置きとは裏腹に淡々とした口調で、老神父は無人の信徒席──少なくとも�人�たる聴衆はいない──へ向けて語り始めた。 「諸君らの悲願へと至る道であるところの聖杯戦争が、いま重大な危機に見舞われている。  本来ならば聖杯は、それを求める者に対してのみ、その力を分け与えてサーヴァントとの契約を可能ならしめる。ところがここに、一人の裏切り者が現れた。彼とそのサーヴァントは、聖杯戦争の大義を忘れ、貸し与えられた力を己の|賎薄《せんはく》な欲望を満たすべくして|濫用《らんよう》しはじめている」  つい神父はいつもの説法の習慣で、聴衆の反応を見るべく語りに間を開けたが、当然、信徒席の闇に潜む魔性たちは重い沈黙のままに身を潜めている。咳払いして、老神父は先を続けた。 「キャスターのマスター。この男は昨今の冬木市を騒がせている連続殺人および連続|誘拐《ゆうかい》事件の下手人であることが判明した。彼は犯行に及んでサーヴァントを使役し、しかもその痕跡を平然と放置している。この重大な違反行為がどのような結果をもたらすか──諸君らには説明するまでもあるまい」  使い魔たちは何の反応も示さないが、その視覚と聴覚を借りて璃正の言葉を盗み聞きしているマスターたちは、さぞや動揺したことだろう。朝の時臣然り、それが魔術師として当然の反応だ。 「彼とそのサーヴァントは諸君ら一人一人の敵であるばかりでなく、聖杯の招来そのものを脅かす危険因子である。  よって私は、非常時における監督権限をここに発動し、聖杯戦争に暫定的ルール変更を設定する」  厳かにそう宣言してから、璃正はカソックの右袖を|捲《まく》り上げ、右腕の肌を露わにした。  老いて肉こそ落ちたものの、壮年の頃の|鍛錬《たんれん》ぶりを伺わせずにはおかない筋張った下腕……その肘から手首にかけてを、びっしりと刺青の文様が覆っている。──否、それは刺青ではない。聖杯戦争のマスターにとっては、より身近に見知ったものだ。 「これは、過去の聖杯戦争を通じて回収され、今回の監督役たる私に託されたものだ。決着を待たずしてサーヴァントを喪失し、脱落したマスターたちの遺産  彼らが使い残した令呪である」  まさにそれこそ、璃正の監督役としての権威を裏打ちするものだった。過去のマスターが未使用のまま持ち越した令呪、そのすべてを彼は管理者として預かり保管しているのだ。  令呪とは聖痕であり、聖杯によって戦いの運命を背負わされた証である。だがそれが宿命として意味するところと、サーヴァントに対する制御装置としての機能とは別のところにある。  令呪を宿すという現象そのものは奇跡であっても、ひとたびマスターの身体に|顕現《けんげん》したあとの刻印それ自体は、たしかに強力無比なものであるとはいえ、あくまで消費型フィジカル・エンチャントの一種でしかない。その機能は、呪的手段によって移植や譲渡が可能となるのだ。 「私はこれら予備礼呪のひとつひとつを、私個人の判断によって任意の相手に委譲する権限を与えられている。今現在サーヴァントを|統《す》べるところの諸君らにとって、これらの刻印は貴重きわまりない価値を持つはずだ」  相変わらず沈黙のまま、見聞きした情報を|主《あるじ》に伝達するばかりの使い魔たちが相手ではあったが、璃正はすでに聴衆たちの傾注ぶりを手応えとして感じ取っていた。 「すべてのマスターは直ちに互いの戦闘行動を中断し、各々、キャスター殲滅に尽力せよ。 そして、見事キャスターとそのマスターを討ち取った者には、特例措置として追加の令呪を寄贈する。  もし単独で成し遂げたのであれば達成者に一つ。また他者と共闘しての成果であれば、事に当たった全員に一つずつ。我が腕の令呪が贈られる。そしてキャスターの消滅が確認された時点で、改めて従来通りの聖杯戦争を再開するものとする」  再びカソックの袖を戻してから、璃正神父は、ここではじめて皮肉な笑みを口元に浮かべて付け加えた。 「さて、質問がある者は今この場で申し出るがいい。──尤も、人語を発音できる者のみに限らせてもらうがね」  闇の中に羽ばたきの音が湧く。続いて、ずるずると床を這う音、かさこそと駆け去る足音が、ひめやかに消えていく。  監督役の説明は端的にして明瞭であり、質問の余地はどこにもなかった。聖杯を巡る闘争者たちは、新たなる形態の競い合いに向けて力を尽くすばかりである。そうと決まれば、もはや教会などに長居は無用だ。  ようやく本当の意味で無人の静けさを取り戻した礼拝堂に独り取り残された璃正神父は、後の展開に想いを馳せてほくそ笑んだ。  仕込みはこれで上々──あとは放っておいても、飢えた四頭の猟犬がキャスターに襲いかかる。  既に標的であるマスターの顔と名前や、キャスターの工房の大まかな位置についても知れているのだから、それらの情報も開示すればより効率的に事を運べただろうが、どうやってそれを調べ上げたのかを疑われると藪蛇になりかねない。アサシンを使役して得た情報は、まだ今の段階では伏せておくしかない。  はたしてキャスターはどこまで持ちこたえるだろうか。璃正たちとて、いきなり六対一の包囲戦までは期待していない。すべてのマスターが、監督役の提言通りにキャスターだけを標的として行動するとは考えにくい。彼らにとってもキャスター狩りは戦いのほんの一課程でしかなく、本命はその後に再会されるバトルロイヤルを勝ち抜くことだ。  みな追加の令呪は喉から手が出るほど欲しよう。が、それに勝るとも劣らず、他のマスターが令呪を得ることもまた厭うはずだ。いくら得点を稼いだところで、後々に敵となる者が自分と同じ得点を得たのではアドバンテージとしての意味合いを失う。  よって、彼らはより容易く令呪を得るために他者と協力しあうよりは、他者を出し抜いて自分だけが追加令呪を独占しようと|奔走《ほんそう》するだろう。互いに妨害工作で足を引っ張り合うことになるのは、まず間違いない。  そうであってくれなくては困る。迂闊に結託なぞされたのでは、最後にアーチャーに漁夫の利を狙わせるのが困難になるからだ。  すべてのマスターの動向は、その存在すら忘却されたアサシンたちが逐一追跡し続けている。誰であれ出し抜くのは造作もない。綺礼は実によくやっている。|俄《にわか》仕込みの魔術師でしかない彼が、ここまで敏腕のマスターとしてサーヴァントを御するとは、時臣とて予期していなかっただろう。  信仰のため、教会のため、そして亡き友との約束のために、自慢の一人息子が持ち前の有能さを発揮して尽くしている。それは父親としてこの上もなく誇りに思える成果であった。 [#改ページ] [#改ページ] ACT6 [#改ページ]   -131:23:03  冬木市市街より、直線距離にして西へ三〇キロ余り。  人里離れた山中を東西に縫う国道沿いに、押し寄せる宅地開発の波からは忘れ去られたかのような、|鬱蒼《うっそう》と生い茂る森林地帯がある。  国有地かと思いきや、登録上の名義は実体があるかどうかも定かでない外資系企業の私有地となっていたりと、謎の多い地所ではあるのだが、|強《し》いてその地についての情報を集めるとなると、まず最初に行き当たるのは奇妙な都市伝説である。  曰く、深い森林の奥底に『|御伽《おごぎ》の城』があるという噂。  当然、|他愛《たわい》もない怪談話である。いかに未開発とはいえ都市部から車で一時間足らずの近隣にそんな奇抜な建築があるならば評判にならないわけがなく、事実、その一帯は過去にも測量のための空撮が幾度も行われているというのに、原生林の中に人工の建築物が写っていたことなどは一度もない。  だがそれでも数年に一度ほどの間隔で、まるで思い出したかのように噂話は|囁《ささや》かれる。  遊び半分の冒険行で森に踏み込んだ子供たちや、道に迷ったハイカ──の目の前に、霧の中からふいに立ち現れるという石造りの壮麗な古城。それは廃嘘のように完全な無人で、そのくせ誰かが住んでいるとしか思えないほど完壁に整備され手入れの行き届いた、|摩詞不思議《まかふしぎ》な館であるという。  もちろん、誰も真に受けたりはしない。せいぜいがネタに困った三文雑誌が夏場に組む怪奇特集の一ページで取り上げられる程度の戯言である。  それが実在することを知るのは、ごく一部の魔術師たちだけだ。  六〇年にただ一度、戦のための出城として|主《あるじ》を迎え入れる|あ《・》|や《・》|か《・》|し《・》|の《・》|城《・》。  重層の幻覚と魔術結界によって守られているため、ごく希な偶然を除いては、決して外部に露見することのない異空間。その正体を知る者たちは、この深い森林を『アインツベルンの森』と呼ぶ。  冬木の地で開催される聖杯戦争に際し、ライバルである遠坂家の直轄地に拠点を置くのを潔しとしなかった頭首ユーブスタクハイトは、その富に物を言わせて、冬木に最寄りの霊脈を土地ごと買い押さえ、そこをアインツベルンの拠点とした。折しも三度目の聖杯戦争の前夜、世間は第二次世界大戦直前の緊迫に張りつめていた時代である。  広大な原生林を丸ごと結界として外界から隔離し、そこにアインツベルンの地元から支城のひとつをまるごと移築したというのだから、かの一族の桁外れな財力と執念の程が窺える。土地買収のための折衝や地元での隠蔽工作には遠坂家が奔走したというのも、何とも皮肉な話というほかない。             ×               ×  重苦しい空気が、アイリスフィールの何度目かの溜息を誘う。 「──疲れてきたかい? アイリ」  切嗣にそう問われて、彼女は憂鬱顔を奥に引っ込め、微笑でかぶりを振った。 「いいの、何でもないわ。先を続けて」  促された切嗣は、引き続き、冬木市についての諸情報の解説を再開する。目の前のテーブルには市全域をフォローする地図が拡げてあった。 「──地脈の中心となるのはニカ所。ひとつはセカンドマスターである遠坂の邸宅。もう一つは言わずと知れた円蔵山だ。この辺り一帯の命脈はすべてこの山に集まることになる。詳細はアハト|翁《おう》から聞いての通りなわけだが──」  会議の場に選ばれたサロンは、アイリスフィールたちに先駆けてこの城を訪れ、委細準備を整えてから退去したメイドたちによって、完壁な状態に設えてあった。テーブルクロスからティーカップに至るまで染み一つなく、花瓶には瑞々しい花が活けてある。これが六〇年もの間、住まう者もなく無人だった城の一室とは誰も思うまい。  疲労がないといえば嘘になる。が、アイリスフィールが曲がりなりにもベッドで休息できたのに対し、切嗣はおそらく|一睡《いっすい》もしていない。切嗣とその弟子の久宇舞弥が城に着いたのは正午に程近い頃合いだったが、さらにその直後に冬木教会からの呼び出しを受け、使い魔を操作して監督役の告知をチェックするなど、切嗣は立て続けに雑事の処理をこなしている。聞けば昨夜の倉庫街の戦いの後も、ランサーのマスターであるケイネス卿を襲撃し、さらに言峰綺礼との遭遇戦までも演じてきたという話である。そんな切嗣たちが毛ほどの憔惇も窺わせずにいる以上、アイリスフィールも弱音を吐くわけにはいかない。  いや、むしろ溜息の理由は他にある。 「──|円蔵山《えんぞうざん》には頂上の|柳洞寺《りゅうどうじ》を基点として強力な結界が張られている。そのせいでサーヴァントのような自然霊以外の存在は参道からしか進入できない。セイバーを使う上では留意しておいてくれ」  そういう注意であればセイバーへ向けて直に言ってやればいいものを、相変わらず切嗣は、アイリスフィールの背後に控える男装の少女に、ただの一瞥すら与えない。  空気の重い原因は二つ。うち一方がこの切嗣のセイバーに対する、頑とした拒絶の姿勢であった。今に始まったことではないが、むしろアインツベルン城にいた頃よりも、なおいっそう露骨になってきた気がする。 「さらに、このニカ所には劣るが、やはり地脈の集中する要地があとふたつ新都にある。 南の丘の上にある冬木教会と、都市区画の東にある新興住宅地がそれだ。よって、聖杯の降霊を行えるだけの霊格を備えたポイントは、冬木市内に都合四カ所あることになる」 「戦いの後半、サーヴァントの数が絞り込まれてきたら、このいずれかを拠点として制圧しておかなくてはいけないわけね?」 「そういうことだ。地勢についてはこんなところだが、何か質問は?」 「──セイバー、何か不明な点はある?」  アイリスフィールが気を利かせて水を向けると、サーヴァントの少女は小さく微笑んでかぶりを振った。 「これといって特には。充分な説明でした」  当人にそんな意識はないだろうが、端から見ればじつに皮肉の利いた返答である。  溜息をついて、アイリスフィールは話を先に進めた。 「で、今後の方針だけれど……切嗣、他のマスターも全員がキャスターを狙うと見ていいかしら?」 「まぁ、間違いないだろうね。監督役が提示した報償はたしかに|旨味《うまみ》がある」  つい先刻、冬木教会で告知された監督役によるルール変更については、すでに切嗣の口から説明があった。昨夜キャスターとの接触を果たしたセイバーとアイリスフィールからしてみれば、あのサーヴァントの狂態が真性であることの裏付けとなる知らせであった。 「だが、ことキャスターに関する限り、僕らには他の連中にはないアドバンテージがある。 奴の真名を知っているのは現状では僕らだけだろう。──やれやれ、よりにもよってジル・ド・レェ伯とはね」  切嗣は皮肉めかした笑いに口元を歪めて、続ける。 「おまけに、何を血迷ったかセイバーをジャンヌ・ダルクと勘違いして付け狙っているときたもんだ。こいつは好都合だよ。僕らはキャスターを追い立てるまでもなく、ただ待ち構えて網を張っているだけでいい」 「マスター、それでは足りない」  凛と通る声で異を唱えたのは、それまで無視され通してきたセイバーだった。 「あのキャスターの出方を、手をこまねいて見守っていたのでは、|無車《むこ》の人間の犠牲がいたずらに増えていくばかりです。奴の悪行は容認しがたい。これ以上被害が拡がる前に、こちらから討って出るべきです」  セイバーは、誠意を込めた言葉であれば、切嗣の心の壁をも崩して通じるものと期待したのかもしれない。だとすればそれは空しい望みだった。切嗣は相変わらず、まるでセイバーの声が聞こえていないかのように無反応のまま、話を先に進めていく。 「アイリ、この森の結界の術式はもう把握できたかい?」 「……ええ、大丈夫。結界の綻びも見当たらないし、警鐘も走査もちゃんと機能するけれど……」  返事を返しながらも、アイリスフィールは後ろに控えるセイバーの顔色を伺わずにはいられなかった。  唇を切り結んで切嗣を見据えるセイバーの表情は、さっきまでより一段と険しい。ただ無視されるだけならば押して忍ぶこともできたのだろうが、キャスターを放置する気でいる切嗣への義憤は、抑えるのに余りあるのだろう。  もちろん、そんなセイバーの凝視すらも、衛宮切嗣はどこ吹く風だ。 「今回、ここの城を使うつもりはなかったが、状況が変わった。キャスターをおびき寄せるまでの間、僕らはここで籠城の構えを取る」 「……ねぇ切嗣、それよりも問題はランサーへの対策じゃないの?」  無視されたセイバーに成り代わって、アイリスフィールは異を唱えた。 「あなたがロード・エルメロイを仕留めてから八時間経つけれど、相変わらずセイバーの左手は治癒しないままよ。あの槍の呪いが消えていない以上、ランサーは健在のはすだわ。 単独行動スキルのあるアーチャーならともかく、ランサーのサーヴァントがマスターなしで現界し続けていられる時間じゃないもの」  妻の指摘に、切嗣はあっさりと頷いた。 「確かにな。ランサーは新たなマスターと再契約したか、或いはケイネスを仕留め損なったのか……あのとき邪魔が入ったせいで、奴の死体は確認できてないからな」 「それなら、キャスターを万全の態勢で迎撃するためにも、まずはランサーを倒すべきなんじゃないかしら?」  たたみかける提言に、しかし切嗣はかぶりを振った。 「キャスターが現れても、正面からぶつかる必要はないよ。君は地の利を最大限に活かしてセイバーを逃げ回らせ、敵を|撹乱《かくらん》してくれればいい」  アイリスフィールは驚きに、そしてセイバーは怒りのあまり、ともに切嗣の言葉に瞠目した。 「キャスターと……戦わせないの?」 「キャスターの命は他のマスター全員が狙ってる。放っておいても誰かが仕留めるさ。なにも僕らが手を煩わせる必要はない。  むしろキャスターを追って血眼になっている連中こそ、格好の獲物なんだよ。セイバーを目当てにキャスターが動けば、それを追ってこの森にまで踏み込んでくるマスターが、きっと一人や二人はいるはずだ。僕はそいつらを側面から襲って叩く。キャスター狩りに熱を上げている最中に、まさか狩る側から狩られる側に廻るなんて予想もしないだろうからね」  なるほど衛宮切嗣らしい発想だった。人としての倫理も魔術師としての義務も眼中にない、ただ弱肉強食の方程式から成果を導き出す狩猟機械さながらの戦術である。  もとよりこの出城には立ち寄らないはずだった切嗣が、なぜ急に方針を変えて自分たちと合流したのか、ようやくアイリスフィールは納得した。 「マスター、貴方という人は……いったいどこまで卑劣に成り果てる気だ!?」  声を荒げるセイバーの様に、アイリスフィールは胸が痛んだ。いまセイバーが見せるのは、昨夜のライダーの嘲弄やキャスターの妄言に対して向けた怒りとは別種の──ある意味ではより激しく痛切な憤りだった。 「衛宮切嗣、貴方は英霊を侮辱している。  私は流血の代行のために招かれた。聖杯を求めて無用な血が流れぬよう、犠牲を最小限に留めるよう、万軍に代わる一騎として命運を背負い勝敗を競う……それが我らサーヴァントのはずだ。  なのになぜ戦いを私に|委《ゆだ》ねてくれない? 昨夜ランサーのマスターを襲ったという手口もそうだ。一歩間違えれば大惨事になっていた。あんな|真似《まね》をしなくても、私とランサーは再戦を誓っていたというのに! ──それとも切嗣、貴方は自身のサーヴァントである私を信用できないというのか?」  切嗣は答えない。セイバーの激語など何の|痛痒《つうよう》でもないかのように、冷淡な沈黙を通している。その仮面のような無表情が、アイリスフィールはたまらなく嫌だった。  あれは彼女の知る夫の顔ではない。  たしかに彼女は、衛宮切嗣という人物の二面性を知っている。彼が妻と娘に惜しみなく愛情を注ぐ一方で、胸に秘めた過去の傷を引きずっていることも察していた。アインツベルンに加わる以前の彼がどういう人生を歩んできたかは聞き及んでいる。だがそれは、こんなにも決定的に彼女と夫との問を隔絶させてしまうものだったのか?  殊更にそれを意識させるのは、さっきからただの一言も発することなく、 �切を切嗣に委ねたまま黙然と会議に列席している黒衣の女性の存在だ。それはアイリスフィールの憂諺を誘う、もうひとつの理由でもあった。  久宇舞弥とは初対面ではない。何度か切嗣と接触するべくアインツベルン城に出向いてきたことがある。切嗣が九年を隠遁して過ごす間、外界における彼のエージェントを務めていたのも彼女だ。  アイリスフィールと出会うより以前の切嗣と、行動を共にしていた女性。この会議の席において、切嗣の言動にまったく動揺することもなく、彼女は落ち着き払って沈黙を守っている。おそらく舞弥にとっては、今の切嗣こそが本来の──彼女の知る姿のままの衛宮切嗣なのだろう。  つん、と──|微《かす》かながらもいがらっぽい残り香が鼻を突く。煙草の匂い。初めて切嗣と会ったとき、彼の身体に染みついていたそれがたまらなく不快だったのを憶えている。  夫婦になってからは絶えて久しく|嗅《か》ぐことのなかったその匂いを、今また再び切嗣は漂わせている。或いはそれは、硝煙の匂いでもあるのだろうか。  今の切嗣は、まぎれもなく九年前の彼だ。聖杯を獲るためだけにアハト翁に拾われた、冷酷非情の猟犬。  そしてその頃のアイリスフィールはといえば、ただ聖杯の守手となるべくして設計された人形に過ぎなかった。切嗣の中の時間が巻き戻ることは、同時に彼女自身の時間までもが巻き戻されていくようで──まるで二人が過ごした九年の時間を、すべて無かったことにされてしまうかのようで、内心穏やかではいられなかった。  いま衛宮切嗣という男のもっとも|傍《そば》にいるのは、妻である自分ではなく、久宇舞弥なのではあるまいか……  胸に|蠕《わだかま》る想いを言葉にする代わりに、アイリスフィールはまったく別の問いを口にした。 「……監督役が提示した新しいルールはどうなるの? キャスター以外とは休戦のはずでしょ?」 「構わないよ。監督役は報償を示しただけで罰則は設定してない。難癖をつけられたところでシラを切り通せばいいだけの話だからね」  セイバーのときとは一転して、切嗣はアイリスフィールからの問いにはすんなりと返答した。 「──それに今回の監督役はどうにも信用できない。なにせ素知らぬ顔でアサシンのマスターを匿っている奴だ。ひょっとすると遠坂ともグルかもしれない。裏が見えてこないうちは疑ってかかった方がいいだろう」 「……」  セイバーは怒りに震え、アイリスフィールは複雑な想いに囚われたまま、共に語るべき言葉を失って沈黙する。そんな停滞を、切嗣は会議の終結と見て取ったらしい。 「それじゃぁ解散としよう。僕とアイリはしばらくこの城に留まってキャスターの襲来に備える。舞弥は街に戻って情報収集に当たってくれ。異変があったら逐一報告を」 「わかりました」  淀みない返事で頷くと、舞弥は席を立ってサロンを後にする。遅れて席を立った切嗣も、テーブルの上の地図や資料をかき集めてから退出した。最後まで、ただの一度もセイバーとは目線を合わせることなく。  完全に黙殺された形のセイバーは、怒りに歯噛みしながらも足下の絨毯を睨み続けている。そんな彼女とともに取り残されたアイリスフィールは、いったいどんな言葉で場を取りなせばいいのか判らなかった。  いや、誇り高き騎士王たる彼女が、そんな上辺だけのフォローで慰めてほしいなどと思うわけがない。いま必要なのはもっと根本的な解決だ。そう思い至ったアイリスフィールは、そっとセイバーの肩に手を置くだけで|労《ねぎら》いの意思を伝えると、すぐさま切嗣を追ってサロンを後にした。  あんなにも意図的な、セイバーに対する切嗣の拒絶──ただの相性などであるわけがない。よほどの嫌悪か怒りといった負の感情がなければできることではない。何にせよ行き過ぎだ。いかに方針の食い違いがあろうとも、同じ勝利を目指している同胞である。尊重しろとまでは言わないが、侮辱を与えていいわけがない。  切嗣の姿はすぐに見つかった。城の前庭を望むテラスに出て、手すりに寄りかかったまま夜の森を眺めている。幸いにも、近辺に舞弥の姿はない。 「……切嗣」  我知らず声音が厳しくなるのを感じながらも、アイリスフィールは夫の背中に詰め寄って声をかける。切嗣も気配は察していたのだろう。驚いた素振りも見せずに振り向いた。  アイリスフィールは覚悟していた。ついさっきまでサロンで対峙していた、切嗣の冷たく無慈悲な眼差しを相手にするものとばかりに。だから振り向いた切嗣の表情を目の当たりにした途端、彼女は途方に暮れて立ちすくむしかなかった。  傷つき、怯えきった子供のように、今にも泣き出しそうなほど追いつめられた顔。そこにいるのは凄腕の魔術師殺しなどとは程遠い、ただの非力で臆病な男でしかなかった。 「切嗣、あなたは──」  戸惑うアイリスフィールを、さらに切嗣が有無も言わさず抱きすくめる。その胸板は、震えていた。力強く頼もしいはずの夫の腕が、今は慈母にすがりつく子供のように頼りなかった。 「もし僕が──」  痛いほどの力を腕に込めながら、掠れた弱々しい声が耳元に問いかけてくる。 「もし僕が今ここで、何もかも|拠《ほう》り投げて逃げ出すと決めたら──アイリ、君は一緒に来てくれるか?」  それは、およそ考え得る限りにおいて、衛宮切嗣という男が絶対に口にするはずのない問いだった。アイリスフィールは驚きのあまり言葉を失い、それからようやくのことで訊き返した。 「イリヤは……城にいるあの子は、どうするの?」 「戻って、連れ出す。邪魔する奴は殺す」  短く断固とした──それほどに切羽詰まった声で、切嗣は答えた。本気なのは疑うまでもなかった。 「それから先は──僕は、僕の全てを僕らのためだけに費やす。君と、イリヤを護るためだけに、この命のすべてを」 「……」  いまアイリスフィールは、この男がどれほどの瀬戸際に追いつめられているのか、ようやく理解した。生涯最大の戦いを前にして、彼女の伴侶たる男は、掛け値なしの限界に晒されているのだと。  彼は九年前の切嗣ではない。あの非情にして無謬の猟犬の如く、銃弾のように、刃のように、自らを限りなく鋭利に鍛えて研ぎ上げた殺人機械まがいの男では、ない。  そんなにも切嗣は変わってしまった。どうしようもなく危うく|脆弱《ぜいじゃく》に。その|苛烈《かれつ》なる理想を遂げるに及んで、ここまで追いつめられてしまうほどに。そう変えてしまった要因が何なのか、他ならぬアイリスフィールには判っている。  妻と娘。衛宮切嗣の人生に決して紛れ込むはずのなかった不純物。  喪うものなど何もない。痛みを感じる心すらない。そんな男であったからこそ切嗣は強くいられたのだろう。この世界を救済しようという遠すぎる理想を追い求め、そのための犠牲を躊躇なく切り捨てられる、そんな苛烈な戦士でいられたのだろう。  いま切嗣が求められているのは、そんな過去の自分に立ち戻ること。にも拘わらず──歳月を巻き戻すことで、切嗣の魂はいま軋みを上げている。九年の変化があまりにも決定的であったが故に、切嗣はかつての冷酷さを装うだけで相当の無理を強いられている。  セイバーに対する拒絶は、つまるところ、そんな切嗣の弱さの露呈でしかなかったのだろう。今の彼には自分を保つことだけで精一杯なのだ。セイバーを受け入れる余裕、騎士王との協調に心を致す余裕さえ、すでに残されていないほどに。  アイリスフィールは胸が詰まった。愛する男がこれほどの苦悩に晒されていながら、彼女には救済する術がない。切嗣を苦しめているのは、他ならぬ自分の存在なのだから。  今の彼女にできるのは、ただ一言  虚しい問いを投げることだけだった。 「逃げられるの? 私たち」 「逃げられる。今ならば、まだ」  切嗣は即答する。だがそれは、信じるところを口にした言葉ではない。どうしようもなく虚しい希望を自分自身に信じ込ませるために、声にして口に出しているに過ぎない。 「──嘘」  だからアイリスフィールは指摘した。優しく、残酷に。 「それは嘘よ。衛宮切嗣、あなたは決して逃げられない。  聖杯を捨てた自分を、世界を救えなかった自分を、あなたは決して赦せない。きっとあなた自身が、最初で最後の断罪者として、衛宮切嗣を殺してしまう」  切嗣が押し殺した鳴咽を漏らす。彼とて、判ってはいるのだ。選択|肢《し》などとうの昔に喪われているのだという事実を。 「怖いんだ……」  鳴咽の隙間から、切嗣は子供のように告白した。 「奴が──言峰綺礼が、僕を狙ってる。舞弥に聞いた。奴は僕を吊る餌としてケイネスを張っていた。行動を読まれてた・…  僕は、負けるかもしれない。君を犠牲にして戦うのに、イリヤを残したままなのに、僕は……いちばん危険な奴が、もう僕に狙いを定めてる。決して遭いたくなかったアイツが!」  衛宮切嗣は暗殺者だ。英雄でも、武人でもない。五分の生死を賭けて競い合う、そんな勇気や誇りとは無縁の臆病者だ。故に慎重に、的確に、最低限のリスクで勝利と生存を勝ち取ることだけを狙う。狩人にとって最大の悪夢とは、狩られる側に立たされることなのだ。  だがそれでも、かつての切嗣であったなら、己の窮地にも眉一つ動かさず、ただ冷淡に最善の打開策を見出すことに専念していただろう。それは『愛する者を喪う』という恐怖とは無縁でいられたが故の強さだった。その欠落は、今ふたたび戦いに臨まんとする衛宮切嗣にとって、致命的な弱点となりうるものだ。 「あなた一人を戦わせはしない」  夫の震える背中に手を廻しながら、アイリスフィールは優しく言い聞かせた。 「私が守る。セイバーが守る。それに……舞弥さんも、いる」  認めるしかなかった。今の切嗣が必要とする女が誰なのか。  彼の心に往年の強靱さを、痛みと恐怖を封印できる冷酷さを呼び戻すことができるのは、ただ独り。それは決してアイリスフィールには叶わない相談だ。  せめて彼女に出来ることがあるとするなら、それはただの気休めにしかならない|抱擁《ほうよう》ぐらいのもの。それでも──アイリスフィールは、祈らずにはいられない。  役に立てなくてもいい。彼女が、こうやってほんのささやかでも切嗣を癒してやれる時間が、どうか一分一秒でも長引いてくれないものか。  ──そんな祈りも、懐いたと同時に虚しく消えた。  唐突な胸の動悸に、アイリスフィールは身を強ばらせる。把握したばかりの森の結界の術式が、彼女の魔術回路の中で白熱した鼓動を繰り返す。  警報だ。 「──早速かい?」  耳元で咳いた夫の声は、思いのほか静かで──そして、彼女に馴染みのない固さと冷たさを取り戻していた。  妻の血相を見ただけで、切嗣は状況を察したのだろう。アイリスフィールは無言のまま頷いて、夫の胸から身体を離す。目の前にはふたたび、冷酷で周到な『魔術師殺し』の顔があった。 「舞弥が|発《た》つ前で幸いだった。今なら総出で迎撃ができる。──アイリ、遠見の水晶球を用意してくれ」 「ええ」  予想よりもはるかに早く、森には戦いの風が吹き込みはじめた。           ×                × 「──いたわ」  ふたたびサロンに終結したアインツベルン陣営ー切嗣、舞弥、そしてセイバーの三人を前にして、アイリスフィールは結界が捉えた侵入者の映像を水晶球に投影して見せた。  不吉にはためく漆黒のローブ。染め抜かれた赤い文様が、まるで血を吸ったように鮮やかに樹間に映える。 「こいつが、例のキャスターかい?」  初めてその姿を目にする切嗣に問われて、アイリスフィールは頷いた。水晶球が映し出すのは、まぎれもなく昨夜セイバーたちの前に立ちはだかった異相の英霊、ジル・ド・レェ伯に他ならない。 「でも……何のつもりかしら?」  アイリスフィールが謁ったのは、キャスターが連れ歩く人数である。  青髭公は単独ではなかった。およそ十人あまりの連れを伴って、森の中を闊歩している。 そのいずれもが年端もいかぬ幼子だった。もっとも年長の子供でも小学生どまりだろう。 みな夢遊病者のようなおぼつかない足取りで、キャスターが先導する後をふらふらと付き従ってくる。魔術の影響下にあるのは明らかだ。  まず間違いなく、監督役の通達にあった、冬木市近隣から拉致された子供たちであろう。 「アイリ、奴の位置は?」 「城から北西にニキロと少し。まだ深入りしてくる気配はないわ」  森に張られた結界は、城を中心とした直径五キロの円陣だ。キャスターがいるのはぎりぎりの境界内である。  もう少し結界の深部に踏み込んでくれば、アイリスフィールは味方の戦いを援護できるエリア・エフェクトを発動できるのだが、キャスターはそれを見越しているかのように、結界の外輪を巡るようにしてうろついている。 「アイリスフィール、敵は誘いをかけています」  固い声で眩くセイバー。サーヴァントである彼女の脚力であれば、ものの数分でキャスターの居場所まで馳せることが可能だ。その胸中はアイリスフィールにも伝わった。セイバーはいまこの瞬間にもキャスターの迎撃に討って出たいと急いている。  なにも騎士王は血気に逸っているわけではない。キャスターが引き連れた子供たちの集団──その不吉な意味合いに焦っているのだ。 「人質……でしょうね。きっと」  |暗響《あんうつ》に漏らすアイリスフィールに、セイバーが頷く。 「罠や仕掛けを発動すれば、あの子供たちまで巻き込みます。私が直に出向いてキャスターを倒し、救い出すしかありません」  明白ではあったが、アイリスフィールには躊躇があった。手負いの身でキャスターと対峙することに不安を抱いていたのはセイバー自身だ。彼女の直感スキルを信用するならば、ジル・ド・レェは油断ならざる難敵である。何の援護もできない結界外縁に、このまま出向かせていいものか……  キャスターの|猛禽《もうきん》めいた大きな|双眸《そうぽう》が、そのときふいに上向いてアイリスフィールを見つめ返し、にんまりと破顔した。 �千里眼を見破られてる──!?�  魔術師の英霊ともなれば、|児戯《じぎ》にも等しい芸当なのだろう。キャスターはアイリスフィールの視点位置を見据えたまま、あざといほどに|磐勲《いんぎん》な|仕草《しぐさ》で腕を巡らし一礼をする。 『昨夜の約定通り、ジル・ド・レェ|罷《まカ》り|越《こ》してございます』  硬い水晶球の表面が震動し、監視先の景色で拾った音声を伝達する。 『我が|麗《うるわ》しの聖処女ジャンヌに、今一度、お目通りを願いたい』  下知を|促《うなが》して、ひたとアイリスフィールを見据えるセイバー。サーヴァントの少女はすでに死地に臨む覚悟を固めている。まだ決断できずにいるのは|主《あるじ》の方だ。  そんなアイリスフィールの逡巡を見透かしているかのように、キャスターは侮蔑も露わに鼻で喧うと、独り芝居のような口上を続ける。 『……まぁ、取り次ぎはごゆるりと。私も気長に待たせていただくつもりで、それなりの準備をして参りましたからね。なに、他愛もない遊戯なのですが──少々、お庭の隅をお借りいたしますよ?』  キャスターが指を鳴らす。と、それまで従順に付き従っていた子供たちが、まるで夢から醒めたかのように目を見開いてたじろいだ。途方に暮れた様子で周囲を見回す子供たちは、いったい自分たちが何処に連れてこられたのか、まったく理解できていないらしい。 『さぁさぁ坊やたち、鬼ごっこを始めますよ。ルールは簡単。この私から逃げ切ればいいのです。さもなくば──』  ローブの裾から手をするりと差し延ばすと、キャスターは手近な所にいた一人の子供の頭に手を載せる…… 「やめろッ!」  制止など叶わないとは知りながら、それでもセイバーは叫ばずにはいられなかった。  割れ砕ける頭蓋の音。飛び散る脳症と目玉の放物線。それら悪夢の光景は、コマ送りの映像となって皆の脳裏に焼きついた。  痛ましい悲鳴を上げて逃げまどう子供たち。その中心に立つキャスターはさも愉快そうに咲笑しながら、血まみれの手を舌でぞろりと舐め上げる。 『さァお逃げなさい。一〇〇を数えたら追いかけますよ? ねぇジャンヌ。私が全員捕まえるまでにどのぐらいかかりますかねエ?』  それ以上、アイリスフィールは悩まなかった。悩めるわけがなかった。ボムンクルスとして生まれ落ちた彼女だが、その魂の形はすでに人であり母である。殺されてうち捨てられた子供の、哀しいほどに小さな体躯は、ちょうどイリヤスフィールの上背と同じぐらいのものだった。 「セイバー、キャスターを倒して」 「はい」  騎士王の返答は最短だった。声がアイリスフィールの耳に届いたときには、すでにセイバーはサロンから姿を消していた。ただ後に残った逆巻く風だけが、|逆鱗《げきりん》の気配を残して伝えていた。 [#改ページ]   -130:55:11  鋼色の疾風と化して、セイバーは樹間を駆け抜ける。  切嗣との|確執《かくしつ》も今は意中にない。ひとたび戦場に立てば、彼女の心はまさしく剣だ。鋭利に研ぎ上げ、曇り一つなく磨き抜かれた剣。いかな迷いに曇ることもない。  今まさにキャスターの術中に飛び込もうとしていることは自覚している。あの悪鬼の所行に対する怒りで血が|漬《たぎ》っているのも確かだ。だがそれでも、今の彼女を駆り立てているのは激情ではない。ただの怒りや憎しみだけでは心を剣にすることはできない。  殺されていく子供たち。決して見慣れぬ光景ではない。戦場に立てば嫌でも小さな骸が目に入る。それはかつてアーサー王として生きた頃の彼女にとって、むしろ日常の光景だった。  人間というモノは、生死の境に立たされればどこまでも醜悪に、卑劣に、残虐になれる。 女を犯し、子供を殺し、飢民から略奪する二本足の獣。血みどろの戦場はそんな|餓鬼《がき》たちで溢れかえるのが常だ。  だが、否だからこそ、そんな地獄の直中にあっても�証明�が要る。たとえどんな逆境においてもヒトは貴く在ることが出来るのだと、身を以て示す誰かが必要になる。  それが騎士だ。戦場の華たるべき者だ。  気高く、雄々しく、鮮烈に、騎士は戦場を照らさなければならない。餓鬼に堕ちんとする者たちの心に、栄誉と誇りを蘇らせて、ヒトに引き戻してやらねばならない。おのれ自身の怒りや悲しみ、痛みや苦しみよりなお先に、それは騎士たる者が果たさねばならない責任なのだ。  故に、セイバーはキャスターを斬る。怒りではなく義務のために。  慎重さを欠くのは認めるしかない。軽率と|誹《そし》られても仕方ない。だが決して無謀ではない。キャスターには難敵の予感があるが、それでも勝機を見出しかねるほどの絶望感は感じない。死力を尽くして戦えば、最後に立っているのは自分の方だろうと──セイバーの第⊥ハ感はそう告げている。  ならば斬る。切嗣と違って、そうしなければならない理由がセイバーにはある。たとえ傷つき消耗することになろうとも、あのような邪悪はこの手で斬り伏せなければならない。 それは騎士たる者の王として彼女が背負った責任であり、避けては通れない義務なのだ。 戦いの意義を汚す者、死地にてヒトの尊厳を|貶《おとし》める者を、捨て置くことは許されない。  血臭がひときわ濃くなる。具足を滑らせるほどのひどい|泥渾《ぬかるみ》が、セイバーの足を止めさ せる。  土砂降りの後の地面のように、土はたっぷりと湿気を吸っていた。雨水ではなく真紅の鮮血を。  |喧《む》せ返るほどの臓物臭。辺り一面が血の海だ。いったいどれほどの殺獄を行えばこんな|酸鼻《さんび》な景観を生み出せるのか、想像するだに胸が悪くなる。  しかもその|餌食《えじき》となったのは、揃いも揃って|年端《としよ》もいかぬ、いたいけな子供たちばかりだ。セイバーは水晶球の中に見た、怯えて泣き叫びながら助けを求めていた子供たちを思い出す。ついさっきの出来事だ。セイバーが森を駆け抜ける、ほんの数分足らず前の情景。  あのときはまだ生きていた。ここに散らばる幾多もの骸が…… 「ようこそジャンヌ。お待ちしておりましたよ」  立ちすくむ白銀の貴影を、キャスターは晴れやかな笑顔で歓待した。自らの催した宴の盛大さを誇らずにはいられない、そんな自賛に満ち足りた満面の笑み。血の海の中央に停む漆黒のローブは、生賛の鮮血を浴びて、なおいっそう色味の艶を増している。 「如何ですかこの惨状は。痛ましいでしょう? 嘆かわしいでしょう? この無垢なる子供たちが最期に味わった苦痛の程、貴女には想像できますか?  でもねジャンヌ、この程度など悲劇と呼ぶにも値しませんよ。貴女を喪ってよりこのかた、私が重ねてきた所行に比べれば──」  語らせる気も、聞く耳もない。セイバーはもはや寸刻の猶予も与えぬままに横薙ぎの一閃でキャスターを両断せんと、深く一歩を踏み込む。  キャスターもまた、その足運びだけで殺意の程を見て取ったのだろう。それ以上いたずらに口上を続けることなく、さっと手を振り払ってローブの裾を翻す。  その懐に秘め隠してあったものは、ふたたびセイバーの動きを止めさせるのに充分なものだった。  人質になっていたのは子供  最後に生き残った一人だ。キャスターの小脇に抱えられたまま、今もしゃくり上げて泣いている。この場で盾とするためだけに、彼は生賛の一人を生かしておいたのだろう。 「──おぉジャンヌ、やはり貴女は怒りに燃えた眼こそが美しい」  キャスターは悠然と落ち着き払ったまま、セイバーに向けてねっとりと微笑みかける。 「そんなにも私が憎いですか? えぇ憎いでしょうともねぇ。神の愛に背いた私を、貴女は断じて赦せないはずだ。かつて誰よりも敬慶に神を讃えていた貴女ですものね」 「その子供を放せ、外道」  刃も同然に冷たく鋭く、セイバーはキャスターに告げた。 「これは聖杯に相応しき英霊を選抜するための戦いだ。英霊にあるまじき戦い方をするならば、貴様は聖杯に見捨てられるぞ」 「貴女が蘇ってくれた以上、もう聖杯などは用済みなのですがね……ジャンヌ、貴女がそんなにもこの子の救命を望むなら」  キャスターは失笑すると、拍子抜けするほどあっさりと子供から乎を放し、優しく地面に立たせてやった。 「さあ坊や、お喜びなさい。敬慶なる神の使いが君を助けてくれるそうだ。全能の神めがようやく慈悲を示したよ。お友達は誰一人救ってもらえなかったというのにねぇ」  幼い子供でも、駆けつけた金髪の少女が救いの主であることは明白に理解できたのだろう。わっと泣き声を上げながら、脇目もふらずにセイバーへと駆け寄った。  鎧の草摺りにしがみつく小さな手に、セイバーは籠手の指先でそっと触れた。抱き上げて慰めてやりたいのは山々だったが、いまセイバーは死地にある。子供の安全を考えればこそ構っていられる状況ではない。 「さあ、ここは危険だ。早く逃げなさい。このまま進めば大きな城がある。そこで助けを──」  めきり、と子供の背中が軋んだ。すすり泣きが苦痛の悲鳴に変わった。  瞠目するセイバーの眼前で、小さな身体は真っ二つに爆ぜ割れた。そしてその体内から噴き出たのは赤い|血飛沫《ちしぶき》ですらなかった。  青黒くうねくる、|霧《おびただ》しい数の|蛇《へび》の群れ──いや、小さな|顎《あぎご》のような吸盤にびっしりと覆われたソレは、そんな|生易《なまやさ》しい代物ではない。|鳥賊《いか》か、もしくはそれに類する異形の生物 の触手であった。セイバーの手首と変わらない太さのそれらが、瞬時に伸び拡がって銀の鎧に巻き付くや、彼女の両手両脚を万力のような力で締め上げはじめた。  生賛の血肉を介して、異界より呼び込まれた怪魔-出現したのはセイバーを捕縛した一匹だけではない。辺り一面に散らばる肉片や血溜まりが、続々と触手の塊を産み出していく。瞬く間にセイバーは、数十匹もの怪生物に周囲を包囲されていた。  それぞれの単体は概ね等身大。胴もなければ四肢もない、巨大なオニヒトデとでも形容するべき不定形の生物だった。無数の触手の基部とおぼしき部分には、鮫のように鋭利な刃を備えた環状の|口腔《こうくう》がある。まったく未知の生物だったが、霊体や幻想種とも違う。おそらくは自然法則の異なる別次元に住まう生物なのだろう。 「申し上げたはずですよ? 次に会うときは相応の準備をしてくると」  勝ち誇ったように高笑いするキャスターの手には、いつの間にか一冊の分厚い装丁本があった。濡れ光るような艶を帯びたその表紙は、人間の皮を貼ったものだ。視覚では本としか見えないそれが、セイバーの霊感力には渦巻く閃光のように知覚されていた。あの本を中心として膨大な魔力が脈動し、放射されている。もはや察するまでもなく、それはキャスターの�宝具�に相違なかった。 「我が盟友プレラーティの遺したこの魔書により、私は悪魔の軍勢を従える術を得たのです。|如何《いかが》ですかジャンヌ? かつてオルレアンに集ったいかなる兵団も、これほど豪壮ではありますまい?」  セイバーは答えなかった。触手の緊縛に締め上げられたまま、彼女が籠手の中に感じていたのは、干澗らび、原型も留めないほどに寸断された骸の名残だった。怪魔が現界すると同時に血肉を喰い貧られたそれは、もはや人一人分の重さもない。ほんの数秒前まで、泣きじゃくりながら彼女にすがりついてきた、幼い子供であったはずのモノ。 「──良いだろう。もはや貴様と聖杯を競おうとは思わない」  静かに、ぞっとするほど静かにそう咳くと、剣のサーヴァントは腹腔に幡っていたものを解き放つ。  騒く怪魔たちがたじろいだ。キャスターの鼓膜を叩いたのは、音というよりも衝撃波そのものだった。  少女の綾躯から|送《ほこぱし》ったのは、怒りに沸騰した雄叫びと──そして魔力噴射の炸裂だった。その総身を圧し包んでいた触手の束は、ただの一瞬も持ち堪えることなく破断し、細切れの肉片となって周囲に飛び散り消滅した。こびりついていた粘液の一片すらも遺さず吹き飛ばし、白銀の鎧は曇り一つない輝きを取り戻している。そしていま群れなす怪魔の直中に、軍神もかくやと見紛う神々しき立ち姿で、少女は燃えさかる双眸をキャスターに据えていた。 「この戦いに、私は何も求めまい。何も勝ち取るまい。今はただ……キャスター、貴様を滅ぼすためだけに剣を執る」 「おおお、ジャンヌ……」  セイバーの威圧に打たれ、か細く喘いだキャスターの面相を染めるのは──だが畏怖でも動揺でもなく、忘我の|胱惚《こうこつ》の表情だった。 「なんと気高い、なんと雄々しい……ああ聖処女よ、貴女の前には神すらも|霞《かす》む!」  歓喜の声も高らかに、キャスターは悶絶した。それを合図に怪魔の触手が、雪崩を打ってセイバーへと殺到する。 「我が愛にて|臓《けが》れよ! 我が愛にて堕ちよ! 聖なる乙女よッ!」  剣風と狂笑が、死闘の|火蓋《ひぶた》を切って落とした。           ×                ×  水晶球の中で始まった戦いの様相を、アイリスフィールは息を詰めて見守っていた。  セイバーが予知した不吉の正体も、今となっては明白だ。  クラスの特性を鑑みれば、セイバーはキャスターに対して圧倒的優位を誇る。剣の英霊のクラスを得た時点で、彼女の魔術抵抗スキルはより強力に増幅されているのだ。魔術を主力とするキャスターにとって、これは致命的とも言えるハンデである。正面から激突すればキャスターには万に一つも勝算はない。  だが──  思えばジル・ド・レェ伯爵が後世に遺した魔術師としての顔は、すなわち悪魔召喚を目論んだ人物としての逸話ではなかったか。ならばあのキャスターが|召喚魔術師《サモナー》であることは、予想して然るべきだったのだ。  セイバーの魔術抵抗は、あくまで彼女自身を標的として行使される魔術にのみ通用するものであって、異世界から魔獣を呼び込む術を阻止する助けにはならない。そしていったん召喚された怪物は、実体化した時点で魔術とは別種の脅威となる。その牙も、鉤爪も、いわば刀剣と同じ物理的攻撃だ。これに対処するにはセイバーも、剣技と具足のみを頼りとするしかない。  無論それでも、白兵戦能力においても最強を誇るセイバーであれば、たかだか異界の魔獣など恐れるにも値しない。だがそれはあくまで彼女が万全だった場合の話である。  水晶球が映し出す森の中の戦いは、決して楽観視できる展開ではなかった。  襲いかかる触手の怪異たちを前に、セイバーは一歩も譲らない。まさに|獅子奮迅《ししふんじん》の戦いぶりである。不可視の剣が|薙《な》ぎ払われるたび、確実に一匹二匹と両断された怪物たちが宙を舞う。おぞましい触手の群れは、その先端すら少女のサーヴァントに触れることが叶わない。  文字通り津波のように押し寄せる怪魔の軍勢を、セイバーは完全に防ぎきっていた。──それは同時に、防ぐだけで手一杯という窮状をも意味していたのだが。  ひたすら猛烈な剣捌きで敵勢を押し返すセイバーではあったが、そんな彼女の奮戦ぶりを、キャスターは離れた位置で余裕の笑みを浮かべながら見守っている。怪魔たちの|首魁《しゅかい》たるキャスターに対して、セイバーは未だに一歩詰め寄ることすら果たせずにいた。  触手の怪魔は、斬り伏せられた端から続々と新手が現れる。大地を染める血溜まりのそこかしこから、もはや無尽蔵としか思えない数の怪生物が次から次へと現れ出ては、セイバーの包囲に加わっていく。  不可視の剣が切り裂く数と、新たに召喚され現界する怪魔の数とは、完全に|拮抗《きっこう》していた。それは即ち、キャスターが戦いの主導権を握っていることを意味している。魔術師は勝ちを急ぐこともなく、セイバーをあしらうのに必要なだけの兵力を逐次動員していくことで、戦いを|膠着《こうちやく》させているのだ。  キャスターは戦略として持久戦を選んでいる。おそらくはこのままセイバーを|疲弊《ひへい》させ、体力が尽きたところで決着をつける意図だろう。そしてセイバーはいま完全にその術中に嵌っている。  もし万全な状態のセイバーであれば、戦局はまた変わっていたであろう。数を頼みにした雑魚の群れなど歯牙にもかけなかったに違いない。だが今のセイバーは左手を封じられている。水晶球越しに窺い見る表情からも、思うさまに戦えない歯痒さが、ありありと見て取れる。 「まだ他のマスターが森に入ってきた反応はないのか?」  背後からそう問う切嗣の声は、いまセイバーが立たされている窮地などまるで意中にないのが明らかで、さしものアイリスフィールも撫然となったが、そんな妻の反応にすら気付かないかのように、切嗣は黙々と武器の準備に勤しんでいる。コートの下のサスペンダ──に、各種の手榴弾や、短機関銃の予備弾倉を納めたポーチなどを次々と取り付けていく様は、戦いに臨む魔術師の準備とはまるで思えない。──が、腰に巻いたガンベルトのホルスタ──に、切嗣の礼装である|単発魔銃《コンテンダー》が収まっているのを見て取ったアイリスフィールは、夫の覚悟の程を理解した。 「舞弥、アイリを連れて城から逃げてくれ。セイバーたちとは逆方向に」  切嗣の指示に、舞弥は躊躇なく頷いたが、アイリスフィールは動揺を隠せなかった。 「ここにいては……駄目なの?」 「セイバーが離れた場所で戦っている以上、この城も安全ではない。僕と同じことを考える奴だっているだろうからね」  たしかにセイバーが留守にした城に居残っているであろうマスターを狙って、漁夫の利を企もうという輩はいるかもしれない。マスターを殺そうと思うなら、サーヴァントと別行動している隙は最大の狙い目である。  サーヴァントの護衛下にあるマスターと、自身の工房に立て籠もっている魔術師と、はたしてどちらが攻める上で|与《くみ》しやすい敵か──たとえば切嗣の場合は後者を選ぶ、という判断だ。もし同じ結論に至る魔術師がいた場合、いま単独で戦っているセイバーの姿を確認すれば、そのときは迷わず城中のアイリスフィールを狙ってくることだろう。  せっかく再会できたばかりの切嗣が再び別行動を取ることに、アイリスフィールは不安を感じずにはいられなかった。彼が秘め隠している不安定な心理状態を知った上では尚更だ。とはいえ、自分が切嗣に同伴したところで足手まといにしかならないのも判る。そもそも、束の間とはいえ城で合流したことの方が本来はイレギュラーなのだ。 「……」  自分の胸中を冷静に推し量り、そこでようやくアイリスフィールは自覚した。不安の元は切嗣との別れではなく、舞弥と行動を共にすることなのだ。切嗣としては護衛のつもりなのだろうが、やはり根のところでアイリスフィールは、舞弥に対する苦手意識を捨てきれずにいた。  とはいえ彼女とて、まさかそんな私情で切嗣の方針に異を唱えるほど子供ではない。 「──わかったわ」  情然と頷いたそのとき── 「!?」  魔力回路を、新たな|痺《うず》きが走り抜けた。森の監視結界からのフィードバックである。 「……どうした? アイリ」 「切嗣、あなたの目論見通りよ。どうやら新手がやってきたみたい」 [#改ページ]   -130:48:29  三匹を切り捨てた時点で、敵の思う|壺《つぼ》だと悟った。  理由までは解らない。だが触手の怪物たちのあまりの脆さと、それに不釣り合いなキャスタ〜の自信の程に、セイバーの直感が警鐘を鳴らしたのだ。  一〇匹を切り捨てて、ようやく不安の正体を確かめた。  敵の数が減らない。いくら潰しても新手が増える。キャスターの召喚魔術は、異界から続々と増援を呼び込み続けている。  ならそれはそれで構わない。セイバーは荒ぶる心で意を決した。敵がいくら多勢に膨れていこうと、こちらはそれに倍する勢いで蹴散らしていけば済むだけの話。濠る闘志に駆られるがまま、セイバーの剣は猛然と速度を増した。  三〇匹。一向に減る気配のない敵勢に、セイバーの胸を焦燥がよぎる。  五〇匹。数えるだけ無駄だと理解した。怪魔どもが現界する苗床になっているのは、生賛になった子供たちの血と肉ばかりではなく──視界の隅で、斬った怪魔の骸から新たな怪魔が生まれ出るのを、セイバーは見轡めたのだ。なるほど減らない道理である。これでは倒した怪魔が無尽蔵に再生しているも同然だ。  こうなれば魔力の備蓄の争いだ。持久戦を悟ったセイバーは、すぐさま|剣戟《けんげき》の勢いを落とした。力の限りに剣を揮っていたのでは保たない。必要最小限のスタミナで、なるべく効率よく狩り取っていくしかない。  キャスターの魔力とて有限だろう。これだけひっきりなしに使い魔の召喚と再生を繰り返していれば、いつかは|枯渇《こかつ》する。問題は、そこまでセイバーが凌ぎきれるかどうか、だ。  用を成さない左手に、あらためてセイバーは歯噛みした。右腕一本で剣を振るには、どうしても足りない|弩力《りよりよく》を魔力噴射で補わなければならない。余計な魔力の消耗は、この局面において何よりも手痛い負荷だった。  そもそも、この剣の柄に両手を添えられていたならば──『|約束された勝利の剣《エクスカリバー》』の一閃は、この汚らわしい有象無象どもを灰も残さずに焼き払っていただろうに。  苛立ちに歯ぎしりしつつも剣を振り続け、やがて切り伏せた数はとうに三桁を凌こうかという頃になっても、だが相変わらずキャスターは悠然と薄笑いを浮かべたままセイバーの奮闘ぶりを鑑賞している、相手が一向に憔惇の色を見せないことを詞ったセイバーは、そこで改めて、敵の手にした装丁本から立ち上る魔力の密度の異常さに気付いた。 �まさか……!?�  最悪の想像ではあったが、おそらくは間違いない。  おびただしい怪魔どもを呼び出し、再生し、飽くことなくセイバーの刃の下へと駆り立てている召喚魔術。その呪言を唱っているのは、あの魔道書そのものだ。  アレはただ呪文が記載されているだけの紙の束ではない。おそらくは本そのものが大容量の魔力炉を備え、それ単体の力で術を行使できる�怪物�だ。キャスターは頁から呪文を読み取って行使するのではなく、魔力の発動源たるソレを自在に�使役�しているにすぎないのだ。 『|螺浬城教本《プレラーティーズヒスペルブック》』──まさに恐るべき�宝具�であった。もしアイリスフィールがセイバーの正規のマスターで、初見のときにキャスターの能力を読み取る透視力を備えていたならば、相手が宝具能力のみに特化したタイプの危険なサーヴァントであると看破できていただろう。そうと知っていればセイバーも、むざむざキャスターの誘いに乗って消耗戦に応じるよりは、たとえ臆病の誹りを受けようとも、もっと慎重な判断を下していたかもしれない。  否──そんな後悔は軟弱だ。  セイバーは己を一喝した。誇りに|依《よ》って立つ騎士ならば、このキャスターのような邪悪を前にして退くことは許されない。それでは彼女が持ち合わせる最大の力と武器を手放すことになってしまう。──即ち、己の剣の正義を信じる心を。 「懐かしいですねぇジャンヌ。何もかも昔のままだ」  次第に凄惨の度合いを増していくセイバーの立ち回りを、キャスターは聖画でも眺めるかのように悦惚と見守っていた。 「多勢に無勢の窮地にも、決して臆せず、屈せず、貴女の眼差しはただひたむきに勝利を信じて疑わなかった。やはり貴女は変わらない。その気高き闘志、尊き魂の在りようは、まぎれもなく貴女がジャンヌ・ダルクであることの|証《あかし》。それなのに……」  相変わらずの世迷い言。だがセイバーは怒りを圧し鎮めて目の前の雑兵を斬り払うことに専念する。いちいち取り合っていたのでは、ますます相手を図に乗らせるだけだ。 「何故だ? なぜ目覚めてくれないのです? 未だ神の加護を信じておいでか? この窮地にも奇跡が貴女を救うと? ──嘆かわしい! コンピエーニュの戦いをお忘れか?貴女を栄光の頂から破滅の奈落へと突き落とした神めの罠を! あれほどの辱めを受けてなお、貴女は神の操り人形に甘んじるのか!?」  あのふざけた口を|喋《つぐ》ませたい。くだらぬ妄想のために幼子の命を奪った罪を、その裁きの何たるかを知らしめたい──そう心は|逸《はや》っても、剣先は一向に届かない。|十重二十重《とえはたえ》に押し寄せる怪異どもの壁に|阻《はば》まれて、キャスターまでの距離はあまりに遠い。  わずかな隙を衝いて、背後からセイバーの首に触手が巻きついた。締め上げられる前に掴み取ろうと反射的に手を伸ばしたものの、親指が利かない左手は、虚しく触手の表面を滑るだけだった。 「く……」  動きが止まったセイバーの視界を、触手の壁が覆い尽くす。また魔力噴射で吹き飛ばすしか他にない。が、この量は……  閃いた赤と黄の稲妻が、そのとき怪異の群れを薙ぎ払った。  縛めを解かれ、大きく息を吸って喘いだセイバーの眼前に、若草色の戦支度に身を固めた長身の背中が割り込む。 「無様だぞセイバー。もっと魅せる剣でなければ騎士王の名が泣くではないか」  呆気にとられたセイバーに、罪作りなほどの美丈夫が艶やかなウィンクを送る。魔力抵抗を持つ彼女だからこそ耐えられる魔貌の視線。その双槍の熾烈さとは裏腹に、ディルムッド・オディナの微笑みはどこまでも甘く涼しい。 「ランサー、どうして……」  驚きは、だがセイバーよりもキャスターの方が数段勝っていた。 「何者だ──!? 誰の赦しを得てこの私を邪魔立てするか!」 「それはこちらの台詞だ。外道」  激昂するキャスターを冷ややかに見据えて、ランサーは左の短槍の切っ先を突きつける。 「貴様こそ誰の赦しを得ての狼籍か? そこなセイバーの首級は我が槍の|勲《いさお》。横合いからかっ|攫《さら》おうなどとは、戦場の礼を弁えぬ盗人の所行だぞ」 「たわけ! たわけたわけたわけェッ!!」  キャスターは頭皮を掻きむしり、目を剥いて奇声を張り上げた。 「私の祈りが! 私の聖杯が! その女性を蘇らせたのだッ! 彼女は私のものだ……肉の一片から血の一滴まで、その魂に至るまで私のものだッ!!」  だがランサーはキャスターの気勢に呑まれることもなく、深く溜息をついて肩を煉めた。 「いいか? セイバーの左手を奪ったのはこの俺だ。よって彼女の片手のハンデにつけ込む権利を持つのは、ただ一人この俺だけだ」  ゆるりと左右の槍の穂先を持ち上げて、ランサーは彼独特の双槍の構えを取る。セイバーの前に立ち、まるで騎士王を背後に庇うかのように。 「なぁキャスター、べつに俺は貴様の恋路にまで口出しはせんよ。是が非でもセイバーを屈服させて奪いたいというのなら、やってみるがいいさ。ただし──」  艶貌の戦士は言葉を切って、やおら双眸に凄烈を宿らせる。 「このディルムッドを差し置いて�片腕のみのセイバー�を討ち果たすことだけは、断じて許さぬ。なおも貴様が退かぬとあらば、これより先は我が槍がセイバーの�左手�に成り代わる」  セイバーがこうして槍兵の背中を見るのは、思えば二度目のことだった。昨夜バーサーカーの猛威に晒されたときも、ランサーはこうして割って入った。すべては、ひとたび剣を交えた彼女との決着を、潔く全うするためなのか。 「ランサー、貴方は……」 「勘違いするなよ、セイバー」  言いさしたセイバーに、ランサーは剰げた流し目で釘を差す。 「今日の俺がマスターに仰せつかったのは一つだけ、キャスターを倒せという命令のみだ。 おまえをどうこうしろという指示は受けていない。ならばここは共闘が最善と判断するが、どうだ?」  ランサーの言い分は、まず真っ先にセイバーの窮状を救ったことの説明にはなっていない。そうはせずに、セイバー一人に気を取られているキャスターの背後に回り込んで不意打ちを仕掛けるという選択肢も、この槍兵にはあったのだ。  だがセイバーは、そこまでは追及しなかった。ただ口元に笑みを刻んでランサーに頷くと、その右横に進み出た。  剣の構えは大きく右に。左翼の隙はもう頓着しない。今は限りなく頼もしい|片腕《コ 》がある。 「断っておくが──ランサー、私なら左手一本であの雑魚どもを一〇〇は潰すぞ?」 「フン、その程度なら造作もない。今日のおまえは左利きになったつもりでいるがいいさ」  互いに軽口を交わしつつ、二人の英霊は群れなす怪異たちの壁へと突進した。不可視の宝剣と二本の魔槍が、うねくる触手の束を薙ぎ払う。 「許さぬ……思い上がるなよ匹夫めがァ!!」  キャスターの炮吼に応えるかのように、その手の中の魔道書が不気味に脈動しつつぺ──ジを|靡《なび》かせる。途端に、怪異たちの出減数が倍加した。まさに樹間を埋めつくさんばかりの触手の群れが、セイバーとランサーめがけて押し寄せる。  より|熾烈《しれつ》に、より凄惨に、戦いの第二幕が始まった。 [#改ページ]   -130:45:08  ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが冬木市内でキャスターを捕捉したのは、まったくの僥倖だった。  夕暮れ時の住宅街を、時代錯誤な漆黒のローブが平然と闊歩している有様には呆れて言葉を失ったが、それが通りすがりのライトバンを捕らえてドライバーを暗示で縛り、まるで幼稚園の引率のように幼児を引き連れて乗り込むところを見届けて、ケイネスは即座に追跡を開始したのである。  サーヴァント戦を挑むとなれば入目につかない場所を選ぶしかないが、好都合にもキャスターを載せた自動車は市街地を外れて山奥へと分け入っていく。これ幸いとほくそ笑んだケイネスだったが、着いた先がアインツベルンの森だと判ったときには躊躇した。  冬木の近隣にあるアインツベルンの所領については事前調査でも聞き及んでいた。魔術師の領土である以上は相応の結界や備えがあり、部外者が有利に戦いを運ぶには難しい場所だ。とはいえ、わざわざここまで遠征してきたキャスターが──どういう成り行きなのかはさておき──アインツベルン勢に挑みかかる意図であるのは明白だった。ならばその戦いにつけ込むチャンスもあるかもしれない。意を決し、ケイネスはランサーを伴って森の結界へと踏み込んだ。  案の定、キャスターは迎撃に現れたセイバーと戦闘を開始した。キャスターの単独行動は、その錯乱した言動から既に暴走状態にあるものとして理解できたが、セイバーのマスターもまた姿を現さない。おのれの領地である以上、サーヴァントの傍にいなくても単独で身を守れるものと判断し、後方の拠点で高見の見物を決め込んでいるのだろう。  そこでケイネスの方針は決まった。  ランサーには、兎にも角にもキャスターへの攻撃を命令する。監督役が提示したキャスター討伐の報償は、すでに令呪の一つを消費してしまったケイネスにとって、喉から手が出るほど欲しいところだ。ただしこの状況下でキャスターを倒しても、結果はセイバーとの共同戦線ということになり、アインツベルンのマスターにまで特典の令呪が与えられてしまう。これは決して望ましくない。  そこでケイネスは、キャスターの相手をランサーに任せ、自身は単独でアインツベルンの城に乗り込もうと決意した。キャスターの首級を独占したければ、同時にセイバーのマスターも排除してしまえばいいだけの話だ。  大胆な挑戦ではあったが、ケイネスには揺るがぬ自信があった。アインツベルンがどんな防備で待ち構えていようとも、彼はロード・エルメロイの名に賭けて撃ち破る覚悟でいた。昨夜ソラウに指摘された失点を補おうと思えば、それぐらいの蛮勇を振るって見せなければならない。許嫁に侮蔑を撤回させることは、今のケイネスにとって至上命題だったのだ。  |沸々《ふつふつ》と闘志を渡らせながら、ケイネスは一路、森の奥へと進んだ。結界の森には幻惑の術も施されていたが、ケイネスが持ち合わす類い希な知識と直感は、結界の中枢がどこに位置するかを難なく読み取り、精確に推し量ることができた。降霊科筆頭の天才児たる威名は|伊達《だて》ではない。 �アインツベルンの術式がこの程度のものならば、城の備えとて高が知れている�  そうほくそ笑む余裕さえケイネスにはあった。イギリスから持ち込んだ魔道器の数々はホテルの倒壊によって失ったが、最強の切り札たる『礼装』は肌身離さず持ち歩いている。 戦力に不足は感じない。  ふいに視界を阻む木々が消え、ケイネスの目の前に、古色蒼然たる石造りの城が現れた。 なるほど名高い北の魔道の家門だけあって、移築した出城にしては常軌を逸した規模の建築である。だがケイネスとて名門アーチボルト家の|御曹司《おんぞうヒ》だ。余人なら威風に呑まれる門構えにも、鼻で暇う程度の感慨しか湧かない。 �悪くない。アインツベルンを仕留めたら、この城を乗っ取って新たな拠点とするのもいか……�  ハイアットホテルのスイートを失ったケイネスは、現在、郊外の廃工場を仮の隠れ家とし、そこにソラウを|匿《かくま》っていた。当然、許嫁の機嫌は|甚《はなは》だ悪いし、何よりもケイネスのプライドが許さない環境である。  そうと決めれば、建物の破壊はなるべく最小限に抑えるとしよう。  不敵に笑って、ケイネスは小脇に抱えて持ってきた陶磁製の大瓶を地面に置いた。彼の手から離れた途端、瓶の底は重々しく地面にめり込む。重量軽減の術をかけて持ち歩いていた瓶だが、実際の重さは一四〇キロ近くあるのだ。 「|Fervor,《沸き立て、》|mei《我が》 |sanguis《血潮》」  術式起動の呪言を咳くと、瓶の中身がドロリと口から溢れ出る。鏡のような金属光沢を放つその液体は、大量の水銀であった。量にして一〇リットル程もあるソレが、まるで自律した原生動物か何かのように瓶の外へと流れ出て、ブルブルと震えながら球状に蟷る。  これぞロード・エルメロイの誇る『|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》』──彼が持つ数多の礼装の中でも最強の一品である。 「|Automatoportum《自律》 |defensio《防御》 : |Automatoportum《自動》 |quaerere《素敵》 : |Dilectus《指定》 |incursio《攻撃》」  ケイネスが低い声で唱えるごとに、水銀の|塊《かたまリ》は応答するかのように表面をザワザワと震わせ、そして城の大扉へと歩み寄る彼の足下を転がりながらついていく。 魔術師としても希有な二重属性-『水』と『風』の両方を持ち合わせるケイネスは、両者に共通する�流体操作�の術式を一番の得手としていた。そんな彼が編み出した独特の戦闘魔術が、魔力を充填した水銀を武器として意のままに操る、というものである。  不定形な水銀は、裏を返せばいかなる形態をも取り得るということであり── 「|Scalp《斬》!」  ケイネスがそう一喝するや、水銀球の一部がくびれて細長い帯状に伸び上がり、次の瞬間、|鞭《むち》のように捻りを上げて大扉に叩きつけられた。  しかも衝撃の直前、水銀の鞭は厚さ数ミクロンの薄板状に圧縮され、|剃刀《かみそり》も同然の鋭利な刃と化していた。結果として分厚い扉は|閂《かんぬき》もろともバタ──のように両断され、重々しい響きを上げて内側へと倒れ込んでいた。  水銀は常温で液状を呈するもっとも重い物質であり、これを高圧、高速で駆動した際の運動エネルギーは絶大なものになる。しかも形状は鞭に、刃に、槍にと自由自在に瞬転し、その切れ味はレーザーすらも凌駕する超高圧水流カッターと同等なのだ。  必殺の自信もむべなるかな。ロード・エルメロイの|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の前には、いかなる防御策も無意味である。チタン鋼からダイヤモンドまで、切り裂けない物質は何一つない。  行く手を阻むものが失せたところで、ケイネスは悠然と城内のホールに踏み込んだ。シャンデリアは燦然と輝き、磨き上げられた大理石の床には曇りひとつない。空気はまったく澱んでおらず、あきらかについ今しがたまで人のいた気配がある。──にも拘わらず、出迎えに現れる者はない。 「アーチボルト家九代目頭首、ケイネス・エルメロイがここに推参|仕《つかまつ》る!」  威風堂々と胸を張り、ケイネスは無人のホールに大音声を響かせた。 「アインツベルンの魔術師よ! 求める聖杯に命と誇りを賭して、いざ尋常に立ち会うがいい!」  挑発の呼びかけに、しかし応じる者は皆無だった。むろんケイネスとて形式通りの決闘など期待はしていない。小馬鹿にしたように嘆息すると、靴音も高らかにホールの中央まで進み出る。  広いホールの四隅にそれとなく配置されていた四つの花瓶が、そのとき轟音とともに破裂した。しかも飛び散ったのは磁器の破片ではない。彩しい数の金属の|礫《つぶて》が、それこそ銃弾も同然の勢いでケイネスに浴びせかけられる。  罠には魔術的な反応など皆無であり、ケイネスはこれを察知する術すらなかった。それもそのはず、衛宮切嗣が花瓶の中に仕込んでおいたのは、クレイモア対人地雷と呼ばれる残忍な設置式爆弾である。炸薬の破裂によって直径一.ニミリの鋼鉄球を七〇〇個あまりも扇状に撒き散らすこの兵器は、歩兵の集団を待ち伏せして一掃するために開発されたものだ。これが四方で一度に爆発したとあっては逃げ場などあろう筈もなく、中心にいた標的は一瞬で原形を留めない挽肉へと成り果てるしかない。  ──それが、魔術師でなければの話だが。  二八〇〇発もの鉄球がケイネスに殺到したその刹那、彼の立ち位置は銀色のドームに覆われていた。足下に蠕っていた水銀の塊が、瞬時に変形したのである。  ケイネスの周囲に一分の隙もなく展開した水銀の被膜は、厚さこそ一ミリにも満たないが、魔力により圧搾されたその張力と剛性はまさに鋼鉄も同然だった。クレイモア地雷による鉄球の洗礼は、ただの一発もケイネスに届くことなく、すべて跳弾してホール一面に飛び散り、城内の内装をズタズタに切り裂くだけの結果に終わった。  これぞ、|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の『自律防御』モード。|予《あらかじ》め設定されたこの術式は、ケイネスに危害を及ぼさんとする事象すべてに反応し、即座に超剛性の防護膜を張り巡らす。その応答速度はいま見た通り、銃弾すらも凌ぐ一瞬だ。ハイアットホテルの倒壊からケイネスとソラウを護ったのも、この|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》による防御システムである。変幻自在な水銀は、まさに攻防一体の完全兵器としてケイネスの剣となり鎧となるのだ。 「……ふん」  防御膜が解かれた後で周囲の惨状を目の当たりにしたケイネスは、仕掛けられていた罠の|悪辣《あくらつ》さを鼻で畷った。軍用兵器にはとんと疎いケイネスだったが、いま彼を襲ったものが魔術的な攻撃ではなく、ただの|炸薬《さくやく》を用いた通常兵器でしかないことは明白だった。  ケイネスの脳裏で、昨夜の不愉快なトラブルについての真相が、ようやく収まるべき所に収まる。  推測していなかったわけではない。六組いる敵のうち、誰よりもまずケイネスを倒さなければならないと焦っているのはセイバーを従えたアインツベルン勢のはずだった。とはいえ、仮にも威名をもって知られる名門アインツベルンの魔術師が、ああも下劣で品性を欠く手段に訴えるなどという事態は、同じ魔道の誇りを尊ぶ者として、どうしても信じたくはなかった。  だが──もはや疑いの余地はない。いまこの城には、昨夜ケイネスの工房を卑劣極まる手段で破壊した発破師が、間違いなく潜んでいる。 「……そこまで堕ちたか、アインツベルン」  眩きは、怒りよりも嘆きに満ちていた。まさかセイバーのマスター本人ということはあるまいし、おそらくは卑賎の|輩《やから》を雇い入れて使役しているのだろうが、それだけでも度し難い堕落だ。聖戦の場に、彼らは資格なき者を招き入れた。断じて許容できることではない。 �──宜しい。ならばこれは決闘ではなく|誅伐《ちゅうばつ》だ�  殺意を新たに、ケイネスは敵陣の奥深くへと踏み込んでいった。  ホールの物陰に設置しておいたCCDカメラによって、衛宮切嗣はサロンに居ながらにして、ロード・エルメロイが誇る|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の威力を観察することができた。  呪繰水銀による自律防御ー噂に聞くのと実物を見るのとでは大違いだった。まさかクレイモア地雷の爆風にまで先んじる反応速度とあっては、とても銃器が通用する望みはない。  業腹ではあったが、あの魔術師は一流と認めるしかなかった。思えばハイアットホテルに仕掛けた罠が通用しなかった時点で、そう結論するべきだったのだ。  つまりは、衛宮切嗣も�魔術師�として戦わざるをえない敵である。  ケイネスはおそらく、城中に潜む敵を探し出そうと、一階の各部屋から風潰しに探索してくるだろう。いま切嗣がいるサロンは二階の奥だ。即座に動けば、まだ迎撃に有利な場所を選ぶだけの余裕はある。  切嗣は頭に叩き込んである城の見取り図を検討しつつ、サロンから出ようと戸口へ向かい──そこで立ち止まった。  扉の鍵穴から、糸ほどの光る筋が垂れている。水銀の雫だ。ほんの微量のそれが、銀色の軌跡を残しながら扉の表面を滴り落ちてくる。  切嗣が目に留めた途端、雫は落下の途中でピタリと静止すると、今度はまるで生物のように扉を這い上って鍵穴へと逆行し、すぐさま跡形もなく消え失せた。 「……なるほど。『自動索敵』か」  切嗣が苦々しくこちた直後に、サロンの絨毯敷きの床を銀色の閃きが貫いた。  わずか一瞬のうちに、部屋の中央の床が円形に切り抜かれて階下へと崩落し、ぽっかりと空いたその開口部から、銀の触手が躍り出る。  切嗣の眼前に現れた|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の新たな形態は、金属のクラゲのようだった。無数の触手を伸ばして床の開口部の縁にしがみつき、その基部にある傘の部分は平坦な皿状に拡がって、|主《あるじ》に安定した足場を提供している。そこに仁王立ちして勝ち誇った微笑を浮かべているのは、他ならぬロード・エルメロイその人だった。 「見つけたぞ。ネズミめが……」  余裕緯々のケイネスが水銀に攻撃を指示するより早く、切嗣は腰のホルスタ──から引き抜いたキャレコ短機関銃を発砲していた。  即座に反応した水銀がケイネスの前に防護膜を展開し、9�弾の嵐を封殺する。五〇発の弾倉が空になるまでは、わずかに数秒しかかからない。  だがそれは、切嗣の呪文の詠唱には充分すぎる猶予だった。 「|Time《固有時》 |alter《制御》──|double accel《二倍速》!」  宣言とともに、切嗣の体内を魔力の奔流が躁躍する。 「|Scalp《斬》!」  キャレコの弾幕が途絶えるや否や、ケイネスが死の宣告を叫ぶ。応じて伸びた銀の鞭は二本。左右から挟み込むように、立ち煉む獲物を切り裂かんと喩りを上げる。 「ぬ!?」  驚愕の噂きはケイネスのものだった。  二本の鞭がその身を寸断する直前に、切嗣はやおら信じがたいほどのスピードで疾駆し、迫る鞭の合間をかいくぐって|躾《か》わすや、ケイネスが立つ|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の真下──たったいま水銀斬撃でくり抜かれた床の開口部へと身を躍らせたのである。  目にも留まらぬ勢い、とはまさにこのことだった。どう考えても常人が発揮しうる体術ではない。しばらく毒気を抜かれて立ちつくしたケイネスだったが、思えばべつだん驚くほどの展開ではなかった。超常の程を競い合うのが魔術師の戦場である。そこに紛れ込んだネズミであれば、常人の枠に収まらない存在であったとしても何の不思議もない。 「なるほど、少しは魔術の心得もあるわけか」  薄く笑ったケイネスだったが、その心中はなおいっそう冷えていた。ただのネズミならいざ知らず、仮にも魔術の薫陶を受けておきながらも下賎な小細工に頼る卑劣漢。浅ましい三流というだけではない、手段を選ばぬ外道だ。これを魔術師の面汚しと言わずして何としようか。 「屑めが……死んで身の程を弁えるのだな」  ケイネスはコートの裾を翻して階下へと飛び降りる。その傍らに、クラゲ状の形態を解除した|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》がゴム鞠のように弾みながら落下する。 「|ire:sanctio《追跡抹殺》!」  下知を受けた水銀は、細い触角を飛沫のように撒き散らし、ふたたび一階全域を再|走査《スキャン》。すぐさま標的の位置を確認し、猛回転で床を転がりながら急行する。後を追って馳せるケイネスは、嗜虐の笑みに口元を歪めていた。  廊下を駆け抜ける切嗣の全身は、術の行使の反動で苦痛の悲鳴を上げていた。  彼がケイネスの礼装による攻撃を回避したのは、いわゆる|身体強化《フィジカル・エンチャント》のような初級魔術の類ではない。より高度で応用範囲の広い──そして代償も深刻な──魔術である。  特定の空間の内側のみを外界の�時の流れ�から切り離し、意のままにするという『時間操作』は固有結界の一種であり、いわゆる大魔術の類に区分されるが、決して再現不能な�魔法�の域にある試みではない。それも因果の逆転や過去への干渉といった�時間の改窟�に比べれば、過去化の停滞、未来化の加速といった�時間の調整�は、さほど極端に困難な術ではない。問題となるのは結界の規模と、干渉する時間の範囲である。  切嗣の祖である衛宮家では、代々この時間操作についての魔術探求を継承してきた。彼の背中にある魔術刻印にも、その成果が蓄積されている。だがこの魔道は、消耗する魔力や準備と儀式の|煩雑《はんざつ》さなど、あくまで大魔術であることが前提とされた術式であり、戦術的な用途は皆無と言ってもいい。戦場に生きることを選んだ切嗣にとっては、本来ならば何の用も成さない遺産であった。  だが切嗣は受け継いだ刻印を最大限に活用するために、時間操作の術式を極めて小規模かつ効率的に実現させる独自の応用法を編み出していた。  固有結界の展開を容易にする手段として、結界の範囲を術者自身の体内に設定するという方法がある。持って生まれた肉体を外界から遮断するのは観念としてもっとも無理がなく、世界からの干渉も最小限で済む。この最小規模の結界において、わずか数秒間の時間を�調整�するのが、衛宮切嗣の我流魔術、『固有時制御』である。  たとえば先のケイネスの前では、血流、ヘモグロビンの燃焼、筋肉組織の運動の始点から終点までの所要時間をすべて�倍速�に加速した。水銀の鞭の軌道は容易に読みとれたため、あとはそれを回避するだけの反射速度さえ発揮できればよかったのだ。切嗣は自分の体内時間を高速化することで、常人では不可能な体術をやり遂げたのである。  この術の難点は、肉体にかかる極度の負荷だ。  時問調整の術は必然的に結界内外の時間流に誤差を生じさせることとなり、結界が解けた直後にはこの|軋礫《あつれき》を補おうとする自然力が発生する。いわゆる�世界による修正�だ。必定、補正は�操作された側�の領域に働くこととなり、切嗣の結界-すなわち肉体そのものを元の時間流に合わせようと圧し曲げる。  なべて魔術の行使とは死と隣り合わせの危険を孕むが、とりわけ切嗣の『固有時制御』はリスクの多大な術だった。肉体を損壊させずに行使できるのは、せいぜいが倍速止まりである。そこから先はまさに血肉を削りながらの綱渡りだ。  ケイネスが駆使する魔術に比べれば、切嗣のそれは派手さも威力もない。が、これが分の悪い勝負とは思わなかった。ケイネスはすでに切嗣を倒す最大の好機  即ち、礼装による初撃──を逸している。相手は意にも介していないだろうが、衛宮切嗣を前にして、それは最大の過失といえた。ひとたび礼装の正体を暴露し、その性質を推し量る機会を与えてしまった以上、そこから先は『魔術師殺し』による�狩りの時間�である。  走りながら、切嗣はキャレコの|螺旋弾倉《ヘリカルマガジン》を交換し、つづけてコンテンダーの装弾も通常弾に変更する。奥の手を使うのはまだ早い。確実な必殺を期するならば、ケイネスは今一度、挑発で|焚《た》きつける必要がある。  攻守両立、しかも索敵能力まで備えたロード・エルメロイの水銀武装。だがその三要素のすべてにおいて、切嗣はすでに弱点を見出していた。  まず第一に、索敵能力──  ここぞと見定めた曲がり角で切嗣は足を止め、柱の影に身を隠した。背後からだけでなく行く手の廊下からも、水銀の流滴が音もなく滑り寄ってくる。おそらく水銀の触手は網の目のように張り巡らされ、とうに切嗣の退路を塞いでいることだろう。  液体金属が感覚器の役を果たすとき、感知し、伝達しうる情報とは何か? 視覚、嗅覚、味覚については、それに特化した知覚装置がない限り不可能だ。その点、ケイネスの礼装は原理の単純さ故に変幻自在な万能さを発揮できるのが利点である。可能性として除外していい。  もっとも有り得るのは触覚だろう。だがサロンで捕捉されたとき、水銀は切嗣に触れもしないうちからその位置を特定した。  もし水銀の触覚が極度に過敏であれば、空気振動を判別して聴覚の役を果たせるかもしれない。気温の変化から熱源を察知することも可能だろう。  前後から這い寄ってくる銀の流滴を見据えたまま、切嗣はほくそ笑んだ。|あ《・》|れ《・》|は《・》|目《・》|が《・》|見《・》|え《・》|て《・》|い《・》|る《・》|わ《・》|け《・》|で《・》|は《・》|な《・》|い《・》。心拍音、呼吸音、それと体温さえ誤魔化せば、切嗣の存在は透明になる。 「|Time《固有時》 |alter《制御》──|triple stagnate《三重停滞》」  詠唱の咳きとともに、切嗣の視野が極端に明るくなる。  むろん外界に変化が起きたわけではない。ただの錯覚だ。切嗣の視神経が映像を認識する間に、網膜が通常の三倍もの光を浴びているのだ。  今度の固有時制御は先の高速体術とは逆である。切嗣は自らの生体機能を三分の一のスピードに減速していた。呼吸は|鈍《にぶ》り、心拍の勢いも脈拍のペースもすべて|緩慢《かんまん》に停滞しはじめる。代謝の止まった全身からは体温が失せ、すぐさま外気温と大差ないほどに冷却される。  彫像のように静止した切嗣の眼前を、水銀の流滴があわただしい勢いで通り過ぎていく。 案の定、何も感知できていない。浅い呼吸と血流の微音は自然界のノイズに紛れ込んでしまい、水銀は今の切嗣の生体反応を人間のそれとして認識していないのだ。  索敵に反応なしと判断したか、水銀の触覚は急速に元来た道を巻き戻されていく。代わって大理石の床を蹴り立てる喧しい靴音。この廊下を無人と思い込んだケイネスが、何の警戒も懐かずに接近してくる…… 「|Release《制御》 |alter《解禁》!」  視野の明度が、聴覚の周波数が、一気に等倍に戻される。途端に切嗣の心臓が極端な不定脈に晒され、全身の血管が破裂せんばかりの激痛に晒される。彼にとっては血流がいきなり三倍のスピードに加速したようなものなのだ。事実、身体のあちこちで毛細血管が破断し、内出血の|青癒《あおあざ》がいたる所に生じていた。  が、そんな苦痛もダメージも一切|頓着《ごんちゃく》することなく、切嗣は柱の影から躍り出た。おりしも廊下に踏み込んできたばかりのケイネスとの距離は一五メートル程度。愕然と目を見張る魔術師に向けて、左手で構えたキャレコ短機関銃を発砲する。  ケイネスの動揺をよそに、今度も|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》は精確かつ忠実に機能を果たした。またも瞬時に防御膜を拡げ、9�弾の嵐を受け止める。サロンでの展開の完全な再演である。 「──馬鹿めが。無駄な足掻きだ!」  あり得ない奇襲に驚愕したケイネスではあったが、浴びせられた攻撃が馬鹿の一つ覚えも同然の銃撃と判るや、彼は防御膜の裏側で失笑を漏らした。だが彼は知らない。|嘲《あざけ》り笑うその相手が、すでに自律防御の弱点を見抜いていたことを。  キャレコの弾幕が尽きるより先に、切嗣は空いていた右手でコンテンダーを抜き放つと、半球状に展開した防御膜のど真ん中を狙って発砲した。  |月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》は、すでにキャレコの弾幕に対処するべく最適の形状に変形している。ところが・30−06スプリングフィールド弾の弾丸初速は9�拳銃弾の二.五倍以上。その破壊力は七倍に相当するのだ。  |月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》のスピードの秘訣は圧力にあるものと、すでに切嗣は見切っていた。水銀が球状の塊になっている状態からなら、それこそ銃弾に先んじるほどのスピードで膜状に拡散させることも可能だろう。だがいったん薄く拡がってしまった液体に、瞬間変形を遂げるだけの圧力をかけるのは不可能である。ひとえに流体力学の限界だ。  よって、新たな大威力の攻撃に対し、水銀は即座により強固な防御形態を取ろうとしたものの、もはや間に合うはずもなく  鏡面のような水銀の膜に、ズボリと黒い大穴が空く。その向こう側から発したケイネスの悲鳴は、貫通したスプリングフィールド弾の成果を知らしめていた。  とはいえ、遮蔽物の裏側の標的を狙っての一撃とあっては、照準も何もあったものではない。うまく傷を負わせただけでも僥倖であり、それで致命傷など期待するのは虫が良すぎるというものだ。  事実、ケイネスの悲鳴は怒りの罵声へと転じ、そして 「|Scalp《斬ッ》!」  殺意に満ちた一喝が、水銀に必殺の一撃を指令する。  喩り飛んで迫る銀の鞭に対し、切嗣は余裕の構えで応じた。今度は固有時制御すら必要ない。ケイネスとの間合いは一〇メートル以上。それだけ距離があれば充分である。  斬撃を躱わした見切りは、ほんの紙一重。だがそれでも当たらないものは当たらない。水銀の刃が切り裂いたのは、わずかに|翻《ひるがえ》ったコートの裾だけだった。  |月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の攻撃は、ただ一度目にしただけでも、その特性を見抜くのは苦もないことだった。超高速の攻撃と見えて、実は存外に単調なのだ。  水銀が鞭状の形態を取るとき、猛スピードで駆動するのはその基部だけで、末端にはまるで力がない。刃先の威力とスピードはひとえに遠心力によるもので、近接戦の心得が切嗣ほどにあれば、その軌道は容易に読むことができた。これもまた圧力によって操られる水銀ゆえの特性だった。充分なパワーを発揮できるのは体積のある部分だけで、末端にいくほどにその勢いは弱くなる。本体から遠く伸長して索敵をしていた流滴が、斬撃鞭ほど機敏な動作をしていなかったことから、切嗣はこの弱点をたちどころに見抜いたのである。  追い打ちがくるより先に、切嗣はふたたび踵を返して逃走に移った。ケイネスが即座に追ってくるならば良し。あるいは銃創の手当てを優先するだけの思慮をまだ残しているようならば、まだ挑発し足りないということだ。  防護膜を貫通し得た一撃は、今のが最初で最後だろう。キャレコとは桁違いなコンテンダーの威力を経験したことで、|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の自律防御はより堅実なものになるはずだ。今後はあらゆる攻撃に対し、スプリングフィールド弾の破壊力をも防ぎうるだけの防壁を用意してくることだろう。ケイネスはありったけの魔力を動員して、水銀の防御を強化するはずだ。  |そ《・》|う《・》|で《・》|あ《・》|っ《・》|て《・》|く《・》|れ《・》|な《・》|け《・》|れ《・》|ば《・》|困《・》|る《・》。  痛む全身に鞭打って疾走しながら、切嗣はコンテンダーの薬室を開放し空の薬英を抜き捨てた。そして代わりに、ここ一番のために取っておいた魔弾を滑り込ませる。  切嗣の次の一撃を防ぐために、ケイネスには渾身の魔力を尽くしてもらわなければならない。そのためにこそ初撃は通常弾で威力だけを知らしめ、警戒を誘ったのである。  目論見通りに運ぶなら──ほどなくケイネスは最大の墓穴を掘る。あとは、いかにしてそこに彼を突き落とし、手際よく穴を埋めてやるか、だ。  魔術師殺しの�狩り�の手筈は、今のところは実に上々といえる首尾だった。 [#改ページ] [#改ページ] ACT7 [#改ページ]   -130:44:57  アイリスフィールが冬木の地に踏み込んで以来、思えば�不安�を感じるのは初めてのことだった。  あらためて思い知る。常に彼女の隣にいたセイバーが、あの小さな身体から発散させていた静かな自信と包容力が、どれほどアイリスフィールに安心を与えていたことか。  今セイバーに代わって彼女に付き従う久宇舞弥が、護衛として心許ないというわけではない。切嗣は舞弥の力量に|太鼓判《たいこぼん》を押しているのだし、それを疑うつもりもない。  ならばこの奇妙な心細さは何なのか?  城を退避してよりこのかた、結界の森を行く二人の間には一切の会話がない。たしかに舞弥は、見るからに無駄話に興じるようなタイプではなさそうだったが、その徹底した沈黙がアイリスフィールには重くてかなわない。  こちらから話題を振れば応じてくれるだろうか? 試しても|罰《ばち》は当たるまい。二人は戦闘から隔たった安全圏にいるのだし、なにも静寂が要求されるほど切羽詰まった状況ではない。  ならば、いざ、と口を開きかかったところで──話すべき事柄を判じかね、そこでまたアイリスフィールは言葉に詰まる。  訊きたいことは山ほどあるのだ。切嗣との出会い。彼と過ごした想い出。舞弥から見た切嗣の人柄……どれもこれも気になって仕方がない反面、どれをとっても答えを聞くことに躊躇してしまう。  彼女が知らない衛宮切嗣を、久宇舞弥は知っているのだ。  もし舞弥の口から出た返答が、アイリスフィールの中の夫の像を打ち砕いてしまうほどショッキングなものだったら──  そんなことは有り得ない、などと否定できるだけの根拠はどこにもない。出会ってからの九年間だけが、アイリスフィールにとっては切嗣の全てなのだから。  そんな堂々巡りの|煩悶《はんもん》のうちに、沈黙はただ延々と長引いていく。あきらかに気まずい空気でありながら、舞弥はまったく|圃酌《しんしやく》しないまま黙然と歩みを進めるばかり。 �──やっぱり、この|女《ひと》は苦手だ──�  傭いて深い溜息をついたそのとき、やおらアイリスフィールの脳裏で警報が閃いた。 「──ッ!?」  身を固くして立ち止まったアイリスフィールを、舞弥が誹しげに振り向く。 「どうかしましたか? マダム」 「……また新手の侵入者よ。ちょうど私たちが進む先にいる。このままだと鉢合わせするわ」  なにも予期しえなかった事態ではない。舞弥は落ち着き払ったまま頷いた。 「それでは迂回しましょう。ここからなら北側に回り込めば安全です」 「……」  遠見で検めた侵入者の風体に目を奪われていたアイリスフィールは、すぐには返答を返せなかった。  漆黒の僧衣に包まれた威圧的な長身。短く刈り込んだ頭髪と厳めしい風貌は、切嗣が収集した資料にあった顔写真と寸分違わない。 「……やって来るのは、言峰綺礼よ」  そう告げた途端、舞弥が見せた表情の変化には、むしろアイリスフィールの方が驚いた。  いつだって氷のような無表情で、一切の感情を窺わせなかった女性。きっと心の中も氷のように冷徹なのだろうとばかり思っていたのに──  アイリスフィールが今はじめて目の当たりにした舞弥の�感情�は、焦りと怒りとが同居する、静かながらも切迫した面持ちだった。そこに垣間見えたのは、恐怖とはまた別の危機感だ。彼女が恐れているのは綺礼という人物ではなく、今この場に綺礼が現れたという事態そのものの方なのだろう。  そこまで察した時点で、アイリスフィールは悟ってしまった。唐突に、だが数多の言葉を尽くすよりなお雄弁に、久宇舞弥という女性の内面を。 「舞弥さん、あなたが切嗣から受けた命令は、私の安全を確保することよね」 「はい。でも──」 「でも何? あの男だけは絶対に切嗣の所へ行かせるわけにはいかない、と思うわけ?」  少しだけ底意地悪く微笑んで指摘すると、はたして舞弥は返事に詰まった。 「マダム、貴女は……」 「偶然ね。まったくもって同意見なのよ。私も」  言峰綺礼。おそらくは切嗣にとって最悪の脅威になるであろう男。その名を耳にしただけで舞弥が見せた反応。  ホムンクルスとして生まれたアイリスフィールではあったが、恋に落ち、それを|成就《じようじゅ》させて母親にまでなった彼女には、決して人形には理解し得ない、人間ならではの超感覚を持ち合わせるまでになっていた。──即ち、�女の直感�を。 「綺礼はここで、私たち二人で食い止める。いいわね? 舞弥さん」  舞弥はほんの僅かに|逡巡《しゅんしゅん》してから、神妙な表情で頷いた。 「申し訳ありません。が、お覚悟を願います、マダム」 「いいわよ。私の心配はしなくていい。あなたはあなたの務めを果たして。切嗣からの命令ではなく、あなた自身が必要と思っていることを」 「はい」  思えば薄々察してはいたのだ。だからこそ確かめるのが怖かった。  今ならばアイリスフィールには解る。自分が舞弥を避けていた理由……彼女を畏れていたのではない。彼女の内面を知ってしまうのを畏れていたのだ。  衛宮切嗣を想う女が、自分一人だけではないという事実を。  死闘を間近に控えた高揚の中で、アイリスフィールはつい楽しげに笑いを漏らしてしまった。キャレコ短機関銃を構えていた舞弥が、それを謁しげに横目で見遣る。 「──何か?」 「人間の心って、不思議よね」  切嗣のためなら生命を賭する。そう心に決めた女が、自分の他にもいるということ。  あんなにも怖かった答えのはずなのに、今は──その事実が頼もしくて仕方ない。  言峰綺礼にとって、アインツベルン陣営が次に選ぶであろう行動方針を推し量るのはさほど難しいことではなかった。  他のマスターたちが揃ってキャスターを標的とし、そのキャスターはセイバーを標的としている。ならば徒に行動を起こす必要はない。迎撃の備えを万全にして陣地に立て籠もり、敵の襲来を待ち構えるのが最上の戦略である。  そう考えれば居場所は探すまでもない。冬木市郊外のアインツベルンの森──利用しない手はないだろう。衛宮切嗣もまたそこにいると見て間違いない。  無論、綺礼は戦闘の|真《ま》っ|只中《ただなか》に身を投じるつもりなど毛頭なかった。戦いの場となるのは高い確率で森の東側だ。冬木方面から来る敵は、まず普通に考えてその方角から侵人してくるからだ。  よって綺礼は、森の西側の外に待機して戦端が開くのを待ち受けた。目論見通りに東で戦いが始まったとき、その裏側から城を奇襲できるチャンスに賭けたのだ。  森の中には斥候として霊体化したアサシンを放っておいた。アサシンの気配遮断スキルなら、結界のかなりの深度まで察知されることなく侵入できる。さすがに城にまで接近するのは無理だが、森の外縁の様相を見張ることは可能であった。  そしてi案の定、キャスターとセイバーとの衝突は森の東で発生した。しかも幸いなことに、アインツベルンはサーヴァントのみを戦いに|赴《おもむ》かせ、マスター自身は籠城の構えでいるという。アサシンからの報告は何もかも綺礼に好都合であった。  衛宮切嗣がアインツベルンに雇われて番犬を務めているのだとすれば、おそらく現状ではサーヴァントが離れて無防備な状態のマスターを護衛しているに違いない。今度こそ追いつめるチャンスである。  続くアサシンからの警告で、ロード・エルメロイもまた城を目指していると聞いても、綺礼は躊躇しなかった。むしろ焦りさえしたほどだ。衛宮切嗣がケイネスの手にかかって命を落とすようでは、綺礼の目的は果たされない。切嗣と対面するためならば、最悪の場合はケイネスと衝突することも辞さない覚悟で、綺礼は足早に森を進んだ。  また戦局次第では、アインツベルンが城を破棄して脱出しようとする場合も有り得るだろう。そのときは当然、サーヴァント戦が行われている東側とは逆方向に退路を求めるだろうから、結果として綺礼と鉢合わせする可能性も出てくる。  万に一つの用心のつもりで、綺礼は先を急ぎつつも臨戦態勢を整えていた。──だからこそ、不意の殺気にも機敏に反応できた。  咄嵯に身を屈めた頭上を雷鳴のように薙ぎ払っていった銃弾の雨。フルオート射撃の圧倒的火力に不意を討たれれば、ときに熟練の兵士といえど志気を挫かれて判断力を奪われる。だがそれは聖堂教会の代行者を例外とした話だ。綺礼は冷や汗ひとつかくこともなく、冷静に状況を推し量っていた。  敵は単体。銃声の質から察するに、口径9�以下の短機関銃。貫通力に欠ける拳銃弾には木の幹を貫通するほどの威力はないため、森の中での脅威度は突撃ライフルより格段 に低い。  銃声の方角から敵の位置を判断し、綺礼は二本の黒鍵を投げ放った。が、予期した手応えとは裏腹に、返ってきたのは刃が樹幹に突き立つ硬い音のみである。 �……む?�  認る綺礼の横面を、またも殺気の針が刺す。  左手からまたもや銃声。すんでのところで身を躱わすのが間に合ったが、今度は先の銃撃よりも危うかった。敵は単独のはずという予断が、わずかに反応を鈍らせたのだ。  だがそれにしても妙だ。  二度の銃撃は位置がまったく違う。移動したにしては速すぎる。が、そもそも最初から二人の銃手がいたのなら、タイミングを合わせた十字砲火で確実に綺礼を仕留めようとしたはずだ。  解せないままに、今度はさらに四つの気配を感知した。すかさず片手に二本ずつ、都合四本の黒鍵を構えつつも、綺礼の脳裏に新たな直感が閃く。 �さては──幻覚?�  有り得ない話ではない。すでに森の結界のかなり深部にまで立ち入ってしまっている。 結界の組成に幻惑の術が組み込まれており、なおかつそれを操作できる術者が近くにいるのだとすれば、綺礼個人を標的として知覚力を錯乱させることは可能だ。  やはり見えざる狙撃手は単独なのか。だとすれば幻術の操作もその人物なのか、或いは他の誰かが|援護《バックアッフ》を務めているのか……  ともあれ、術を破る糸口を掴むまでは、敵のペースで|踊《おど》るしかない。綺礼は四本の黒鍵を振りかざし、瞬時に四方の気配めがけて連投する。  ──案の定、どれひとつとして手応えはない。  増のあかない展開に苛立ちの舌打ちを打ったとき、綺礼の背中を銃弾の雨が直撃した。  三度目の銃撃には気配すらなかった。むしろ初めの二射は綺礼を惑わすブラフだったのだろう。もとより囮の殺気を演出できる幻術であったなら、本物の殺意を封殺することも可能なのが道理である。  悲鳴を上げることもなく、僧衣姿の長身は脚をもつれさせて仰向けに倒れた。それきり痙攣もしなければ苦悶の噂きも漏らさない。  狙い通りに|脊髄《せきずい》を撃ち抜いて即死させたか──そう判断した舞弥は狙撃位置から立ち上がり、|仰臥《ぎょうが》する綺礼にキャレコの照準を据えたまま、慎重に歩み寄る。 �──舞弥さん、駄目ッ!�  一瞬速く罠を悟ったアイリスフィールが警告の念話を飛ばしたが、そのときは手遅れだった。  仰向けのまま身を起こしもせず、綺礼は腕の一振りだけで隠し持っていた黒鍵の一本を投じていた。低い軌道で飛来したそれは舞弥の右脚のふくらはぎを切り裂き、次の動作に移らせるタイミングを奪った。  バネ仕掛けの機械のように跳び起きた綺礼の長身が、舞弥めがけて猛然と突進する。怯むことなく発砲する舞弥。  だが綺礼は両腕で頭をガードするだけで、避けようとすらしなかった。詰め襟の僧衣は袖まで分厚いケブラー繊維製。しかも教会代行者特製の防護呪札によって隙間なく裏打ちを施されている。9�口径の拳銃弾程度ならば至近距離であろうとも貫通は望めない。 それでも秒間一〇連発で叩き込まれる二五〇フットポンドの運動エネルギーは、まさしく金属バットの猛打のように綺礼の総身を殴り続けたのだが、彼が極限まで鍛え上げた筋肉の鎧は、その衝撃から骨と内臓を完全に護りきっていた。  綺礼の総身が防弾仕様だと見て取るや、即座に舞弥はキャレコを投げ捨てて|太股《ふともも》からサバイバルナイフを引き抜いた。ケブラー繊維は銃弾に対する耐性とは裏腹に、刃物による切断にはきわめて脆いという特性がある。銃が通用しないなら近接戦にこそ活路があった。  弾幕が途切れたところで、綺礼はさらに両手に一本ずつ新たな黒鍵を抜き、左右から十文字に舞弥に斬りつけた。だが舞弥は負傷した右脚に負担をかけることなく、分厚いナイフの刀身で黒鍵の連撃を弾き返す。  黒鍵は刃渡りにおいてナイフをはるかに上回るが、あくまで投榔に特化した刃物である。むしろ近接戦においては、極端に短い柄のせいでバランスを欠く黒鍵よりも、舞弥の大型ナイフの方が機敏さの点で圧倒的に有利であった。 �いける──!�  舞弥は半ば捨て身の勢いで、猛然と突きかかった。この間合いからの攻撃を黒鍵で防ぐのは至難だろうし、仮にカウンターで斬られることになったとしても深い傷になる率は低い。  舞弥の右手のナイフに、綺礼もまた右の黒鍵で応じた。刃のリーチのみを頼りにカウンターを狙ってか、ナイフと擦れ違う剣筋で突きを放ってくる。  予期していた舞弥にとって、繰わすのは簡単だった。わずかに首を反らすだけで黒鍵の切っ先をやり過ごし、そのまま敵の懐へ深々と踏み込む。  だが舞弥は勝利を確信する一歩手前で、綺礼の予想外の挙動に目を奪われた。  クロスカウンターの要領で交差した両者の右手  黒鍵の短い柄を握っていたはずの綺礼の手が、空いている。突きかかる途中で彼は得物から手を離していたのだ。  つまり綺礼の右手には、最初から黒鍵で舞弥を刺し貫く意図などはなく  万力のように硬く筋張った指が、舞弥の右手首に絡まった。  そびえ立つような黒衣の長身が、蛇さながらのしなやかさで低く身を屈め、そのまま舞弥の右腕の下をくぐる。次の瞬間、まるで|怪我人《けがにん》に肩を貸すかのような姿勢で、綺礼は舞弥の右腕を肩の後ろに背負い込んでいた。  黒鍵遣いの代行者。その先入観に騙された。致命的な絶望の中で、舞弥は|為《な》す|術《すべ》もないままに理解する。この動きは中国拳法、|八極《はっきょく》拳の──  綺礼の体側が舞弥の腰に密着すると同時に、左腕の|肘《ひじ》は|鳩尾《みぞおち》を一撃、また同時に左脚は舞弥の軸足を鮮やかに|刈《か》り払っていた。  鮮やかなまでに決まった『|六大開《ろくだいかい》・|頂肘《ちょうちゅう》』。ナイフを持つ手首を掴んでから後は、すべてが一瞬のうちの一動作である。まさに八極拳の極意とされる攻防一体の|套路《とうろ》だった。  受け身をとることすらできず、舞弥は地面に叩きつけられた。あまりに強烈な衝撃に、手足がすべて根本から外れ落ちてしまったかのような錯覚に陥る。全身が|痺《しび》れて動かない。 ただ肘撃ちの直撃を受けた胸の激痛ばかりが意識を焼き尽くす。まず間違いなく|肋骨《ろっこつ》の二本や三本は砕き折られているだろう。  ただの一撃。久宇舞弥を戦闘不能に陥れるのに、綺礼はそれだけで事足りた。衛宮切嗣の所在が明らかな以上、今の綺礼には彼女に何の執着もない。すみやかにとどめの一撃を振り下ろすべく拳を固め──そこで彼は、目を疑う展開を目の当たりにした。  驚き、狼狽したのは舞弥も同じたった。綺礼との対決にあたり、アイリスフィールは終始身を隠して援護に徹するものと、たしかに申し合わせてあったのだ。その彼女が──魔術の行使意外には一切の闘争手段を持たないはずのアイリスフィールが、木陰から|瓢然《ひょうぜん》と姿を現して言峰綺礼に対峙したのである。 「マダム、いけない──」  舞弥自身、今の自分がこれほど恐怖や狼狽を表に出してしまうとは思いもしなかった。 自身の絶体絶命よりも、彼女にとってはアイリスフィールの窮地の方がはるかに問題だったのだ。  今の切嗣が、もし妻を喪うようなことになったなら──彼を護ると誓った身にとって、これほど絶望的な危機はない。  綺礼とてこの状況は、いささか理解に苦しむものだった。  アインツベルンという魔道の一族は錬金術に特化するあまり、戦闘魔術の運用を不得手とすることで知られている。三度の聖杯戦争において|悉《ことごと》く緒戦での脱落を余技なくされたのも、彼ら北の魔術師の一門が実戦において甚だ脆弱であったが故だ。衛宮切嗣という傭兵を召し抱えるに至ったのも、その屈辱の記憶による反省だったはずである。  ならば、護衛の女が地に伏したこの状況下において、アインツベルンのマスター自身が単身、綺礼の前に立ちはだかるなどという展開は、まず有り得ない事態ではないのか。  この段階では綺礼も、いま眼前にいる銀髪の女こそがセイバーのマスターであると認識していた。よって彼女が絶命すれば、その時点でアインツベルン陣営の敗退は決定されるとも。  この女は、あらゆる犠牲を払ってでも逃走しなければならないキングの駒のはずだった。 「──女よ。意外に思うかもしれんが、私はおまえを倒す目的でここにいるわけではない」  敵のマスターを前にして戦闘放棄も同然の発言である。相手が信じるとも思わなかったが、ともかく綺礼は無駄を覚悟で交渉を試みた。これは彼が望んだ展開とはあまりにもかけ離れている。戦場にて衛宮切嗣と相見える、それこそが綺礼の目的なのだ。その前提に比べれば聖杯戦争の趨勢など二の次でしかない。  もちろん、そんな言葉を相手が鵜呑みにするなどとは期待していなかったが 「解っていますとも。言峰綺礼」  ──期待していなかっただけに、銀髪の女の返答はよりいっそう綺礼を混乱させた。 「あなたの目的は知っている。だが叶わぬ相談です。あなたが衛宮切嗣にまで辿りつくことはない。……私たちが阻みます。ここで」 「……」  長身の代行者の困惑の表情を、アイリスフィールは吉兆と見て取った。相手は明らかに彼女を侮っている。敵の油断はすなわちこちらの勝機だ。おそらくは、アインツベルンの魔道の特性から察して、彼女が直接戦闘に備えのある魔術師ではないものと判断しているのだろう。  コートの袖口に潜ませていた�得物�を、アイリスフィールは抜きはなった。一見それは何の凶器にもなりそうにない、頼りなげな品と見えたことだろう。彼女が両手の五指の間に拡げたのは、細く柔軟な針金の束だった。 「マダム、この男は代行者-魔術師狩りの達人です! ただの魔術でどうこうできる相手じゃない!」  地に|踵《うずくま》ったまま、痛みを押してそう叫ぶ舞弥に、アイリスフィールは静かな微笑を返した。 「私が切嗣から教わったのは、車の運転ばかりじゃなくてよ?」  言葉を失う舞弥と、怪詞そうに見守る綺礼の前で、アイリスフィールは針金に魔力を通わせた。すぐさま細く長い金属の糸は束からほどけ、まるで生ある物のようにアイリスフィールの両手の指の隙間を流動しはじめる。  綺礼の認識は半分だけ正しい。たしかにアイリスフィールが継承する伝来の魔術とは、物質の|錬成《れんせい》と創製、そしてその応用ばかりだ。直接的に破壊や殺傷をもたらす術の心得はほとんどない。そして切嗣も、彼女に攻撃の魔術を指導したわけではない。そもそも魔術師としての位階について言うなら、アイリスフィールは夫よりも高位だ。切嗣は魔道において彼女の師となったわけではない。  彼が教えてくれたのは、人形ではない自分の生きざま。泣いて、笑って、喜びと怒りを生命で|謳《うた》う──�生きる�という言葉の意味。  そしてそれは同時に、�生き延びる�という決意の訓辞でもあった。  綺礼の認識は半分だけ間違っている。持てる魔術を攻撃手段として応用する�戦闘�の心得を、すでにアイリスフィールは身につけている。それは戦いの人生を歩み続けてきた夫の背中から、彼女が学び取ったものだった。──彼と�生きていく�ことを願うなら、いつかは�生き抜く�試練を共にするものと。 「|shape《形態よ、》 |ist《生命を》 |Leben《宿せ》!」  二小節の詠唱で、魔術を一気に紡ぎ上げる。貴金属の形態操作はアインツベルンの真骨頂。その秘蹟は他の追従を許さない。  銀の針金が縦横に輪を描き、複雑な輪郭を形成する。互いに絡まり、結束し、さながら籐編み細工のように複雑な立体物となって出現したのは、猛々しい翼と|階《くちばし》、そして鋭利な鉤爪を持つ脚だった。それは巨大な鷹を模した、|精緻《せいち》な針金細工だった。  否、それはただ形骸のみを模したものでなく── 『kyeeeee!!』  まるで金属の刃が軋るかのような甲高い|嘶《いなな》きを立てて、針金の|鷹《たか》はアイリスフィールの手を飛び立った。錬金術による即製ボムンクルス、いま死線に臨んでアイリスフィールが命を託す、それが彼女の『武器』だった。  弾丸もかくやというその飛翔の勢いは、綺礼の想像を大きく上回った。咄嵯にのけぞって躱わしたその鼻先を、剃刀のように鋭い脂が擦過する。  第一撃を空振りするや、針金の鷹は即座に綺礼の頭上で旋転し、今度は両脚の鉤爪で掴みかかってきた。狙いは綺礼の顔面だ。が、代行者とて防戦一方ではない。鉤爪の鋭さを畏れもせず、力任せの裏拳で鷹を叩き伏せようとする。  急降下する鷹はすでに軌道を変えられない。拳は、鮮やかに鷹の腹を直撃した。 「ぬッ!?」  が、驚きの声は綺礼のものだった。鷹は拳に打たれると同時にぐにゃりと不定形の針金に戻り、今度は蔦のように彼の右拳に絡みついたのである。  咄嵯に左手で|引《ひ》き|雀《むし》ろうとしたが、逆に針金はその手をも巻き込んだ。さっきまで鷹の形態で宙を舞っていた銀の針金が、今度は手錠のようにがっちりと綺礼の両手を縛めていた。 「……ふん」  だが綺礼とて、過去に幾多の魔術師と死闘を演じてきた|古兵《ふるつわもの》である。小さく鼻を鳴らしただけで、彼は猛然とアイリスフィールをめがけて突進した。たかだか両手を封じられたぐらいて怯むことはない。間近に寄って蹴りの一撃も叩き込めば勝負はつく。 「甘いわよ!」  叱咤して、アイリスフィールはさらに針金に魔力を注ぎ込んだ。綺礼の両手を縛っていた束の中から一房が解けて伸び上がるや、今度は蛇のように虚空を奔り、間近なところにあった木の幹に絡みつく。  これには綺礼もかなわなかった。バランスを崩してたたらを踏んだその隙に、針金はますます樹幹に巻きついて綺礼を引き寄せ、ついには彼の両手首をがっちりと樹幹に縛り上げてしまった。  太さ三〇センチ余りもある成木である。いかに綺礼が怪力を|発揮《はっき》しようにも、へし折ったり根ごと引き抜いたりはまず不可能だ。今度こそ彼は完全に身動きを封じられていた。  だがそれでも、綺礼の腕力に屈しかかっていたのはアイリスフィールの方である。本当なら針金の圧力で両手を締め潰してしまう腹だったのだが、鋼の如く鍛え上げられた筋肉の固さは想像を絶していた。彼女の針金はぎりぎりと軋みを上げて、いましも破断しかねない有様である。そうならないよう金属を強化し緊縛を保ち続けるためには、ありったけの魔力を動員し続けなければならなかった。 「……舞弥、さん……早く!」  勝機を握るのは──地に伏せったままの舞弥だった。身動きのとれない綺礼にとどめを刺すことができるのは彼女しかいない。相手の蹴りが届く範囲にまで近寄らずとも、今なら剥き出しの頭に銃弾を撃ち込むだけで事足りる。さっきのように防弾服の袖で頭を庇うことは、今の綺礼には不可能だ。  わずかな時間ではあったが、両手両脚の感覚を取り戻す程度には舞弥もダメージから立ち直っていた。折れた肋骨の痛みに陣きながらも、彼女はずるずると地を這って、放り捨てたキャレコ短機関銃の元へとにじり寄っていった。  勝負は、秒単位を争う根比べ──魔力回路の痺きに歯を食いしばりながらも、そうアイリスフィールは己を|鼓舞《こぷ》した。  舞弥が銃を拾って撃つ、それまでの間だけ針金の強度が保てばいい。それで言峰綺礼は排除できる。切嗣にとっての最大の脅威を……  このとき二人の女は、聖堂教会代行者というものの恐ろしさをまだ見誤っていたと言えよう。  中国拳法についての知識を持ち合わせていなかったアイリスフィールが、ただ両手を木に|縫《ぬ》い止めただけで綺礼を無力化したものと速断してしまったのは無理もない。だが秘門までも極めた拳士というのは、くまなく全身が凶器である。たとえば、その両脚が|確《しか》と大地を踏み締めているというだけで  ぱぁん、と耳を|聾《ろう》さんばかりの轟音に、アイリスフィールは|唖然《あぜん》となった。  綺礼を捕らえている木の幹が激しく震動している。まるでたったいま、|渾身《こんしん》の正拳突きを叩き込まれたかのように。そういえば今の音──たしかに生木の中心に力任せの打撃を撃ち込めば、あんな凄まじい音がするかもしれない。  ふたたび朗々たる打撃音。今度こそ彼女は耳を疑った。みしり、と背筋も凍るような軋みを聞いたのだ。  状態は見えない。が、銀の針金を操っているアイリスフィールには触覚でそれと解った。 いま綺礼を縛っている木の幹に、大きな|罐《ひび》が入っている。ちょうど針金が巻きついている辺り──即ち綺礼の両手の直下に、だ。  綺礼は手の甲が樹皮に密着したままの状態で、幹に渾身の拳撃を叩き込んでいたのである。  アイリスフィールは知る由もないが──拳法家のパンチとは、ただ腕の力のみによって放たれるものではない。大地を踏む両脚の力に、腰の回転、肩の捻りを相乗し、まさしく全身の瞬発力を総動員して拳面へと集積させるのである。この原理を極めた者ならば、最終的に一肩から先の運動が果たす効果など全体に比べれば|微々《びび》たるものなのだ。必要とあらば拳を標的に密着させたまま、腕以外の部位の『頸』だけで充分な打撃力を発揮することも不可能ではない。──俗に『|寸頸《すんけい》』と呼ばれる絶技である。  三度目の打撃音が森に鳴り渡る。今度はより高らかに、木の幹が断末魔の悲鳴を上げた。 折れ残った繊維を自重でめきめきと破断させながら、針金の支点となっていた木が倒壊する。その折れ目から、綺礼は何事もなかったかのように針金の輪を引き抜くや、今度こそ両手の指で鷲掴みにし、銀の針金をずたずたに引き裂いた。  術を破られたフィードバックで激しい脱力感にとらわれ、アイリスフィールはその場に膝をついた。二人の女が絶望の眼差しで見守る中、綺礼は勝者ならではの余裕の足取りで舞弥が拾おうとしていたキャレコの元まで先回りし、鉄槌のような|踵《かかご》で樹脂製のフレームを粉々に踏み砕いてしまった。 「貴様……」  未だ立ち上がれず、侑せのまま憎々しげに陣いた舞弥を、綺礼はさもつまらなそうに一瞥してから、無造作に爪先で腹を蹴り上げた。舞弥はしゃくり上げるように悶絶して転がった後、今度こそぴくりとも動かなくなった。  そして、一切の表情を欠いた冷淡な眼差しが、今度はアイリスフィールに据えられる。[#改ページ]   -130:32:40  英霊たちの戦場は、すでに汚泥の沼と化していた。  際限なく現れては斬り捨てられていく異形の怪魔の群れ。折り重なる|屍肉《しにく》の山は、撒き散らされた|臓腋《ぞうふ》と体液と混じり合い、それを蹴散らす二対の具足に|撹拝《かくはん》されて、地獄よりおぞましい|混沌《こんじん》を成していた。  腐臭よりなおひどい怪魔たちの臓物臭が霧のように濃厚に充満した大気は、もはや猛毒の|痒気《しようキワ》も同然だった。生身の人間であれば吸っただけで肺が腐り死に至ることだろう。  ここに至るまでセイバーとランサーが斬り伏せた敵の数は、五〇〇をとうに越えている。 「……ここまで|坪《らち》があかんとなると、呆れるのを通り越して驚きだな」  いまだ疲弊の色を見せぬランサーではあったが、さすがに咳く声ばかりは苦々しかった。  勝負は一向に|趨勢《すうせい》が定まらない。騎士クラスのサーヴァント二人が猛威を振るっているというのに、再召喚されて包囲の穴を埋めていく怪魔たちの数は、なおも減じることがない。 「あの魔道書だ、ランサー。奴の宝具がある限り……この戦局は変えられない」 「成る程な、そういうことか」  セイバーの眩きを受けて、ランサーは鬱陶しそうに溜息をつく。 「だが、あの|青瓢箪《あおびようセん》の手から本を叩き落とそうと思うなら、何はともあれ、この|雑魚《ざこ》どもの壁を突破するしかないわけだ」  嘲笑うように触手を靡かせながら、じわりじわりと|躍《にじ》り寄る怪魔の群れ。この異形の生物たちは死の恐怖も、それどころか痛みすらも感じないのか、それこそ斬り払われるのを幸いとばかりに際限なくセイバーたちに襲いかかってくる。  セイバーとランサーを二人同時に相手取りながら、キャスターはなおも持久戦を継続していた。それが彼の策である以上、当然そこには確たる勝算があるのだろう。もはやキャスターとその宝具が発揮する魔力は、文字通り無尽蔵と見積もるしか他になさそうだった。 「……ランサー、このあたりで一か八か、賭けに出る気は?」 「根負けするようで|癩《しをく》だが、このまま雑魚とばかり遊んでいるのも芸がない。──良いだろう。乗ったぞセイバー」  快諾したランサーに頷き返してから、セイバーはキャスターに至るまでのおぞましい肉の壁を見据え、その厚さと密度を慎重に見計る。  ここ一番の彼女の秘策を──直感は�|是《ぜ》�と判じた。|乾坤一梛《けんこんいってき》、放つ価値は充分にある。 「私が道を開く。ただ一度きりのチャンスだ。ランサー、|風《・》|を《・》|踏《・》|ん《・》|で《・》|走《・》|れ《・》|る《・》|か《・》?」 「む? ──フフン、なるほど。造作もない」  セイバーの謎めいた言葉に、だがランサーは不敵に微笑んで頷いた。  一度とはいえ、生死を賭して競い合った二人である。そのとき尽くした心技のすべてを、両者はともに目に焼き付けている。セイバーというサーヴァントが為し得る技と、その意図するところを、今のランサーであれば申し合わせるまでもなく理解ができる。 「何をぼそぼそ囁いているのです? さては|末期《まつご》の祈りですかな?」  キャスターは余裕練々、二人のサーヴァントに嘲りをかけた。今セイバーたちと闘っているのは彼ではなく、彼の宝具『|螺湮城教本《プレフーティーズロスペルブック》』そのものと言ってもいい。キャスター自身は安全圏から戦闘を見守る観客のようなものだった。ただ優雅に泰然と、せいぜい野次でも差し挟みながら敵の神経を逆撫でする程度で、彼の�攻撃�は充分だった。 「さあ、恐怖なさい。絶望なさい! 武功の程度だけで覆せる�数の差�には限度というものがある。ウフフ、屈辱的でしょう? |栄《は》えもなければ誉れもない魍魎たちに、押し潰され、|窒息《ちっそく》して果てるのです! 英雄にとってこれほどの恥はありますまい!」  さも愉快気な嘲弄を浴びせられてもセイバーは、激せず、怯まず、ただ決然と静かな面持ちで右手の剣を振り上げる。  揺るぎない眼差しが見据えるのは、ただ──掴み取るべき勝利のみ。 「ウフッ! その麗しき顔を……今こそ悲痛に歪ませておくれ、ジャンヌ!」 『『ギィィィィィィッ!!』』  怪魔の群れが一斉に吼える。歓喜とも憎悪ともつかぬ異形の奇声を張り上げながら、包囲の中心をめがけて殺到する。  今こそ──勝負の時。  騎士王は声高らかに、その誇り高き剣に一命を下す。 「|風王鉄槌《ストライク・エア》ッ!」  |旋《つむじ》を巻く大気の直中に、閃き躍る黄金の燦然。  聖なる宝剣を守っていた超高圧縮の気圧の束が、不可視の|帳《とばり》という縛りから解き放たれて──さながら猛る龍神の炮吼の如く、轟然と|送《ほとばし》る。  ただ一撃にして必殺の秘剣。宝具『|風王結界《インヴィジブル・エア》の変則使用。昨夜の対ランサー戦においては踏み込みの再加速のために放たれたこの超突風だが、敵に向けて撃ち放てば万軍を吹き飛ばす|轟風《ごうふう》の破砕槌となる。  なまじ密集していただけに、怪魔たちはその威力を存分以上に受け止める羽目になった。  固体も同然に凝縮された超高圧の疾風は、居並ぶ怪魔たちを粉砕し、千切れた肉片を土砂や木っ端もろとも撹拝しながら、まるで見えざる巨人の手が大地を|薙《な》ぎ|払《はら》ったかのように一直線に道を開く。気圧が吹き抜けたその瞬間、怪魔たちの包囲には完全な穴が貫通していた。 『|風王鉄槌《ストライクロエア》』の破壊力は、だが幾重にも折り重なっていた怪魔たちの束と相殺されて、キャスターの元まで届く頃にはローブの裾をしたたか吹き散らす程度の強風にまで減退していた。  そして、穿たれたとはいえ穴は穴。呼び寄せた怪魔の密度をもってすれば即座に塞げる|綻《ほころ》びでしかない。 「な──ぁッ!?」  にも拘わらずキャスターが驚愕の声を漏らしたのは、包囲を穿ったのが風の一撃だけには留まらなかったからである。  大気中を物体が超高速で移動するとき、正面の空気は引き裂かれ、逆に背後の空間には真空を残す。当然、その真空には周囲の大気が巻き込まれ、先行する通過物を後追いする気流となる。現にモーターレ!スにおいては先行車の背後に後続車が密着し、この『スリップストリーム』を利用して加速を増幅させるテクニックが実在する。  セイバーが|風王結界《インヴィジブル・エア》より解き放った気圧塊は、まさにこれと同様の現象を引き起こした。 怪魔の軍勢を蹴散らしながら吹き抜けた疾風は背後に真空を発生させ、そこに�疾走の特異点�を用意したのである。  そして、その逆巻く気流の直中へとためらうことなく飛び込んだのは、まさにこの一撃を申し合わせていたランサーであった。 「いざ──覚悟ッ!」  それは超人的な体術のみならず、相方との|阿叫《あうん》の呼吸の連携をもってしか為し得ない絶技であった。だがランサーは、好敵手セイバーがただ一度だけ繰り出した�風の秘剣�を目に焼き付けていたことで、この奇跡的な連携をやってのけたのである。  渦巻く血風と肉片のトンネルを一跳びのうちに奔り抜けたランサーの飛翔は、まさに追い風に翼を預けた|燕《つばめ》さながらの勢いであった。そして彼の足先が再び大地に触れたとき、キャスターとの間合いはもはや一〇歩に満たず、その間を阻む障壁は皆無であった。 「獲ったり、キャスターっ!」 「ひいいッ!?」  主君の窮地に身を翻した怪魔たちが、ランサーの背中に襲いかからんと一斉に触手を巡らせる。だがランサーは振り返ることもなく、左手の短槍を後ろ手に風車の如く旋転させて追撃を斬り払いながら、半身で一気に踏み込んで右の長槍を繰り出した。  間合いは──必殺には僅かに遠い。長槍のストロークをもってしても、その切っ先は僅かに肉を挟るに留まって、急所にまでは至るまい。  だが魔貌の槍兵が手にする宝具は、ただその一刺しのみで、絶対的な決着をもたらすものだった。 「|挟《えぐ》れ、『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』ッ!」  喩りを上げる真紅の穿孔。その刃先が触れたのは、のけぞったキャスターの痩躯ではなく──その手に携えていた魔道書の表紙であった。  かつてセイバーの『|風王結界《インヴィジブル・エア》 を切り刻み、魔力の鎧を無力化して貫いた赤槍の穂。それはあらゆる魔力の顕現を断ち切る必殺の�宝具殺し�である。魔道書の巨大な力のみに頼って召喚魔獣を使役していたキャスターにとって、これはまさに|王手《チェックメイト》の一撃だった。  ざば、と波頭が砕けるかのような音が森の中に轟き渡る。  それまで地を埋め尽くすかの如く韓めいていた異形の怪魔たちが、一斉に液状化し、もとの|依代《よりしろ》である生賛の鮮血に回帰して飛び散ったのだ。『|螺湮城教本《プレフーティーズロスペルブック》』からの魔力供給が絶たれたその瞬間に、彼らは肉として具現化する力を失ったのである。  たたらを踏んで|後退《あとずさ》るキャスターの手の中で、魔道書は即座に魔力炉としての機能を取り戻し、速やかに傷ついた表紙を再生させる。『|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》』の刃は触れた瞬間にだけ魔力を遮断するのみで、宝具そのものを破壊する威力はない──が、一度解かれてしまった術はもう取り返しがつかない。そして再び召喚の術を繰ろうにも、セイバーとランサーの抜き身の宝剣と双槍は、そんな|暇《いとま》を許そうはずもない。 「貴様ッ──キサマ貴様キサマ貴様キサマキサマキサマァァァッ!!」  絶望的状況に、キャスターは白目を剥くほどに表情を歪め、泡を吹いて逆上する。そんな敵の醜態を、ランサーは持ち前の罪作りな微笑で涼しく流す。 「如何かな? 今のセイバーに�左手�が戻れば、まぁ、ざっとこんなものというわけだ」  だが片やセイバーの方は、ランサーのように軽口を挟む気にさえなれなかった。  勝負の決着に至って彼女の脳裏に去来するのは、無惨に引き裂かれて殺された幼子たちの、その断末魔の悲鳴と涙である。 「……覚悟はいいな。外道」  静かな怒りを声に濠らせながら、騎士王は黄金の宝剣を右手一本で掲げ上げ、その切っ先でキャスターを睨み据えた。 [#改ページ]   -130:32:31  怒りは焼けつく酸のように、じわじわと着実にケイネスの内面を|蝕《むしば》んでいった。  彼は一流の魔術師である。本来ならば感情に流されて冷静さを失うことなど決してない。 それが真剣勝負の局面ともなれば尚更だ。  実際、もしこれが一流の魔術師同士の秘術を尽くした決闘であったなら、ケイネスは怒気などとは無縁であっただろう。好敵手の手腕に感嘆し、畏敬しつつ、その真価を冷徹に推し量り、敵の秘術に相応しい返礼としての魔術を繰り出すことに専念できただろう。そのような高貴で誇りある紳士のゲームこそが、ケイネスの知る�戦い�であった。彼は聖杯の権利を賭けて、遠坂時臣と、|間桐臓硯《まとうぞうげん》と、そしてまだ見ぬ四人の好敵手たちと競い合うべく、こんな極東の僻地にまでやってきた。  なのに──右肩を|挟《えぐ》った傷が痛覚を軋ませる。まるでケイネスを潮るように、辱めるかのように痺き続ける。  これは戦いによって負った傷ではない。断じて──あんなものを�戦い�と呼んではならない。  腐った床板を踏み抜いたようなものだ。煮鍋を覆したようなものだ。とっておきの|一張羅《いっらようら》に泥が跳ねたようなものだ。  相手は、敵と呼ぶことさえ愕られる程度の虫けらだ。視野に収めるのさえ|穢《けが》らわしい、不愉快なゴミだ。  そんなものを�怒り�の対象とすることは、ロード・エルメロイの誇りに賭けて、断じてあってはならないことだった。  こんなものは環事だ。野犬に噛まれた程度のこと。  単に巡り合わせが悪かった。ただの不運と笑い飛ばしてしまえばいい。  そう自らに言い聞かせても──肩の傷口は悲鳴を張り上げる。じくじくと焼けつくような激痛が、ケイネスのプライドを苛み、侵食していく。  蒼槌めたケイネスの顔は、能面のような無表情だった。罵声もなければ歯噛みもしない。傍目に見ればそれは決して�怒れる者�の表情ではない。  然り。彼は誰も憎んでなどいない。その憤怒のすべては内を向いている。自らの思惑を外れた事態という、有り得べからざる不条理に痴癩を起こしているだけのこと。 �有り得ない──�  遣り場のない怒気は破壊衝動となって|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》へと|伝播《でんぱ》し、辺り一帯の廊下の壁を刃の鞭で切り刻む、 �あのような下賎のクズが、私の血を流すなど……有り得ぬ! 有っていいわけがないッ!�  ケイネスは夢遊病者のような足取りで、逃げる衛宮切嗣の後を追う。ただ不定形の|水銀塊《すいぎんかい》だけが、|主《あるじ》の胸中を代弁するかの如く暴威の限りを尽くして追随する。  行く手を阻むドアは押し開けるのでなく、水銀の重みで砕き割った。  花瓶も、絵画も、|瀟洒《しようしゃ》な家具も、目に付いた調度品はことごとく切り裂いて破壊した。  途中には幾多ものトラップがあった。無防備なケイネスの爪先がワイヤーを引っかけ、あるいはカーペットの裏の信管を踏み抜くたびに、配置された手榴弾が炸裂し、地雷が礫弾を撒き散らす。その度に、瞬時に拡がる水銀の防護膜がすべてを他愛もなく遮断する。  仕掛けられた罠は子供騙しの玩具のようで、その|滑稽《こっけい》さにケイネスは笑いそうになる。 だがその笑いは同時に、玩具同然の子供騙しにまんまと手傷を負わされたケイネス自身を嘲笑うものでもあった。  自嘲は|剃刀《かみそり》のようにプライドを切り刻む。その屈辱がよりいっそう、胸の内の痢癩を|煽《あお》り立てる。  ロード・エルメロイの誇るべき礼装は、こんな馬鹿げた戯れごとに使われるべきものではない。彼の水銀は、ガンドを受け止め、霊刀を弾き、魔術の炎を氷を雷撃を突破するべき武装だ。彼に|仇《あだ》なす魔術師を驚嘆させ、畏敬とともに死に至らしめるべき秘術であったはずなのだ。  なのに、今の彼の有様はどうか?  自慢の礼装を発揮して追い立てる相手は、名も知らぬネズミが一匹……一分一秒が過ぎるごとに屈辱は募っていく。肩の傷の痛みは増していく。  際限ないヒステリーの悪循環。──だがそれも、ようやく終局が見えてきた。  いかに広大な城とはいえ、上階に逃げた時点で退路は有限である。ネズミはとうとう三階の廊下の突き当たりにまで追いつめられた。ケイネスに先行する水銀の|索敵流滴《さくてきりゅうてき》が、今度こそ間違いなくその位置を突き止める。標的はもはや観念したのか動かない。腹をくくって、その場でケイネスと最後の対決に臨む腹なのだろう。  対決-そんな言葉を脳裏に浮かべたことに、ケイネスは失笑してしまう。  どうやら敵は諦めていないらしい。なるほど、一度はケイネスに手傷を負わせたのである。ふたたび続けて同じ僥倖に恵まれれば、あるいは勝機はあるものと、|窮鼠《きゅうそ》猫を噛むの心意気で覚悟を決めているのだろう。 「馬鹿めが……」  引きつった口元を冷笑に歪めて、ケイネスは小さく眩いた。  あのネズミがケイネスに一矢を報いたのは、駆け引きでも奇策でも何でもない。ただの、不条理という名の偶然なのだ。その違いを解らせてやる必要がある。  対決ではない。これは処刑だ。虐殺だ。  残忍な殺意を総身に濠らせながら、ケイネスは己が礼装とともに最後の角を曲がり、行き止まりの廊下へと踏み込んだ。  ほぼ想定通りのセッティングで、衛宮切嗣は|三度《みたび》、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトと対峙した。  距離三〇メートル弱。廊下の幅は六メートル余り。遮蔽物なし。退路なし。  ケイネスの|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》が切嗣にとって致命的なスピードと威力を発揮するようになるのは、七.五メートルより内側と見計っていい。そこまでの接近を許すより前ならば、|攻撃権《イニシアチブ》は切嗣にある。  左手──再々交換されたキャレコの|螺旋弾倉《ヘリカルマガジン》には、五〇発の9�弾が撃発の瞬間を待ち受けている。  そして右手には、礼装コンテンダー・カスタム。ただ一発限りの装弾は、既に切り札たる『魔弾』を装填済みだ。  |恐催《きょうく》もしなければ命乞いもなく、ただ二挺の銃を手に無言で|停《たたず》む切嗣のさまに、ケイネスはさも不愉快そうに表情を歪めながらも、嘲りの椰楡を吐き捨てる。 「まさか先と同じ手が通じる、などと思ってはいるまいな? |下衆《げす》めが」  通じるまい。通じてもらっては困る──が、そんなことはおくびにも出さない。切嗣が馬鹿の一つ覚えでさっきと全く同じ攻撃を仕掛けてくるものと、そうケイネスには思い込ませておく必要がある。 「もはや楽には殺さぬ。肺と心臓だけを治癒で再生してやりながら、爪先からじっくり切り刻んでやる」  陰惨に哺きつつ、ケイネスはゆっくり一歩ずつ切嗣へと歩み寄る。その隣を転がる|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》は、威嚇するように無数の鞭を伸縮させながら、その鋭い切っ先をおぞましくゆらめかせる。 「悔やみながら、苦しみながら、絶望しながら死んでいけ。そして死にながら呪うがいい。 貴様の雇い主の臆病ぶりを……聖杯戦争を辱めたアインツベルンのマスターをなア!」  上等だ。──ケイネスの処刑宣告を聞き流しながら、切嗣は内心でほくそ笑んだ。彼が講じたマスター代替の策は、果たして功を奏しているらしい。  距離、一五メートル。仕掛けるならば今だ。  迫るケイネスに向けて切嗣は、まず左手のキャレコのフルオート連射で9�弾の雨を浴びせかける。それは一階の廊下での不意打ちと全く同じ再演だった。|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の自律防御を誘う牽制攻撃。次のコンテンダーでの一撃を防ぎきれない程度に、水銀の防御幕を薄く引き延ばすためのフェイント。  当然、同じ手口に引っかかるロード・エルメロイではない。 「|Fervor,《滾れ、》 |mei《我が》 |sanguis《血潮》!」  即座に発動する水銀の防御形態。ただし今度は膜状ではない。|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》は|主《あるじ》の前に躍り出るや、床から天井に向けて夥しい数の|逆棘《さかとげ》を一斉に林立させた。それは密集した竹林のようにケイネスの身体を覆い隠し、またしても飛来する弾丸を完全に遮蔽する。  火炎や噴霧による攻撃でなければ、なにも膜状形態による防御は必要ない。銃弾というものは、ただ直進を阻まれただけで攻撃の用を成さなくなる。ならば防御は一条の�柱�で事足りるのだ。  無論、こうして水銀塊を剣山状に展開するのに要する魔力は、単純な膜状形態の比ではない。鋼線のように細く絞り込んだ逆棘の一本一本に、銃弾を|弾《はじ》くだけの硬度と|強靱《きょうじん》さを付加しなければならないのだ。今回の自律防御は、ケイネスの持てる魔力の総動員によって成し遂げられたものだった。彼の両肩に刻み込まれたアーチボルト家伝来の魔術刻印は極限まで|経路《パス》を循環させ、持ち主の肉体を激痛で責め|苛《さいな》む。  とはいえ、その防御は今度こそ鉄壁だった。  銀の剣山に阻まれた弾丸は、けたたましい金属音を響かせながら密集した逆棘の隙間で跳弾を繰り返し、威力を失って地に落ちる。ケイネスの身体にまではただの一発とて届きはしない。  続けて、切嗣の右手のコンテンダーが吼える。一度目は|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の防御を貫通してケイネスに痛恨の傷を負わせしめた、9�弾を遥かに凌ぐ大破壊力の単発弾。  だが、剣山状の水銀は、その自在さにおいて膜状形態の比ではない。  必殺の一撃が銀の逆棘に触れた刹那、他のすべての逆棘がハエトリソウの如く閉じ合わさり、一斉に銃弾を包み込む。密生していた細い逆棘の群れは、その瞬間に単一の太い柱状となって・30−06スプリングフィールド弾を封殺した。  変幻自在を旨とする|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》の面目躍如。その緻密にして完壁な流体操作の魔術の手並みは、名門アーチボルト家の名に恥じぬ極限の絶技といえただろう。  心技の限りを尽した魔術を、暴に駆ってのけたこの瞬間──ロード・エルメロイの命運は尽きたのだった。          ×                ×  いかに契約を結んだマスターとサーヴァントでも、遠隔地から意志の疎通を図るには、念話やそれに類する交信手段が必要となる。  とはいえ令呪の束縛によって結ばれた者同士であれば、どちらか一方が生命に関わるほどの窮地にある場合には、気配の乱れですぐにそれと察することができる。  故にケイネスの絶体絶命は、まだ森の中にいたランサーにも即座に伝播した。 「な──ッ!?」  ランサーが凝然とアインツベルン城の方角を振り仰いだのは、折しもキャスターの怪魔の軍勢を打破し、今まさにセイバーともども仇敵を仕留めんとしていたそのときだった。 後方で己の戦いを監視しているものとばかり思っていたマスターが、実は先んじて敵陣に乗り込み、別の戦いに臨んでいたという事実を、ランサーはここで初めて知ったのだ。  そんなランサーの動揺は、追いつめられたキャスターにとっては願ってもない隙だった。  キャスターの手の中で、既に再生を終えていた|螺湮城教本《プレフーティーズ・スペルブック》から魔力の奔流が|迸《ほとばし》る。 もちろん、魔道師の呪文を座して看過するほどセイバーは甘くない。 「|悪足掻《わるあが》きをッ!」  詠唱に先んじて相手を切り伏せようと、セイバーは右手一本で宝剣を振りかぶりながら突進する。  だがキャスターとて、呪文で剣に先んじようとするほど愚かではなかった。彼は一音節の文言すら|紡《つむ》ぐことなく、ただ宝具から生じる魔力の束を野放図に暴発させたのだ。  大地を一面に染める血溜まりは、先刻までの召喚魔術が無効化されたとはいえ、まだ魔カの|経路《パス》だけは繋がっていた。制御されないまま噴出した魔力はその血糊の成分へと流れ込み、そこで何の形も成さないままに破裂した。  たちまち、ドス黒い血霧が|濛々《もうもう》と森の中に充満する。 「く……」  斬撃の間合いまで踏み込むより先に視界を封じられて、さしものセイバーも迂闊な挙動を取れず立ち止まった。  キャスターはもとから呪文を成立させる気すらなく、失敗するのが明自な術式を敢えて強引に発動させたのだ。この場での必要を果たすにはそれだけで充分だった。召喚獣になりそこなった血液は、それでも飽和した魔力によって瞬時のうちに|沸騰《ふっこう》、気化し、霧状になって辺り一面に拡がったのである。宝具から供給される膨大な魔力量があればこその荒技だった。  期するところは──目眩ましの煙幕だ。  いかに自信過剰なキャスターとはいえ、この状況からの起死回生は望めないものと判断していたのだろう。血の霧がセイバーとランサーの視界を封じたその隙に、魔術師のサ;ヴァントはすぐさま実体化を解いた。三大騎士クラスのうち二人が相手では、捨て台詞を残す余裕すらもない。怒りも屈辱も噛み殺したまま、霊体化したキャスターは一目散に戦場を離脱する。  キャスターにとって僥倖だったのは、同じように霊体化して追跡するという選択肢がセイバーになかった点と、それが可能である筈のランサーはマスターの窮状のせいで追跡どころではなかったことだ。 「おのれ……どこまでも卑劣な奴」  苛立ちの咳きを漏らしながら、セイバーは『|風王結界《インヴィジブル・エア》』に周囲の大気を呼び込んだ。たちまち清浄な風が四方から吹き寄せて、血霧の繊れを吹き払う。再び宝剣が不可視の守りを取り戻し、二人のサーヴァントが視界を回復したときは、キャスターは姿はおろか霊体の気配さえ消え失せていた。 「ランサー、どうかしたのか?」  追おうと思えば追えたはずのランサーが、みすみすキャスターを取り逃がしたことを、セイバーは詰問するでもなく静かに問うた。彼の血相を変えた表情を見れば、何か事情があったのは一目瞭然だった。 「我が|主《あるじ》が危機に瀕している……どうやら、俺を残してそちらの本丸に斬り込んだらしい」  言いにくそうに告白するランサー。セイバーも、それで何が起こったのかをたちどころに理解し、苦い感情に囚われる。 �結局……すべて切嗣の思惑通りに運んだわけか�  不本意だった。彼女とて奇策謀術をまるきり否定する気はない。だが切嗣が巡らす冷酷な罠は、騎士王が戦場に立つ上での譲れない信念とは、どうあっても相容れないものばかりだった。 「きっと私のマスターの仕業だ。……ランサー、急ぐがいい。|己《おのれ》が|主《あるじ》の救援に向かえ」  淀みない声でそう促したセイバーに、槍兵はまず瞠目し、それから感じ入って深く項垂れた。それがセイバーにとっては|主《あるじ》に対する造反も同然の判断なのは明白だ。ここでランサーを足止めし、彼のマスターが息の根を止められるまで時間稼ぎをする方が、聖杯戦争を勝ち抜く上ではより当然の選択である。  だがそれを言うならば、ランサーとてセイバーの窮地を救う形でキャスターと戦う必要などなかった。彼は自分が愚かだったとは思わない。故に今、道を譲るというセイバーが愚かであろう筈もない。 「騎士王、|忝《かたじけ》ない」 「良い。我ら二人は騎士としての決着を誓ったのだ。共にその誇りを貫こう」  ランサーは情然と頷くと、霊体化して姿を消した。そのまま一陣の旋風となって森の奥の城へと疾駆する。           ×                ×  先代の衛宮は、生まれ落ちた嫡子の�起源�を判定したとき、その奇異な結果に途方に暮れつつも、赤子の命名を『切嗣』とした。  大別は『火』と『土』の二重属性。詳細は『切断』と『結合』の複合属性。それが彼の持って生まれた魂の形、即ち�起源�の相である。  切って、嗣ぐ──�破壊と再生�と呼ぶにはいささかニュアンスが違う。なぜなら切嗣の起源は�修復�を意味しない。たとえば一旦断ち切られてから結び合わされた糸は結び目の部分だけ太さが変わる。つまり�切って嗣ぐ�という行為は、対象に不可逆の�変質�をもたらす。  手先の作業を要求されると、切嗣は殊更に自分の起源を意識させられる。彼の手はとりあえず器用と言って差し支えない。単純な道具であれば壊れてもたちどころに修理できる。 だがこれが精密機械となると、途端に事情は逆になる。彼が修理しようと細工すればするほどに、その機械はより致命的に壊れていくのである。  有り体に言うならば、切嗣の指先は手早くはあるが|杜撰《ずさん》なのだ。ただのワイヤーであれば、切れた部分を結ぶだけでもとの機能を取り戻す。が、同じ要領で微細な電子回路を修理しようとすれば結果は致命的にもなろう。ただ繋げばいいというものではない。結線が|出鱈目《でたらめ》になればそれだけで回路は機能を失う。  それは切嗣の性格や気質のみによるものではなく、魔術の観点から言うならば、魂の深部に根ざした本質なのだ。  己の礼装を作製するにあたり、衛宮切嗣は持ち前の特異極まる�起源�を最大限に活用した。彼の脇腹の第一二|肋骨《ろっこつ》は左右ともに切除済みである。|摘出《てきしゅつ》された骨は粉状に|播《す》り|潰《つぶ》してから霊的工程で凝縮され、六六発の銃弾に芯材として封入された。  この弾丸で�撃たれた�対象には、切嗣の�起源�が具現化する。たとえば生物の身体に命中すれば、そこには傷口も開かず出血もなく、ただ被弾した部位のみが|壊死《えし》した古傷のようになる。表層的には癒着しているように見えて、だが神経や毛細血管は元通りの再生をせず、もとの機能を失うからだ。  そして概念武装としての側面も持つこの弾丸は、魔術師にとってはより深刻な脅威となる。  六六発の弾丸のうち、すでに切嗣は三七発を消費している。だがそこにはただの一発の浪費もない。彼の身を削った弾丸は、すべて|過《あやま》たず三七人の魔術師を完全破壊してきたのだ。  そしていま三八発目の『起源弾』が、また一人、新たな犠牲者の命脈を断つ。  己の身に一体何が起こったのか、最後までケイネスは理解できなかったに違いない。激痛が総身を走り抜けたその瞬間に、すでに心肺器と神経網はズタズタに引き裂かれていたからだ。  彼の喉は絶叫を放つよりも先に|血反吐《ちへど》を|迸《ほとばし》らせていた。神経が支離滅裂な誤作動を起こして全身の筋肉を|痙攣《けいれん》させ、|洒脱《しゃだつ》なスーツを|纏《まと》った長身に無様なダンスを演じさせる。  猛烈な圧力で魔術回路を循環させていた高密度の魔力が、突如、|経路《パス》を無視して出鱈目に暴走し、術者自身の肉体を破壊した結果であった。コンテンダーの一撃を|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》で|防《・》|御《・》|し《・》|て《・》|し《・》|ま《・》|っ《・》|た《・》そのときに、ケイネスは銃弾の直撃よりも深刻なダメージを負っていたのだ。  切嗣の魔弾に魔術で干渉してしまった場合、その�起源�による影響は術者の魔術回路にまでフィードバックされてしまう。  魔術師の魔術回路を高圧電流の回線に|喩《たと》えるとするならば、切嗣の銃弾は一滴の水である。電導性の液体が緻密な電気回路に付着すればどうなるか──|回線短絡《ショートサーキット》による電流は回路そのものを破壊し、完全に故障させてしまう。  これと同じように、魔術回路を�ショート�させてしまうのが、切嗣の礼装の恐るべき効果であった。  切嗣の魔弾によるダメージを免れようとするならば、一切の魔術に依らず、物理的手段のみによって弾丸を防ぎきるしかない。そこで効いてくるのが・30−06スプリングフィールド弾という切嗣の悪辣な選択である。本来ならば狩猟ライフル専用であるこの弾丸を完全に防ぎうる防具は存在しない。装甲車にでも乗っていない限り、決して負傷を免れない貫通力を誇る弾種である。  ただ一発。それだけで充分に事足りる。実戦にはおよそ不向きなトンプソン・コンテンダーという銃を、切嗣が敢えて礼装に選んだのは、物理手段としての最大火力を拳銃として携行し使用するためだった。  愛銃が役目を終えたところで、切嗣はトリガーガードのスプールに指をかけ、長く重い銃身を血振りするように振り下ろした。中折れ構造の薬室が開放された勢いで、空の薬英が虚空へと弾き出され、淡い硝煙の残津を引きながら大理石の床に転がり落ちる。  勝利には何の感慨もない。これまでと同様に今回もまた、計算通りの結論を過不足なく導き出した。ただそれだけのことだった。  切嗣の魔弾の殺傷力は、命中したその瞬間に標的がどれだけ魔術回路を|励起《れいき》させていたかによる。術者の身体を破壊するのは術者自身の魔力なのだ。その点、今回のケイネスは限りなく致命的だった。挑発に挑発を重ねて本気の魔力を発揮させたことで、切嗣は望みうる最上の結果を得たのだ。  あれほどの猛威を振るった|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》も、術者からの魔力が途絶えればそれまでだ。 もとの液状に戻って床一面にぶちまけられた水銀の海の中に、ケイネスは倒れ伏したまま弱々しく身体を痙攣させていた。かつてのロード・エルメロイも、こうなってしまっては赤子より無害である。もはや彼の身体には魔術師としての力はおろか、常人並みの機能さえ残されてはいないだろう。  捨て置けばいずれ絶命するだろうが、倒した敵には確実にとどめを刺すのが切嗣の流儀である。まだ弾倉に残弾を残すキャレコを|単射《セミオート》に切り替えて、彼は生ける骸も同然のケイネスへと歩み寄っていく。至近距離から頭に一撃。これで聖杯を競う七組のうちひとつが脱落する。  だがそのとき、迫り来る膨大な魔力の気配を感じ取って、切嗣は眉を輩めた。  迷うことなくその場でキャレコを照準し、倒れたケイネスをめがけて立て続けに発砲する。だが銃弾は虚空で火花を散らし、あらぬ方向へと跳弾して消え失せた。目にも留まらぬ早業で閃いた、赤と黄の二槍の仕業であった。  倒れたケイネスを庇う位置に実体化したランサーを前にして、切嗣はただ舌打ちするしか他になかった。よりにもよってこのタイミングで敵のサーヴァントに阻まれるなど、どうして予期し得たであろうか。  そもそもケイネスが単身で城まで乗り込んできたことで、切嗣はセイバーがランサーを引き留めているものとばかり思っていたのだが、だとすれば槍兵はどうやって騎士王を突破したのか? もしセイバーが敗れたのだとすれば、魔力の供給先が消滅して切嗣にもそれと判るはずなのだ。だが依然として切嗣の魔力は、何処かにいるセイバーへと着実に吸い上げられている。彼のサーヴァントは間違いなく健在だ。  だとすれば考えられる結論はひとつ。──セイバーは、敢えてランサーに道を譲ったとしか思えない。  動揺する切嗣を、ランサーは氷のような眼差しで見据えつつ、二槍を右手に束ね持ち、空いた左腕だけでケイネスの身体を抱え上げた。一見無防備に見える挙措でも、切嗣には何の手出しもできない。サーヴァントが相手では銃弾など何の用も成さないことは、ついさっき実証されたばかりである。 「──今ここで貴様を串刺しにするのがどれだけ容易いか、判っていような?セイバーのマスターよ」  セイバーの言葉がなければ、ランサーとて、目の前の魔術師らしからぬ風体の男をアインツベルンのマスターと見破るのは難しかっただろう。だが彼は|主《あるじ》であるケイネスの実力も知っている。ロード・エルメロイの魔術を撃ち破るほどの遣い手とあっては、もはや疑いの余地もない。  だが──いや、だからこそ。ランサーは槍の穂先を切嗣には向けない。 「俺のマスターは殺させない。セイバーのマスターも殺さない。俺も彼女も、そのような形での決着は望まない」 「……」  そういうことか──切嗣は改めて、自ら契約したサーヴァントとの相性の悪さに嘆息した。 「ゆめ忘れるな。今この場で貴様が生き長らえるのは、騎士王の高潔さ故であることを」  冷ややかな棘を含めてそう告げると、ランサーはケイネスを抱きかかえたまま、傍らの窓を突き破って城外へと身を躍らせた。  追おうと思うほど愚かな切嗣ではない。ランサーが言い捨てた通り、これは明らかに命拾いである。今この場にセイバーがいない以上、切嗣には打つ手はない。  否、はたしてセイバーが傍にいたところで、切嗣は彼女に事を|託《たく》しただろうか?  あのランサーこと英霊ディルムッドも相当|お《・》|め《・》|で《・》|た《・》|い《・》|奴《・》ではあるが、それに負けず劣らず愚かしいセイバーの騎士道精神は、完全に切嗣の理解を超えていた。  おそらく彼女は、ランサーが決して切嗣を殺さないものと頭から信じて疑わなかったのだろう。正気の沙汰とは思えない。自らのマスターが単身で敵のサーヴァントの前に身を晒すことを、騎士王は認めたのである。もしランサーが裏切ればその時点で彼女の聖杯戦争は終わっていた。たとえ槍兵にその気がなくても、ケイネスに意識があれば令呪で強要されていただろう。その程度の可能性すら思い至らなかったのだろうか?  ほとほと呆れてかぶりを振りながら、切嗣は口に衝えた煙草に火をつけた。  何とも皮肉な話である。敵のサーヴァントとは愚にもつかない信頼関係を結ぶ一方で、自身のマスターとは溝を深めていくばかりの英霊。いかに最強を誇るとはいえ、これほど扱いに困る|駒《こま》があるだろうか?  やはり自分のサーヴァントはもっと慎重に選ぶべきだった──今更のように痛感しながら、切嗣は溜息とともに紫煙を吐き出した。 [#改ページ]   -130:32:15 「──女よ、ひとつ問う」  万策尽きて立ち疎む銀髪の女に向けて、ゆっくりと歩み寄りながら、言峰綺礼は重く沈んだ声で切り出した。  彼女の護衛であるはずだった黒髪の女は、既に容赦なく叩きのめされて|濫襖布《ぼろきれ》のように地に伏している。もはや脅威にはならない。 「おまえたち二人は、衛宮切嗣を護るために私に挑みかかってきたようだが──それは誰の意志だ?」 「……」  頑なに押し黙るアインツベルンのホムンクルスを、綺礼は片腕一本で喉笛を掴んで、軽々と宙に釣り上げた。彫像のように端正な美しい顔が苦悶に歪む。 「重ねて問うぞ、女。おまえたちは誰の意志で戦った?」  綺礼の問いは、彼なりに切実なものだった。いったい誰が、衛宮切嗣へと至る道程にこんな|詮無《せんな》い妨害を仕組んだのか──その真相は彼にとって少なからず由々しい問題だったのだ。  ひとつ、もはや綺礼にも看破できたことがある。  このホムンクルスの身体には、どこをどう探そうとも令呪などありはすまい。彼女はサーヴァントのマスターではない。今の軽率すぎる行動は、断じてマスターのものではない。  となれば、真相はもっとも初期の段階で時臣が予見していた通り──やはり衛宮切嗣こそがセイバーのマスターなのだ。この二人の女たちはただの駒でしかない。  さて、そこで|件《くだん》の問いが問題になってくる。  もし二人に綺礼を襲わせたのが、衛宮切嗣の命令ならば──流せる。単に綺礼が過小評価されていただけの話だ。女たちは相手が悪かった。ただそれだけの話である。  或いは衛宮切嗣以外の司令塔がいたとしても──それもまた流せる。アインツベルンの至上課題はマスターである切嗣を護ることにある。そのためにはどんな犠牲も|厭《いビ》うまい。ただの時間稼ぎのためだけであろうとも人命を費やすことだろう。  ただし、どちらの可能性にも共通した疑問が残る。  酸素を求めて喘ぐ銀髪の女の顔を、あらためて綺礼はしげしげと観察した。あまりにも美しく整いすぎた人形めいた顔。ルビーのような赤い瞳。肖像画として伝わる『冬の聖女』ことリズライヒ・ユスティーツァに瓜二つな風貌。  このボムンクルスがマスターでなく、それでも聖杯戦争に参加している以上、まず間違いなく|コ《・》|レ《・》は『器の守手』の役を負った人形だろう。ならば彼女は彼女で、聖杯戦争の終盤における鍵となるべき重要な存在である。そんな駒を戦いの前線に立たせて危険に晒すというのは、ただの人不足では説明がつかない愚行である。  ──ふと足首に妙な重さを感じて、綺礼は下を見下ろした。  あまりにも些細で、取るに足らない存在で、綺礼は意識すらしていなかった。さっきから低く地を這うように聞こえていた、弱々しく苦しげな喘鳴が、いつの間にか綺礼のすぐ足許にまで近づいていたことを。  |満身創疲《まんしんそうい》の黒髪の女が、震える腕を伸ばして綺礼の右脚を掴んでいた。  握力は弱々しくても、今の彼女の渾身の力なのだろう。既に立ち上がることも、拳を固めることもできない。それでも憎しみに|昏《くら》く燃える眼差しだけが、揺らぐことなく綺礼を凝視している。 「……」  綺礼は無言のまま足を上げると、肋骨の砕けた女の胸に容赦なく踏み下ろした。もはや悲鳴も|噴《か》れた女は痛みに声を上げることもなく、ただ肺から絞り出された空気の残りが、げぇ、と無様な音を立てる。  それでも女は手を放さない。まるで流木にしがみつく漂流者のように、衰弱しきった腕を綺礼の腕に絡みつかせたまま、ただ恨めしげに綺礼を凝視し続ける。  綺礼はふたたび視線を転じ、宙に吊り上げた銀髪の女を見上げた。  呼吸を断たれ、苦しみに身悶えしながらも、ホムンクルスの表情に恐怖はない。ただそれだけならば不思議はなかった。ヒトならざる模造品の人形ならば、死や苦痛を恐怖する感情などなくて当然である。──が、それでは説明がつかない。ボムンクルスの赤い瞳は、紛れもない憎悪と怒りを込めて綺礼を見据えているのだから。  宙から、地べたから、二人の女の眼差しが怨々と綺礼に訴えかける。 �決してここを通さない�と。 �命に代えても、オマエをここで食い止める�と。  二人とも、綺礼の問いには答えない。彼女たちに綺礼の迎撃を命じたのが誰なのか……どう想像を巡らせても、推理は矛盾を孕んでしまう。  そこで、想定しうる可能性がもうひとつ。  もしこの二人が、誰の指示も許諾も受けずに、各々の独断でもって綺礼に挑んできたのだとしたら?  ──それは、断じて流せない。  ふと馴染みのある霊体の気配が、音もなく綺礼の傍らにまで忍び寄ってきた。アサシンの念話の声が、綺礼の脳裏に直に語りかけてくる。 �キャスター、それにランサーとそのマスターも、揃ってこの森から敗走しました。程なくセイバーが駆けつけまする。わが|主《あるじ》よ、ここは危険です�  斥候を任せていたアサシンの報告に、綺礼は白けた落胆とともに頷いた。もはやこの場はどう足掻こうとも無駄である。真っ向からセイバーのサーヴァントに立ち向かっては勝機はない。むしろ今から退却したところで、無事に逃げおおせるかどうか危ういほどだ。  今から講じる策があるとすれば──セイバーの追撃を阻むための足止めぐらい、か。  綺礼は上着の下から新たな黒鍵を引き抜くと、何の躊躇もなく、まるで反物でも裁断するかのように無造作に、銀髪のホムンクルスの腹を串刺しにした。 「ふ、ぐッ……!」  声にならない悲鳴を上げて、作り物の女は喉から血を逆流させる。なるほど、ちゃんと赤いのか──などと|益体《やくたい》のない感慨を懐きながら、綺礼は痙攣する身体を地に放り捨てた。  いちおう急所は外してある。失血死までに数分は保つだろう。ほどなく駆けつけるであろうセイバーは、彼女を手当てするか、それとも見殺しにして綺礼を追うか、二択を強いられるはずだ。  それきり、瀕死の女二人には目もくれず、綺礼はもと来た道を|遡《さかのぼ》って木々の合間を疾走しはじめた。  ひとつの状況が終わった後に、余計な思惑の余地はない。ついさっきまで死闘を演じた「一人の女についても、思い起こすほどの価値は何一つないはずだった。  にも拘わらず、走る綺礼の脳裏には、いつまでもあの二人の眼差しがまとわりついて離れない。  あの憎悪は本物だった。彼女たちの殺意は、義務感や職業意識によるものでは断じてない。  女たちはアインツベルンの勝利を護ろうとしたわけではなく、衛宮切嗣という一個人を護ろうとした。もし前者であったなら、二人は城で切嗣と連携して外敵を迎え撃とうとしたはずだ。そういう手堅い戦いをせずに、彼女たちは切嗣抜きでの防衛を試みた。  衛宮切嗣の思惑を離れた上で、なおも切嗣を護ろうという意志。勝てる道理もない戦いに、是が非でも勝とうとした執念。  あの女たちは切嗣という男に何かを期待し、託している。戦力差や勝率といった|理《ことわり》の通用しない領域で、何かを守り、貫き通そうとしている。  そんな理不尽、そんな愚行にヒトを走らせる概念を、綺礼はひとつだけ知っていた。  信念  この二人が、衛宮切嗣という人物に『信念』をもって協賛しているとするならば、彼女らの馬鹿げた行動にはすべて理屈が通る。ただしそれは、最後にひとつだけ重大な疑問を生じさせることになるのだが。  女というのは往々にして利己的な生き物である。それが一人ならず二人まで、�彼�のために自らを犠牲にするというのは、二人の女が二人とも、�彼�を全面的に肯定し、理解していなければ成り立たないことだ。  それはつま──衛宮切嗣という人物は、他者に肯定され、理解される存在だということなのか。 「有り得ない……」  低く掠れた、坤きにも似た咳きを、綺礼は喉の奥から漏らしていた。  それは、断じて在ってはならない矛盾。  衛宮切嗣に対する期待を、予感を、すべて根底から覆す番狂わせ。  切嗣は虚無なる男のはずだ。虚無を突き詰めたその果てに、なおも闘う理由を見出した人物のはずだ。だからこそ綺礼は期待した。衛宮切嗣の内面に、その生きざまに、求め欲する答えがあるはずだと見込んでいた。  なればこそ、切嗣は孤高でなければならなかった。誰にも理解されず、肯定されない、世界と隔絶した魂の持ち主でなければならなかったのだ。──言峰綺礼がそうであるように。  胸の内に膨れあがってくる疑念を振り払おうと、そこから逃げおおせようとするかのように、綺礼は独り、歯噛みしながら一心に森の中を駈け抜けた。          ×                ×  遠く彼方から呼びかけてくるかのような声に、アイリスフィールは朦朧と瞼を上げた。  見覚えのある面影を縁取る逆光が、その金髪をなお美しく輝かせている。 「……イリスフィール、しっかりしてください! アイリスフィール!」 「セイ、バー……?」  相手が他でもない騎士王の少女と気付いたところで、アイリスフィールは安堵のあまり力が抜け、ふたたび眠りに落ちそうになった。 「駄目だ! 意識をしっかり保って! 今すぐ切嗣を呼んできます。それまで頑張るのです!」 「……綺礼は……ここにいた敵は、どこに?」  細い声で問うアイリスフィールに、セイバーは無念そうに眉根を寄せる。 「逃げられました。あと少し早く私が駆けつけていれば、こんなことにはならなかったものを」 「……舞弥、さんは……」 「彼女も深手を負っていますが、命に別状はありません。それよりも貴女です! この出血量では──」  言いさして、セイバーは驚きに言葉を失った。  つい今しがたまで、アイリスフィールの腹部の傷からとめどなく溢れ出ていた鮮血が、ぴたりと止まっている。おそるおそる破れた着衣を捲ってみると、血糊にべったり濡れてこそいたが、滑らかな肌には刺し傷など痕跡すら見当たらない。 「──驚かせちゃって、御免なさいね」  抱きかかえていたセイバーの腕の中から、アイリスフィールは苦もなく自らの力で身を起こした。血色を失っていたはずの頬も、すでに桜色を取り戻している。ついさっき見た重傷の有様が、まるで幻覚かなにかのようだった。 「アイリスフィール、これは一体!」 「もう大丈夫。心配いらないわ。他人の怪我に治癒魔術をかけるより、自分の傷を治す方が簡単なのよ。……そもそも私、人間とは身体の造りが違うから」 「はぁ……」  驚きに目を白黒させるセイバーに微笑みを向けながらも、アイリスフィールは心の中で沈鬱に、信じる騎士への嘘を詫びだ。 �本当はあなたのおかげなのよ。セイバー……�  たしかにアイリスフィールの身体は魔術的な人造物だが、意識を失った状態から自動的に治癒を発動できるような、そんな術式は組み込まれていない。彼女の傷を癒したのは、アインツベルンの魔術とはまったく別種の奇跡である。  宝具『|全て遠き理想郷《アヴァロン》』!持ち主の傷を癒し老化すらも停滞させる、宝剣エクスカリバーの|鞘《さや》。かつてアインツベルン城で、英霊アルトリア召喚の際の触媒として利用されたその宝具が、今は概念武装としてアイリスフィールの体内に封入されているのである。  順当に考えれば、これはマスターである切嗣こそが装備しておくべき切り札だったが、アイリスフィールを偽マスターとして前線に立たせる上での保険として、彼はこの絶対防御の宝具を妻の手に託していたのだ。どのみち本来の所有者であるセイバーが傍にいて魔力を供給しない限り、鞘の効力は発揮されない。最初からセイバーとの別行動を予定していた切嗣にとっては、無用の長物でしかない。  自らのサーヴァントに信を置いていない切嗣ならではの用心で、鞘の存在は決してセイバーに明かさないようにと、アイリスフィールは厳重に口止めされていた。が、本来ならば騎士王の所有物である宝具を無断借用も同然の形で利用するのは、アイリスフィール個人としては心苦しいことこの上ない。  それにしても、実際に効果を確かめる段になると、その威力には目を見張るものがあった。セイバーがこの場に駆けつけるまで、アイリスフィールは間違いなく|危篤《きとく》状態だったのだ。それが騎士王の手に触れられただけで、瞬く間に傷が癒着し、失われたスタミナまでもが快復した。まさに宝具と呼ぶに相応しい奇跡である。  綺礼に力業で術を破られたことで変調をきたしていたはずの魔術回路も、今では何の不具合もない。これならば普段通り十全に魔術を行使できるだろう。  そうとなれば、次は負傷した舞弥の手当てが優先だった。既に|昏倒《こんとう》している彼女の様態は、たしかに|瀕死《ひんし》とまではいかないが、それでも間違いなく重傷である。  その容赦ない肉体破壊の痕跡に、あらためてアイリスフィールは言峰綺礼という男の恐ろしさを思い知った。  まぎれもなくあの代行者は怪物だった。銃器を、魔術を駆使して立ち向かったにも拘わらず、彼は生身の技だけを以てしてアイリスフィールと舞弥の共闘を粉砕したのだ。  決して、切嗣にまで届かせてはならない敵-その存在の重圧に、アイリスフィールは唇を噛む。  今回は奇しくも粘り勝ちといえよう。だがそれがほんの僥倖でしかないのは明らかだ。 あとほんの僅かでもセイバーがキャスターやランサーとの戦いに拘泥していたならば、綺礼は森の奥の城にまで至っていたに違いない。  これが終わりではない。次もまた、綺礼は必ずや衛宮切嗣を狙って挑みかかってくることだろう。 �でも、切嗣を守るのは私だけじゃない……そうよね? 舞弥さん�  治癒の前処理としてまず痛覚を奪ったせいで、苦しげに歪んでいた舞弥の表情は安らかに和らいでいた。まだ意識を取り戻すには至らないが、その寝顔は普段の固く拒むような険しさが抜け落ちて、まるであどけない少女のようだ。  彼女のことは、本当なら厭うべきなのだろう。アイリスフィールは既に人形ではない。 女として、妻として、一人の男を愛する魂を持ち合わせているのだから。  だが今は、久宇舞弥に感謝していた。この戦いで自分が何を成すべきか、アイリスフィールは舞弥から教わったも同然だったのだから。 �次こそは、きっと勝とう。二人で、彼を守り抜こうね……�  誓いを新たに、アイリスフィールは傷だらけの舞弥の身体を癒すことに専念しはじめた。 [#改ページ] [#改ページ] ACT8 [#改ページ]   -122:18:42  テーブルを飾る肉と酒。燦然と輝く燭台の列。  ミコルタの大宴会場にはエリンの貴族たちが一堂に集い、今が宴の最高潮。  とはいえ荒くれ者たちの力自慢や呑み比べは、今日に限っては|御法度《ごはっご》だ。  むくつけき武人たちも、今宵ばかりは|雅《みやび》な花の香に酔いしれる。  そう、これは花を愛でるための宴。  アイルランド大王コーマック・マック・アートの息女グラニアが、ついに婚約を交わすのだ。  相手は誰あろう、クーアルの息子フィン・マックール。知恵の|鮭《さけ》の油に英知を授かり、癒しの水を司る大英雄。彼こそは天下に無双と|謳《うた》われるフィオナ騎士団の首領である。その力と名声は大王に並び立つほどの|益荒男《ますらお》。これほどに|目出度《めでた》い縁談が他にあろうか。  老雄フィンに付き従うのは、その息子にして詩人のオシーン。その孫にして英雄のオスカー。そして一騎当千のフィオナ騎士団の勇士たち。  駿足のキールタ・マック・ロナン。ドルイド僧ジャリング。『戦場の戦慎』ガル・マック・モーナ。コナン・オブ・ザ・グレイ・ラッシィズ。そして最強の誉れも高き『輝く顔』のディルムッド・オディナ。  いずれも劣らぬ豪傑揃い。その誰もがフィンを敬愛し、揺るがぬ忠義を誓っていた。偉大なる英雄を首領に仰ぎ、その一命に剣と槍と命を託す。これこそが騎士たる誉れ。|吟遊《ぎんゆう》詩人に謳われて語り継がれるべき、輝かしき武人の本懐。  その道に憧れて。  その道を貫いて。  いつか我が身は誇り高く戦場に果てるものと、そう信じて疑わなかった。  ──あの運命の宴の夜に、一輪の花と出会うときまでは。 『我が愛と引き替えに、|貴男《あなた》は|聖誓《ゲフシュ》を負うのです。愛しき人よ、どうかこの忌まわしい婚姻を破棄させて。私を連れてお逃げください……地の果ての、そのまた彼方まで! 』  涙ながらに訴えかける乙女の眼差しは、一途な恋に燃えていた。  それが我が身を焼き滅ぼす|煉獄《れんごく》の炎になることを……既にそのとき、英雄は理解できていたのだ。  それでも彼は拒めなかった。  名誉を試す|聖誓《ゲッシュ》の重さと、自ら奉じた忠臣の道と──果たしてどちらがより尊かったのか。幾度、自問して葛藤しても、答えに至ったことはない。  だから、彼を駆り立てたのは、きっと誇りとは何の関係もない理由。  英雄は姫と手を|携《だずさ》えて、ともに前途の栄華に背を向けた。  こうして、やがてケルト神話の伝承に語り継がれることになる、ひとつの悲恋の物語が幕を開けたのだ。          ×                ×  ──奇妙な夢の中をくぐり抜けて、ケイネスは眠りから醒めた。  見たことも、経験したこともない遥かな太古の景色。だが不可解なことではない。サーヴァントと契約を交わしたマスターは、ごく希に、夢という形で英霊の記憶を垣間見ることがあるという。  ケイネスとて、当然召喚した英霊にまつわる伝承は熟知している。まさかあれほど真に迫った光景として目の当たりにするとは思わなかったが……先の夢はまぎれもなく、『ディルムッドとグラニアの物語』の一場面だ。 �だが私は……何故、ここにいる?�  まだ|醒《さ》めやらぬ意識のままで、ケイネスは周囲を見渡す。  |寂《さび》れきった、がらんどうの空間。廃嘘ならではの|埃《ほこり》じみた空気が、冬の夜の冷気を際立たせる。  人の営みの痕跡など、過去に遡っても見当たらない、機械装置だけの冷たい空間。  見覚えのない場所ではなかった。ここは冬木ハイアットの倒壊後に、ケイネスが仮の隠れ家として居を据えた、街外れの廃工場だ。  混濁した記憶を遡る。  彼はキャスターの後を追跡し、アインツベルンの森にまで|辿《たど》り|着《つ》いたのだ。そしてサーヴァントたちの戦いを後目に、単身、セイバーのマスターとの決闘に臨まんとして…… |顛末《てんまつ》のすべてを思い出すと同時に、屈辱と憤怒とが|堰《せき》を切ったように押し寄せる。  抑えきれない激情に拳を握りしめようとして、ようやく彼は気がついた。眠りから醒めたにも拘わらず、手足の感覚がまったくないという事実に。 「な……」  当惑と恐怖とに駆られて、ケイネスは身悶えする。だが身体はまったく動かない。彼は簡易寝台の上で仰向けにされたまま、胸と腰とをベルトできつく緊縛されていた。  起き上がれないというだけなら、解る。だが両手両脚がまるで反応しないというのはどういう事か?  縛られているのは胴だけだ。|四肢《しし》には何の|縛《いまし》めもない。なのに──動かない。まるで彼の手足ではないかのように。 「──気がついたようね」  視界の外から、愛する許嫁の声がした。ケイネスが身悶えする物音を聞き処口めて、やってきたらしい。 「ソラウ!? これは一体……わ、私はなぜここにいる──!?」 「ランサーが運んできてくれたのよ。貴方の窮地を救ってね。何があったのか、まったく憶えていないの?」 「私は……」  撃たれた。アインツベルンの城で、小細工を|弄《ろう》する半端物の魔術師もどきを殺そうとした矢先に。  だが敵の銃弾は、たしかに|月霊髄液《ヴォーメン・ハイドラグラム》で防御したはずなのだ。勝利を確信したあの瞬間は、はっきりと憶えている。  だがそこで記憶は断絶する。何か、凄まじい激痛に見舞われた──そんな気がしなくもない。気がつけばここで仰向けに寝かされていた。時間の経過すらも判らない。  ソラウが、触診する医者の手つきでケイネスの腕に指を置く。だがケイネスの体感には、触られているという感覚がまるでない。 「全身の魔術回路が暴走した形跡があるわ。内臓はほぼ壊滅。筋肉と神経も身体中くまなく破損していたの。即死しなかったのは奇跡ね」 「……」 「とりあえず、間に合ったのは臓器の再生までよ。もう神経の方はどうにもならなかった。このまま時間をかけて治癒をかけても、立って歩けるまでの快復は望めないでしょうね。それに──」  淡々と語る許嫁の診断を聞いて、ケイネスはじわじわと絶望に苛まれていく。  魔力の暴走による自傷。魔術師にとっては最も身近な、かつ何よりも致命的な末路。  そんな初歩の初歩とも言うべき失態なぞ全く無縁であったはずのケイネスではあったが、だからといって、その結末が意味するところは、彼とて知らぬ筈もない。 「それに──ケイネス、貴方の魔術回路は壊滅よ。もう二度と魔術の行使はできない」 「私は……私、は……」  かつては神童ロード・エルメロイとまで謳われた男の目に涙が浮かぶ。  何故これほどの仕打ちをうけるのか、彼にはまったく理解できない。世界はケイネスを祝福していたはずなのだ。彼の天才に、無限の未来と栄華とを保証していたはずなのだ。  ケイネスが信じて疑わなかったこの世の|理《ことわリ》が、すべて残らず、音を立てて瓦解していく。 あまりに無情すぎる現実に、理解を絶する理不尽に、ただ彼は怯えて泣いた。今のケイネスは、初めて恐怖を理解する幼児も同然であった。 「泣かないで、ケイネス。諦めるのはまだ早いわ」  慰める声音で囁きながら、ソラウが彼の頬を|撫《な》でる。彼女が婚約者に優しさを示すのはいつでも、彼がそれを必要とするタイミングより|些《いささ》か遅れるのが常だった。 「聖杯戦争はまだ続いている。ケイネス、貴方の策の成果よ。魔力の供給源である私がいる限り、ランサーとの契約も継続できる。私たちは、まだ敗北したわけじゃない」 「……ソラウ?」 「聖杯が万能の願望機だというのなら、貴方の身体を完治させることも充分に可能な筈でしょう? 勝てばいいのよ。勝ち残って聖杯を手にすれば、何もかも元通りになるわ」 「……」  ソラウの言葉は、ケイネスを励まし、希望を与えるものであるはずだった。彼を伴侶として支える許嫁の激励は、何よりも勇気を与えてくれるはずだった。  それなのに──何故かケイネスの胸中を、名状しがたい不安が、|隙間風《すきまかぜ》のように吹き抜ける。  そんな彼の疑念を知ってか知らずか、ソラウは慈母の笑みを浮かべたままケイネスの右腕を取り、不能となったその手の甲に今も残る、二つの令呪に指を這わせた。 「だから、ね? ケイネス……この令呪を私に譲って頂戴。私がマスターとしてランサーを受け継ぐわ。貴方に聖杯をもたらすために」 「だ──駄目だッ」  即答したのは、半ば動物的な本能によるものだったかもしれない。全てを失った今となっては、この二つの令呪だけが|縁《よすが》だと──決して手放してはならないと、そうケイネスの魂は叫んでいた。  わけもなく怯えるケイネスに向けて、ソラウはまるでむずがる子供をあやすかのように優しい言葉を続ける。 「私を信じられないの? 魔術刻印こそないけれど、これでもソフィアリ家の魔術師の端くれよ。アーチボルトに嫁ぐこの私が、ロード・エルメロイの戦いを代行することに、何の不思議があるというの?」 「いや、だが……」  筋は、通っている。  確かに、もうケイネスには実地に|赴《おもむ》いてランサーの戦いを見守ることは難しい。今となっては自分の身を守ることすらできないのだ。アインツベルンがそうしたように、サーヴァント戦の傍らでマスターを狙う暗殺者などを仕掛けられたら、今度こそ命はあるまい。  ソラウの魔術師としての位階はケイネスより大きく劣る。だがイスカンダルを召喚したウェイバーや、キャスターと契約しているらしき殺人鬼など、マスターとしては問題外の参加者もこの聖杯戦争には存在する。戦術次第ではソラウとて、戦いを勝ち抜くことは決して不可能ではあるまい。  そしてサーヴァントを使役するとなれば、あれら怪物を屈服させる令呪は必要不可欠だ。だが──  ケイネスは思い出す。初陣を終えた深夜のホテルで、ランサーを見つめていたソラウの熱い眼差しを。許嫁であるはずの自分が、ただの一度も注がれたことのない、夢見るような陶酔の視線を。  美丈夫に|見惚《みと》れるというだけならば、まだ|赦《ゆる》せる。女ならではの此二細な過ちだ。その程度で目くじらを立てていては夫など務まらない。  だがそれも、ランサーが�ただ美丈夫というだけの男でしかない�場合の話である。 「……ソラウ。ランサーが私でなく君に忠誠を誓うと思うか?」  敢えて感情を殺して問うたケイネスに、ソラウは迷うこともなく頷いた。 「彼だって、聖杯の招きに応じた英霊ですもの。聖杯を求める心は私たちと一緒よ。たとえマスターが交代することになっても、彼は目的のために押し忍んで受け入れるわよ」 �それは……違う�  ケイネスは胸の内で喰った。ソラウの与り知らぬことではあるが、あの英霊ディルムッド・オディナはそんな殊勝な人物ではないのだ。  たしかに、サーヴァントとして聖杯に招かれた英霊は、なにも契約のためだけに聖杯戦争に臨むわけではない。英霊には英霊なりに、聖杯を求める理由を持ち合わせているはずなのだ。彼らは自らが聖杯に託す願望を持ち合わせているからこそ、己のマスターを覇者とし、共に聖杯の恩恵に与ろうと|奮迅《ふんじん》するのである。  よってサーヴァントのマスターは、召還した英霊に対し、まずその願望を問うことになる。何を願って聖杯を求め、召還に応えて現れたのか──その由縁を明確にしておかない限り、両者の信頼関係は決して成立しない。万が一、各々の願望が互いに相反するような内容であれば、いざ聖杯を手にする段になって手痛い裏切りに|遭《あ》いかねないからである。  当然、ケイネスもまた早々にディルムッドの願望を質した。ともに聖杯に至った|曉《あかつき》には、はたして何を願うのか、と。  だが、英霊は答えなかった。  否、それは正確ではない。ディルムッドは回答を拒んだのではなく、問いそのものを否定したのだ。  |曰《いわ》く──『聖杯など求めはしない』と。  報償など必要ない。ただ今生の主たる召還者に忠誠を尽くし、騎士としての名誉を|全《まつと》うすること。それだけが己の望みであると。  納得できるわけがなかった。名のある英霊たる者が、誇りを曲げて人間風情の使い魔にまで身を|實《やつ》すとなれば、よほどの理由がなければ|辻褄《つじつま》が合わない。無償奉公など笑い話にもなりはしない。  だが、いくら言葉巧みに問い質そうとも、彼のランサーは|頑《がん》として前言を撤回しなかった。 『騎士としての面目を果たせばそれで良い。願望機の聖杯はマスター一人に譲り渡す』  終始その一点張りで、ランサーは|頑《かたく》なに聖杯を否定し続けた。  ──思い返せば、その頃から既にケイネスは、自らが契約したサーヴァントに不信感を懐いていたのかもしれない。  聖杯を求めぬサーヴァントなど有り得ない。  なればこそ、ランサーの答えは明らかな虚偽。決して本心を窺わせない轄晦。  それも良かろう、とは思っていた。ケイネスの手には令呪がある。この絶対命令権がある限り、ディルムッドの裏切りは有り得ない。サーヴァントなど所詮は道具、ただの器械でしかないのだ。道具ごときが胸の内に何を秘めおこうと問題ではない。ただ機能さえ十全に果たせばいい。それが昨日までのケイネスの判断だった。  だが今、ランサーを疑おうとしないソラウを前にして、ケイネスは以前ほど寛大に構えてはいられない。  奴がソラウに従うとすれば──奴自身の言葉を信じるならば──それは明らかに、聖杯を欲するのとは別の欲求に駆られてのことだ。  決して信じてはならない英霊。そもそも生前の逸話にしてからがそうだ。あの男は君主の許嫁を略奪して逃亡した、背信の臣ではなかったか…… 「令呪は……渡せない」  きっぱりとケイネスは言い切った。 「令呪は魔術回路とは別系統の魔術だ。今の私でも行使できる。私は……今でもまだランサーのマスターだ!」  ソラウは、ふう、と深く溜息をついた.  その吐息とともに、彼女の面貌から優しい笑みが抜け落ちる。 「ケイネス、判ってないのね。……私たちはどうあっても勝ち抜かなきゃならないってことに」  ぼきり、と、枯木が砕けるような乾いた音がした。  ソラウが、それまで優しく取り扱っていたケイネスの右手から、やおら無造作に小指を捻り折ったのだ。  相変わらず痛みはない。だがその無感覚こそが、ケイネスの恐怖を倍増しにした。ソラウはそうやって簡単に、何の抵抗に遭うこともなく、残り四本の指を順繰りに折っていくこともできるのだ。 「ねぇケイネス。私程度の霊媒治療術だと、根付いた令呪を強引に引き抜くのまでは無理なのよ。本人の同意があって初めて、無抵抗にコレを|摘出《てきしゆつ》できる」  無表情に語るソラウの、その声音だけはさっきまでと変わることなく優しげなままだった。物分かりの悪い子供に言い聞かせるかのように、あくまで穏やかに彼女は続けた。 「どうしても納得しないというのなら……この右腕を切り落とすしか他になくなるけれど、どうするの?」  廃工場の裏口を出た外は、闇に静まりかえった雑木林が鬱蒼と茂っている。  冷たい夜気に身を晒し、ひとまず興奮の熱が冷めるのを待ってから、ソラウは姿なき歩哨に声をかけた。 「ランサー、出てきてください。話があります」  呼びかけに即応して、英霊ディルムッドは彼女のすぐ傍らに実体化した。  慎み深く伏せた目の下で、なおも艶やかに存在を主張する一粒の泣き|黒子《ほくろ》。動き易さを優先した軽装の革防具は、その|猛禽《もうきん》のように引き締まった肉体の|精惇《せいかん》さを殊更に強調しているかのようだ。  何度目の当たりにしても溜息が漏れる。身体の|芯《しん》が熱くなる. 「外の様子に異状はありますか?」 「今のところは安全です。希にキャスターのもとからはぐれたらしい怪魔が|俳徊《はいかい》している気配もありますが、ここを嗅ぎつけて襲ってくる素振りはない。ケイネス殿の結界敷設はまだ|綻《ほころ》んではおりません」  頷くとともに、ソラウは胸の内で安堵する。ランサーがこれだけ|生真面目《きまじめ》に外の見張りを務めていたのなら、建物の中で起こった事には何も気付いていないだろう。 「して、ソラウ様。ケイネス殿の様態は?」 「|芳《かんば》しくありません。一通りの処置は施したけれど……腕はリハビリ次第でも、脚はもう駄目かもしれない」  ランサーは沈鬱な面持ちで|傭《うつむ》いた。この実直な英霊は、どうやらケイネスの負傷にまで責任を感じているらしい。 「自分が、もっと|聡《さと》く状況を見極めていれば……|主《あるじ》をみすみす死地に赴かせることなどなかったものを……」 「貴方に智はないわ。ケイネスの自業自得です。彼にこの聖杯戦争は荷が勝ちすぎていたということでしょう」 「いや、だが……」  口ごもるランサーに、ソラウは決意を固めて、胸の内の言葉をぶつける。 「彼は、貴方のマスターには相応しくないわ。ディルムッド」  ランサーは沈黙し、まじまじとソラウの顔を見つめた。そんな厳しい視線にさえ陶然となる心を抑えて、彼女はサーヴァントに右手の甲を掲げて示す。  そこには、ついさっきまでケイネスの手にあったはずの二つの令呪が、くっきりと刻み込まれていた。 「ケイネスは戦いを破棄し、マスターの権限を私に譲りました。今宵から──ランサー、貴方は私のサーヴァントです」 「……」  美貌の英霊はしばし黙して視線を落とした後、やがて傭いたままでかぶりを振った。 「私は、ケイネス殿に騎士としての忠誠を誓った身です。ソラウ様……その申し出は、|承諾《しようだく》できない」 「そんな!?」  予想を裏切る反抗に、むしろ|慌《あわ》てたのはソラウの方だった。 「もとより貴方は、私の魔力によって現界しているサーヴァントでしょう? そして今は令呪までもが私の手にある。今度こそ正真正銘、貴方の契約者は私一人であるはずよ!」 「魔力を頂くのも、令呪の縛りも、これとは何の関わりもない話です」  申し訳なさそうに目を伏せたまま、ランサーは粛々と続けた。 「私はサーヴァントであるより以前に一人の騎士なのです。忠義を尽くす君主は、ただ一人しか有り得ない。ソラウ様、どうかご容赦を」 「……私がマスターでは不足ですか? ディルムッド」 「それとこれとは話が違うと──」 「私の目を見て話して!」  ソラウの叱咤に、ランサーは渋々ながら面を上げ、真正面から彼女と向き合った。涙を湛えたソラウの眼差しは、ランサーにとって予想の範囲の──それも、最も苦々しい既視感を伴うものだった。  かつて彼は、こんな風に涙で求め訴える女と向き合ったことがある。 「……ランサー、私と戦って。私を護って、私を支えて、私と共に聖杯を獲って」 「できません。ケイネス殿が戦いを破棄するというのなら、私も聖杯など求めはしない」  感情が高ぶるあまり、ソラウは後戻りの出来なくなる言葉を、あやうく言い放ちそうになった。すんでのところで自分を抑え、動悸が収まるのを待ってから、彼女は思い詰めた固い声で先を続けた。 「あくまでケイネスの騎士だというのなら、ランサー、尚のこと貴方は聖杯を勝ち取らなくてはならなりません。  彼の様態はさっき話した通りです。あの身体を癒すには奇跡の助けが必要だわ。それが叶うのは聖杯だけでしょう」 「……」  再びランサーは押し黙る。だが今度の沈黙は肯定と同義であった。 「彼の負傷に責任を感じるなら、ロード・エルメロイの威信を取り戻そうと思うなら、貴方は|主《あるじ》に聖杯を捧げなければ」 「……ソラウ様、あなたはケイネス殿の伴侶として、ただケイネス殿のためだけに聖杯を求めると、そう仰有るのですね?」 「そ──そう、無論です」  静かに見つめ返すランサーの眼差しに、ソラウは生唾を呑んで返答した。 「誓ってくださいますか? 他意はないと」  出来ることなら泣き出したかった。あられもなく叫びながら、この美しい男にしがみつき、胸の内を|吐露《とろ》してしまいたかった。  だがそうすれば、今度こそこの誇り高き英霊は、にべもなくソラウを拒絶するだろう。彼に心を伝えることはできない。少なくとも、今はまだ。 「──誓います。私はケイネス・エルメロイの妻として、夫に聖杯を捧げます」  固い声で宣誓すると、そこでようやくランサーは表情を|弛《ゆる》め、静かに頷いた。  それは、微笑みと呼ぶにはあまりに淡いものだったかもしれない。だがそれでもソラウには過ぎた幸福だった。彼の笑顔めいた表情を、ついに彼女に向けさせたのだから。  そうだ、嘘でも構わない──改めて、ソラウは秘めた心で想う。  今この男との|絆《きずな》を保っていられるのなら、たとえどんな形であろうとも構わない。そのためなら彼女はどんな卑劣な嘘でもつくだろう。誰にもそれを智めさせはしない。そう、決して──邪魔者は赦さない。  彼は人ならざる|賓《まれびと》。聖杯がもたらす|泡沫《うたかた》の奇跡。だとしてもソラウの想いは変わらない。  思い返せば、物心ついた頃から彼女の心は凍えていた。既に嫡子のある魔道の名門に、遅れて生まれ落ちたソラウには、女としての感情を養う意味などありはしなかったのだから。  代を重ねて精錬されたソフィアリという魔道の血。それだけしか存在に価値のない少女。 つまりは|産声《うぶこえ》を上げたその時点から、彼女には政略結婚以外の|用《・》|途《・》などなかったのだ。  無念とは思わなかった。疑問すら抱かなかった。選択の余地など生涯を通じて皆無である。親の取り決めた縁談にも|唯々《いい》|諾々《だくだく》と従った。氷結した彼女の魂は、まったく興味のない男を生涯の夫と呼ぶことにも何の感慨も懐かなかった。  だが、今は違う。  かつて、これほど熱く高鳴る心臓の鼓動を、胸に感じたことがあるだろうか。  ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリの心は、もう凍えてはいない。彼女は恋い|焦《こ》がれる胸の熱さを知ったのだから。  ソラウが寝所に戻った後も、ランサーは独り戸外に残って見張りを続行した。サーヴァントに|睡眠《すいみん》は必要ない。マスターからの充分な魔力供給がある限り、その肉体は疲労とは無縁である。  故に、|懊悩《おうのう》を眠りによって忘れる|術《すべ》もなく──  ランサーは繰り返し、ソラウの言葉を思い起こしては溜息をついていた。  一途に、哀切に、すべてを|樋《なげう》って訴えかけてくるあの眼差しは、過日の彼の『妻』の面影とあまりにも重なりすぎた。  グラニア姫  彼に背臣の|聖誓《ゲッシュ》を課し、栄えある英雄の座から逃亡者へと|財《おと》めた張本人。そんな彼女を、だがディルムッドは決して恨んではいない。  英雄の魔貌に魅入られたというだけの、謂われのない恋であったとしても、そのためにミコルタの|宴《うたげ》の席から逃げ出すという選択は、彼女にとっても捨て身の決断だったのだ。 親族との縁、王女の誇り、そして約束された未来の栄華……その全てに背を向けて、グラニアはディルムッドとの恋路を選んだ。その始まりが魅惑の呪力によるものであれば、いつかは自分の感情を疑う日も来ることだろう。だがそんな未来を恐れもせずに、グラニアは愛に生きる道を進んだのである。  巻き込まれたディルムッドこそ災難、という見解は余人のものだ。当のディルムッド本人はそういう思考の持ち主ではない。彼はつねに我が身の苦難より、相手の心の痛みに想いを致す男だった。  誇りを試す|聖誓《ゲッシュ》の重みに、ただ屈したというだけではない。未練もあった。葛藤もあった。だが君主フィン・マックールに対する背徳について苦悩する一方で、彼は最後まで自分の想いを信じて貫いたグラニアという女性の勇気に対しても敬服を懐いていたし、そんな彼女を最後には愛するようにさえなっていた。  当然のように、二人の恋路は困難を極めた。  |嫉妬《しっと》と激憤に駆られたフィン・マックールは、駆け落ちした二人の追撃に配下の総勢を動員し、野の獣のように狩り立てた。ディルムッドは王女を護りつつも、彼と|友誼《ゆうぎ》のあるフィン幕下の騎士たちとは決して|矛《ほこ》を交えず、フィンとの盟約によって呼び集められた外地の追っ手たちにのみ牙を剥いた。  巨人ハルヴァンとの戦い、九人のガルヴァとの戦い、そしてフィンの乳母でもあった『|挽《ひ》き|臼《うす》の魔女』との戦い……結果としてディルムッドは、かつてフィオナ騎士団において築き上げた功績よりもなお勝る数々の武勇を、グラニア姫との逃避行において打ち立てる羽目になる。誰よりも高潔な忠臣たらんとした彼にとって、それはあまりにも皮肉な英雄諌であった。  忠義とは何か? 愛とは何か?  双槍が敵を切り裂くごとに、騎士の心もまた引き裂かれた。相矛盾する忠節とゲッシュの板挟みに苛まれながらも、それでも精妙なる二本の魔槍は、迷うより先に敵を|穿《うが》ち、何の意味もない死をもたらす。  一人の女と二人の男──その情念と意地のためだけに、おびただしい血が流された。  そんな犠牲の|虚《むな》しさに心が折れたのは、結局のところフィンが先だった。老君はディルムッドとグラニアの婚礼を認め、然るべき地位と領土を与えて再び臣下に迎え入れた。  ディルムッドが願ってやまなかった|和睦《わぼく》。だがそれも結局は、より決定的な破局の前触れでしかなかった。  ある日、フィンと共に狩りをしていたディルムッドは、|猪《いのしし》の牙によって深い傷を負う。それは命に関わる重傷だったが、傍らにフィンがいれば恐れるほどのものではなかった。英雄として数々の奇跡を身につけたフィンは、その手に汲み取った湧き水を癒しの妙薬へと変えることがことができたからだ。  だが死に瀕した忠臣を前にして、老君フィンの脳裏を去来したのは、かつて一人の女を巡って争った苦い嫉妬の味だった。  湧き水の出る井戸は、倒れたディルムッドからわずか九歩と離れていない場所にあった。 フィンが騎士の傷を癒すには、たった九歩だけ水を運べば事足りたのだ。にもかかわらずフィンは、ただそれだけの距離の水を運ぶのに、二度まで手から|零《こぼ》したという。  そして三度目に水を汲んできたとき、英雄ディルムッド・オディナの呼吸は途絶えていた。  ──今、再びサーヴァントとして現世に招来され、過ぎし日の自身の末路を顧みても、ディルムッドに後悔の念はない。彼は誰を|恨《うら》むつもりもなかった。妻の愛にも応えたかった。フィンの怒りも理解できた。ただ運命の巡り合わせがあまりにも悪すぎただけのことだ。  苦難と悲嘆ばかりの人生だったわけではない。君主と酌み交わした杯も、妻と囁きあった|睦言《むつごと》も、彼の中にはかけがえのない記憶として残っている。その末路が悲劇であったとしても、ディルムッドは天命を不服とは思わなかった。彼と彼を巡る者たちは、|精一杯《ぜいいっぱい》に、直向きに生きたのだから。  ただ一度きりの、過ぎてしまった人生を否定はしない。  だが、もし仮に。  ふたたび騎士として槍を執る、二度目の人生があったとするならば…  そんな有り得ないはずの奇跡の可能性が、英霊ディルムッドの心に悲願を生んだ。  かつて取りこぼした誉れ。全うできなかった誇り。それを拾い直すことができるチャンス。それがディルムッドの望むすべてだった。  前世では叶わなかった、騎士としての本懐に生きる道。  今度こそは、忠節の道を──  曇りなき信義とともに、|主《あるじ》に勝利を捧げる名誉を──  つまるところランサーには、聖杯に託す望みなど何一つなかった。ふたたび|主《あるじ》を戴いて、冬木という戦場に立った時点で、彼の願望は半ばまで達せられていたのだ。  そして残りの半分は、勝利を勝ち取ったときに完成する。聖杯を|主《あるじ》の許へと持ち帰り、忠義の成果を形にした時点で、彼の全ては満たされる。  ただ、それだけのはずだった。決して過ぎた望みではなかったはずだ。  なのに今ディルムッドの行く手には、不吉な暗雲が立ちこめはじめている。彼が背負った魔貌の業は、新たな君主ケイネスとの間に、またもや|楔《くさび》を打ち込もうとしている。  ソラウが、ただ魔貌に魅入られているだけの自分を愚かと気付いてくれるなら、最悪の事態は避けられる。  だがもし彼女が、二人目のグラニアとなって彼に|縄《すが》り付いてくるのなら──そのとき自分は、女の想いを振り払うことができるのだろうか?  これは悲運を|順《あがな》うはずの戦いなのだ。なればこそ、悲運を繰り返すことだけは決してしたくない。  だが、どうすれば──?  静寂の夜の闇の中、答えを見出す術すらもなく、ランサーはただ悶々と月を見上げるしか他になかった。 [#改ページ]   -108:27:55  打ち寄せる波の音。  浜辺は程なく夜が明けるのか、辺りを照らす灰かな光は、柔らかな|霧《もや》を白く|霞《かず》ませるだけだ。  砂浜は右にも左にも、ただ限りなく続いている。海面は白い霜に包まれ、その果ては見渡せない。覆い隠された景色は、対岸の陸地なのか、遙か彼方の水平線なのか──それとも、そこには|何《・》|も《・》|な《・》|い《・》のか。  寄せては返す波の音のほかは、まったくの静寂だ。  空に雲はなく、地に風はなく、いかなる人の営みも、この浜辺からは遙かに遠い。  進み続けて、ただ東へと進み続けて、この世の|森羅万象《しんらはんしょう》をすべて遠く西に置き去りにして──そうしてようやっと辿り着く、何もない|寂箪《せきばく》の海岸。  だからきっと、あの需の向こうには|何《・》|も《・》|な《・》|い《・》。  これより先に世界は無く、さらなる遠征も有り得ない、ここは──この世の果ての海。  ただ目を閉ざし、波の音を聞く。  それは世界を極め尽くした者のみに許される、遙かなる潮騒の|旋律《しらべ》── 「──」  机に突っ伏したまま、うたた寝をしていたらしい。  無理な姿勢のせいで肩が強張り、痺れるような痛みに咄-きながらも、ウェイバーは顔を起こした。  何だか奇妙な夢を見ていた気がする。まるで身に覚えのない、それでいて妙にはっきりとした、まるで他人の記憶を覗き見でもしているかのような夢だった。  もう外は日が暮れている。ずいぶん長々と居眠りに浪費してしまったようだ。自分の迂闊さに舌打ちする。今は時間ほど貴重なものはないというのに。  全てのマスターが先を争ってキャスターの首級を狙っている。誰よりも早く成し遂げた者には報償として令呪の追加……これを逃す手などあろう筈もない。わけても暴れ馬も同然のイスカンダルをサーヴァントとするウェイバーにとっては、令呪の強制命令権こそが頼みの綱と言っても良かった。どうあっても他のマスターには譲れない。  相手がどんな英霊であるにせよ、キャスターのクラスであれば、権謀術数にものを言わせるサーヴァントであるに違いない。これに無策のまま真っ向から挑みかかっていけるのは、強力な対魔力スキルを誇るセイバーのクラスぐらいのものだ。三騎士クラスから外れるライダーは、原則として奇謀には奇謀をもって対するしかない。実際、イスカンダルの対魔力能力は判定にしてDレベル相当……気休め程度の防備でしかない。  よってキャスターに対する最善の対処は、上手くセイバーと当たるように仕向けて脱落を待つことなのだが、それでは|折角《せっかく》の追加令呪を逃すことになる。セイバーに同盟を申し入れてキャスター狩りに協力させるというのも、下策だ。後々の聖杯戦争を有利に戦い進もうと思うなら、ここで他の連中を出し抜いておかねば意味がない。  冬木教会での告知から一昼夜。とりあえず思いついた調査のためにライダーを差し向け、ウェイバー自身はこうして戦略を練るつもりで家に居残っていたのだが……悩み抜いた挙げ句が居眠りとあっては、あの|不遜《ふそん》なサーヴァントにどんな皮肉を言われることやら。  いや、ただの皮肉だけで済めばまだいいが──もう何度くらったか知れないデコピンの痛みを思い出し、ウェイバーは思わず額を押さえていた。あれは、もう嫌だ。そのうち|頭蓋骨《ずがいこつ》に|罅《ひび》でも入るんじゃあるまいか。  そんなことを考えているうちに、廊下の階段をすたすたと上がってくる足音を聞き答め、ウェイバーは身を固くした。そういえば、そろそろ夕飯の|支度《したく》を終えた老夫人がウェイバーを呼びに来る頃合いである。今この時点で室内に見られて|拙《まず》いような物品は──とりあえず、ない。  慎ましいノックの後で、呼びかけてきた夫人の声は、だがウェイバーが予期していた用件とは全く違った。 「ウェイバーちゃん、アレクセイさんがお着きになられたわよ」 「──はあ?」  誰? と聞き返しかかってから、ウェイバーの脳裏に不穏きわまりない直感が閃いた。  アレクセ……ALEX……ANDER?  まさか、と思ったその途端、階下の居間からガハハと豪笑する野太い声が湧き起こる。 「……ちょっと待てぇぇぇッ?」  血相を変えて部屋から飛び出たウェイバーは、呆気にとられる夫人に一瞥もくれることなく、半ば転がり落ちるようにして階段を駆け下り、夕飯支度の始まっているダイニングキッチンへと飛び込んだ。  テレビでは毎夜のバラエティ。前菜をつまみにビールを|嗜《たしな》むグレン老人。いつもの夕餉の光景に、あまりにも巨大な異物が、約一名。  客用の|椅子《いす》に危ういバランスで|巨躯《きょく》を乗せたまま、サーヴァントは「よお」と気安くウェイバーに片手を上げて、それからコップに注がれたビールをぐびぐびと飲み干した。 「いやぁ、気持ちのいい呑みっぷりですなぁ」  瓶を持って二杯目を進めるグレン氏は、久々の酒飲み相手を得て心底|嬉《うれ》しそうである。 「うちのウェイバーも、イギリスから戻る頃には酒のひとつも覚えてくるかと期待しとったんですがなあ。まだまだてんで駄目でして。つまらん思いをしておったのですよ」 「ハハハ、彼は遊びを知らんですからなあ。人生楽しんだヤツが勝ちだと、つねつね言い聞かせとるんですが」  |和《なご》やかに談笑する老人と征服王。もはや悪い冗談としか思えない光景に、ウェイバーは言葉も出ない。  そこへ、後からキッチンに戻ってきた夫人が、困り顔でウェイバーの肩を小突いた。 「もう、駄目じゃない。お客さんがいらっしゃるなら、もっと早くに教えてくれなきゃ。判ってたらもっとごちそうの準備ができたのに」 「……ぃゃ、ぇぇ……?」  当惑顔のウェイバーを余所に、ライダーはにこやかにかぶりを振る。 「いやいや奥さん、お構いなく。気取らぬ家庭の味こそが極上のもてなしであります故」 「まぁまぁ、お世辞がお上手だこと」  おほほ、と笑う夫人もまた、完全にライダーの陽気なペースに巻き込まれている。むしろこの場の空気が読めずに固まっているのは、ウェイバー一人であるらしい。 「ご存じの通り、うちのウェイバーは、まぁ、あんな気性なものですからね。イギリスの学校で|上手《 つま》くやっていけたのか心配でならなかったのですが。あなたのような頼もしいお方と|知己《ちき》を得ていたのなら、まったく取り越し苦労でしたなぁ」 「いやいや。私の方こそ世話になっとったのですよ。ほれこのズボンも、彼が見立てて買ってくれたのです。どうです格好良いでしょう!」  外回りの用件を任せるにあたって、結局ウェイバーが買い与える羽目になったXLサイズのウォッシュジーンズを、ライダーはさも自慢げにひけらかす。一体どういう綱渡りで両者の会話が成り立っているのか疑問だが、ともかくウェイバーは、マッケンジー夫妻が了解するところの『アレクセイさん』の人物像を、ようやく了解しつつあった。  魔術で暗示をかけられた老夫妻にとって、ウェイバーはイギリスに留学していた孫という設定なわけだが、ライダーはさらにその渡航先での友人という触れ込みで、堂々とマッケンジー宅を来訪し、こうして夕飯の食卓に居座っているという次第のようだ。  あっさり信用してしまう老夫妻もどうかとは思うが、それを信用させてしまうライダーの器量もまた桁外れということか。今日までこのサーヴァントの存在を隠し通すために薄氷を踏んで歩くような思いを続けてきたウェイバーは、|朗《ほが》らかに談笑する三人の様子に、怒りも呆れも通り越してただひたすら脱力するばかりであった。 「アレクセイさんは、いつまで日本におられるご予定で?」 「ええ、まぁちょっとした野暮用が片付くまで、一週間かそこいらってところですかな」 「もし良かったら、ねぇ、我が家に滞在なさってはどうですか? あいにく手狭なもので客間の用意はないのですが、ウェイバーの部屋なら、|布団《ふとん》を敷けばあと一人は寝られるでしょう。なあウェイバー?」 「……」 「フトン? おお、この国の寝具ですな! ぜひ|堪能《たんのう》したい!」 「ハハハ、ベッドではなく床に寝るというのは、慣れないうちは奇妙なものでしてね。私たちも日本は長いが、初めのうちは驚かされることばかりですよ」 「それが異国の|醍醐味《だいごみ》というものでしょうな。未知なる驚きこそ我が歓喜。いつの時代もアジアは余を楽しませてやまない!」  ついつい一人称に地が出ても、グレン老は気付いた風もなく笑顔で頷いている。 「さあさあ、そろそろ御飯も炊けますからね。ウェイバーちゃんも席についてちょうだい」  老夫人に急き立てられて、ウェイバーは|情然《しょうぜん》と自分の椅子に腰掛ける。もうとっくに座り慣れていたはずの席が、今夜はどうしようもなく座り心地が悪い。  タ食は普段とうって変わって、半ば宴会も同然の|賑《にぎ》わいを見せたが、結局ウェイバーは終始無言であった。|揮《はばか》りなく大笑するライダーの隣にいては、口に運ぶ料理の味すらも判然としなかった。 「──で、結局、オマエは何がしたかったわけ?」  夕食を終えて、家主から借りた布団一式を小脇に抱えたライダーが改めて部屋に戻って来ると、ウェイバーは開口一番にそうサーヴァントを問い質した。 「何って……いや普通に玄関から入ろうと思ったらだな、ああでもして言い抜けなきゃ仕方ないだろう」 「出入りのときは! 霊体化しろって! 散ッ々ッ言い聞かせておいただろうがあッ!!」  痴癩のあまり半泣きになるウェイバーに対し、むしろライダーは撫然となる。 「だって霊体化したらコレを持ち込むことができんだろうが」  そう言って巨漢が掲げて示したのは、旅の手荷物という名目で部屋まで持ってきた小振りなスポーツバックである。 「何だか知らんが、ともかくコイツを持ち帰るのが今日の余の務めだったわけだろう?そのために晴れてズボンも手に入れたのだ。そもそも命じたのは坊主、貴様ではないか」 「だから──ッ……ンなもんはこっそり軒先にでも置いてくれば、後でボクが拾いに行けばそれで済んだんだよ!」 「だったらそれこそ、堂々と玄関から入る口実を|見繕《みつく》えば済むことではないか。──っつうか、そもそもこれは一体何なのだ?」  いまひとつ釈然としない面持ちでライダーが差し出すバッグを受け取り、ウェイバーは中身を改めた。  コルクで栓をされた試験管が、全部で二四本。手書きのアルファベットでラベル分けされたそれらの容器には、いずれも無色透明な液体が封入されている。 「せっかくズボンを履いたからには、もうちっと華やいだ場所を散策したかったのに──なんで征服王たる余が、|鄙《ひな》びた川ッ縁で水汲みなんぞせにゃならなかったのだ?」 「|煎餅瑠《ぜんぺいかじ》ってビデオ観てるよりはよっぽど有意義だからだよ」  ウェイバーは手早く机の上を片付けると、ロンドンの学生寮からこれだけは大事に持ってきた実験道具の一式を荷物から引っ張り出し、作業の準備を整える。  鉱石や試薬の入った様々な薬瓶、アルコールランプに乳鉢、スポイト……次々と卓上に整列していく珍奇な器具に、征服王は眉をひそめた。 「何だ? 今から錬金術の真似事でも始めようというのか?」 「真似事じゃなくて錬金術そのものだ。|馬鹿《ばか》」  撫然と返しながら、ウェイバーはライダーが持ち帰った試験管の束を、ラベル順にチューブラックに並べていく。それから目的に添った試薬を選定し、配合。時計塔の基礎学科でさんざん繰り返しやらされてきたことだ。分量は目を|瞑《つむ》っていても間違えない。 「念のため確認しとくけど、確かに地図に書いた場所を間違えてないだろうな?」 「余を舐めとるのか坊主? この程度のことで何をしくじれというのだ」  ぼやいて、ライダーは折り畳んだ地図をウェイバーに放り渡した。冬木市の全図。それも|未遠《みおん》川に沿って河口から上流まで、ほぼ一定の間隔でアルファベットを書き込んである。  地図の表記は、ライダーが持ち帰った試験管のラベルに符号する。中身の液体は、それぞれ所定の位置から汲み取ってきた未遠川の水だった。どうしても実体化したまま外出したがるライダーに対し、ウェイバーは衣服を買い与える条件として、とりあえず河水の回収を命じておいたのだ。果たして役に立つかどうかはさておき、ただ益体もない散歩などされるよりは、まだしも有用な任務と思えたからだ。 �……何やってんだかな、ボクは�  黙々と試薬の準備を進めていると、まるで時計塔の初等部に戻ったかのようで、ウェイバーは何とも不愉快だった。サーヴァントのマスターとして華々しく聖杯戦争を戦っているはずの自分が、どうしてまたこんな地味で面白味もない単純作業を繰り返しているのだろうか。  憂鬱の溜息をつきながら、配合の終わった試薬をスポイトに汲んで、まずは『A』のラベルの試験管からコルクを抜き、中に一滴を落とし込む。 「……うわ」  反応は、予想を上回って|朗面《てきめん》だった。無色透明だったはずの水が、いきなり|赤錆色《あかさびいろ》に濁る。 「体それは何なのだ?」  てっきりビデオ鑑賞の続きでも始めるのかと思いきや、ライダーは興味津々の面持ちで、ウェイバーの肩越しに実験の様子を見守っていた。説明するのも|億劫《おっくう》だったが、さらなる質問攻めで作業を邪魔されるのも願い下げなだけに、ウェイバーは無視せず答えることにした。 「術式残留物の痕跡だ。水の中にあった魔術の|名残《なごり》さ」  Aのラベルは、即ちほとんど海に隣接する河口の地点である。そんな位置からこれだけの反応が出るというのは明らかに異状だ。 「川の上流──といってもかなり河口に近い位置で、誰かが魔術を執り行ってたってことだよ。これを遡っていけば、その場所を掴む手がかりになるかもしれない」 「……坊主、あの川の水にそんなものが混じっていると最初から気付いてたのか?」 「まさか。でもせっかく街のど真ん中に流水がある土地なんだ。まずは水から調べるのが当然だろ」  魔術師の所在を突き止める上で、もっとも容易いのは�水�の属性だ。水というものは絶対原則として�高所から低所に注ぐ�のである。風向きを計算したり地脈を読んだりする手間に比べれば、水脈の最下流を探すのは何の苦もない。それが河川のある土地ともなれば尚のことである。  他にも数ある探査法のうち、まずは一番簡単なものから始めようと思ったまでのことだったのだが……どうやらウェイバーは早くも�当たり�を引き当てたらしい。ひとまずは運が味方したと言っていいだろう。  B、C、D……と手早く順繰りに、試験管の河水に試薬を垂らしていく。上流へ向かうに従い、反応はますます濃くなっていった。冗談のような露骨さに、ウェイバーは驚きを通り越して呆れかえる。これはもう、誰かが川の真ん中に工房を敷設し、何の用心もなく直に排水を垂れ流しているとしか思えない。そんな魔術師は三流を通り越してただの阿呆でしかないが──いるのだ。そういう阿呆が。今朝方に呼び出された冬木教会で、ウェイバーは監督役の神父から事情を聞いている。 �でも、こんな手段で突き止めたって……自慢にもなりゃしない�  知略を尽くして敵の裏をかき、互いの奇跡を競い合う──それがウェイバーの想像していた�魔術勝負�というものだった。こんな、まるで警察の鑑識のような地道な調査によって事を進めていくのは、才能のなぇ人のやることだ。手応えのある成果を掴みつつあるとはいえ、それでもウェイバーの心中では屈辱めいた後味の悪さが残った。 『P』のラベルの試験管の反応は、もはや|墨汁《ぼくじゅり》のような有様だった。これ以上濃くなった としたら、もう今の簡易な分析では手に負えない。  果たしてどうなることかと、『Q』の試験管に試薬を落とす。 「……」  水は澄んだままだった。いくら振っても、何の反応も起こらない。  ウェイバーは改めて地図を拡げ、PとQの書き込みを指差した。 「ライダー、ここと、ここの間に何かあったか? 排水溝とか、用水路の注ぎ口とか」 「おう、一際ばかでかいのが一つあったが」 「それだ。そいつを遡っていった先に、たぶんキャスターの工房がある」 「……」  ライダーは何やら妙に生真面目な顔で、しげしげとウェイバーを見つめていた。 「おい、坊主──もしかして貴様、えらく優秀な魔術師なんじゃないのか?」  あまりにも心外な言葉だっただけに、ウェイバーにはそれが皮肉にしか聞こえず、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。 「こんなのは優秀な魔術師の手段じゃない。方法としては下の下だ。オマエ、ボクを馬鹿にしてるだろ」 「何を言うか。下策をもって上首尾に至ったなら、上策から始めるよりも数段勝る偉業ではないか。誇るが良いそ。余もサーヴァントとして鼻が高い」  剛胆に笑って、ライダーは矯躯のマスターの肩を叩く。ますます腹が立ったウェイバーは言い返そうとしたものの、このサーヴァントに魔術の深奥の何たるかについて説教したところでまったくの無駄だろうと思い至り、押し黙ってやりすごした。 「よオし。居所さえ掴めりゃこっちのもんだ。なあ坊主、さっそく殴り込むとするか」 「待てこら。敵はキャスターだっての。いきなり攻め込む馬鹿がいるかよ」  魔術師にとって、工房の|敷設《しせつ》こそは、その身に修めた魔道の集大成と言っていい。よって工房の攻略とは、その魔術師の持ち合わす力と技術と知略の全てに対して真っ向から挑戦することを意味する。  とりわけ、魔道の雄たるキャスターのサーヴァントは、クラス特典として『陣地作製』の能力が増幅される。いかなる地形条件においても最善の効果を発揮する工房を最短期間で形成できるこのスキルがある限り、こと防戦においては七サーヴァント中最強のアドバンテージを誇るのがキャスターだ。よって、その工房に対して真正面からの強行突破を試みるなどという暴挙は、たとえキャスターの天敵たるセイバーのクラスであろうとも、自殺行為も同然である。  その程度の道理はライダーとて弁えているはずなのだが、それでも巨漢のサーヴァントはまったく|勘酌《しんしゃく》する気がないらしい。いつのまにやらキュプリオトの剣を実体化させて、鞘込めのままトントンと肩を叩いてにやついている。 「あのな、戦において陣というのは刻一刻と位置を変えていくもんだ。位置を掴んだ敵は速やかに叩かねば、取り逃がした後で後悔しても遅いのだ」 「……オマエ、なんでまた今日はそんなにやる気なんだ?」 「当然よ。我がマスターがようやっと功績らしい成果を見せたのだ。ならば余もまた敵の首級を持ち帰って報いるのが、サーヴァントとしての心意気というものだ」 「……」  そんなこそばゆい言われ方をすると、ウェイバーもどう|反駁《はんばく》していいのか言葉に詰まる。 その沈黙を承諾と見て取ったのか、ライダーは豪放に笑ってマスターの細い肩をどやしつけながら頷いた。 「そう|初《しょ》っ|端《ぱな》から諦めてかかるでない。とりあえずブチ当たるだけ当たってみようではないか。案外何とかなるもんかもしれんぞ?」 「……」  かつて征服王の幕下の将兵たちも、こんな調子でアジアの東の果てまで引っ張り回されてしまったのだろうか。それを思うとウェイバーは、古代の兵たちに同情を禁じ得なかった。 [#改ページ]   -106:08:19  ──結果として、何とかなってしまった。  ウェイバーが当たりをつけた下水管の奥は、果たして人外の魔境であった。無数の触手を備えたおびただしい数の|水棲《ずいぜい》怪魔が、狭いトンネルにひしめき合うようにして居座り、哀れな侵入者を絞め殺そうと待ち構えていたのである。  無論、そんなおぞましい光景を目の当たりにした上でも、征服王イスカンダルの処方はただ一つしか有り得ない。 「|AAAALaLaLaLaLaie《アァァァララララライッ》!!」  下水管を我が物顔で|躁躍《じゅうりん》する『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』の暴走は、さながら雷撃を|纏《まと》う掘削機であった。踏み潰され、焼き払われ、|礫《ひ》き|千切《ちぎ》られて飛び散る怪魔たちの体液と肉片は霧のように濃密にトンネルの中に充満し、便乗するウェイバーには前後の見通しも利かない有様だった。  ライダーとともに乗る御者台が防護力場に覆われていなければ、きっと呼吸すらままな らず、満ち溢れる怪魔の|血飛沫《ちしぶき》で窒息させられていたことだろう。それでもさらにウェイバーは、自身の気管を魔術防壁で保護し、さらには|嗅覚《しゅうかく》を遮断しておく必要があった。そうでもしなければ濃密すぎる臓物臭で卒倒しそうだったからだ。  一体どんな複雑怪奇な防御陣で出迎えられるかと思いきや──今回のキャスターが居城としていた下水道には、ただひたすら膨大な数の使い魔が|轟《ひし》めくほどに配置されていただけで、それ以外の魔術的な偽装やトラップはまったくの皆無であった。魔術師としての基準に照らして言うなら、こんなものは工房でも何でもない。ただ衛兵を配置して守りを固めたというだけの、何の変哲もない�籠城�だ。  そして雑兵の数だけを頼りとする防備など、対軍宝具を備えたサーヴァントにとっては格好の|餌食《えじき》でしかない。ライダーからしてみれば|拍子抜《ひようしぬ》けするほどに手応えのない展開である。 「なあおい坊主、魔術師の工房攻めってのは、こんなにも他愛ないもんか?」 「……いや変だ。今回のキャスターは、正しい意味での魔術師じゃないのかも」 「ああん? そりゃどういう意味だ?」 「たとえば──生前の伝承に、悪魔を呼んだとか、魔道書の類を持ってたとか、そういう逸話が語り継がれているだけで、べつだん本人が魔術師として知れ渡っていたわけじゃない英霊だとしたら、たとえキャスターとして現界しても、その能力は限定的なものになるんじゃないかな」  |礫殺《れきさつ》される怪魔たちの絶叫に身を疎ませていたのは最初の数分ぐらいなもので、ウェイバーも今ではもう、騒々しい虐殺の音に負けじと大声を張り上げながら、そんな呑気な分析を述べ立てられるほどに神経が麻痺していた。 「大体、これが本格的な工房だとしたら、ああも無防備に廃棄物を垂れ流してたのは変だ。 まともな魔術師だったら、あんな失態は有り得ない」 「ふ──ん、そんなもんかい。……んん? そろそろ終着点か?」  行く手を阻もうと立ち塞がっては虚しく粉砕されていく怪魔たちの肉の壁が、いつしか密度を減じていた。やがて何の前触れもなく、戦車は血飛沫の潜行から解放されて広い空間に躍り出る。相変わらず周囲は一切の光源のない闇で、空気の流れも皆無だが、狭く閉ざされた空間ならではの圧迫感は感じない。 「──ふん、|生憎《あいにく》キャスターめは不在のようだな」  完全な闇の中でもサーヴァントの視力には何の問題もないのか、ライダーがうっそりと咳いた。ただ敵を逃した、というだけの落胆にしては妙に低すぎる声音に、だがこのときウェイバーはまだ気付かなかった。 「貯水槽か何かか? ここ……」  手明かりが欲しいところだったが、万が一、この闇の中に伏兵がいた場合には、みすみすこちらの位置を知らせるようなものだ。ここは魔術師の|嗜《たしな》みとして、視覚を強化し闇を見透かすのがいい。 「……あ──、坊主。こりゃ見ないでおいた方がいいと思うぞ」  豪放なライダーにしては珍しい、何やら歯に物の挟まったかのような言い分に、当然ながらウェイバーは憔然となった。 「何言ってんだよ! キャスターがいないなら、せめて居場所の手掛かりぐらい探し出さなきゃ始まらないだろ!」 「そりゃそうかもしれんが止めとけ。坊主、こいつは貴様の手にゃ余る」 「うるさい!」  尚のことムキになり、ウェイバーは戦車の御者台から降りて床に立つと、暗視の術を発動させた。途端に霧が晴れるように視野が開け、闇に覆い隠されていた光景がつまびらかになる。  辺りの状況を理解するまで、ウェイバーは、ここに至るまでの下水道の戦いで嗅覚を遮断したままだったのを忘れていた。床に降りたとき、靴底がピチャリと鳴らした水音も、ただの汚水のせいだとばかり思っていた。 「…な、ッ──」  ウェイバー・ベルベットは魔術師である。その倫理は条理の外にあり、心胆には、あらゆる怪異を直視する覚悟を決めている。  いま自らが参加する聖杯戦争という儀式が、残虐無比の殺し合いであり、そこに甘い感傷を交える余地など微塵もないことも理解している。屍山血河を積み上げてなお良しと観念しなければ、勝ち残る望みなどありはしないことも。  だからウェイバーは、たとえどんな不意打ちで�死�を目の当たりにしようとも、決して動揺するまいと決めていた。この冬木は戦場なのだから、死体など目について当然だ。  たとえその数が膨大であろうとも、その形が人体としての意味合いを喪うほどに破壊されていようとも──死体はあくまで、ただの死体だ。その酸鼻さと惨さに眉を整めこそすれ、許容しきれないことはない。  そう思っていた。今この瞬間までは。  ウェイバーの想像力の限度では、あくまで死体とは人体の残骸であり、破壊の果てにあるモノでしかなかったのだ。だが今、彼が目の当たりにした光景は、それより先の領域にあった。  喩えるなら、そこはさながら雑貨店の様相だった。  家具がある。衣料品がある。楽器があり食器がある。用途すら判らぬ諸々は、ただの絵画やオブジェなのかもしれないゆいずれも丹念に意匠を凝らし、|放埓《ほうらつ》な遊び心と感性を存分に尽くした制作者の情熱が見て取れる。  これらを手がけた職人は、その素材、その作業の工程を、きっと愛してやまなかったに違いない。  暴力に快楽を見出す者がいるのは解る。それが高じて殺人を犯す者もいるだろう。だがこの血みどろの空間にある死体は違う。  ここには『破壊された残骸』など一つもない。すべてが創作物であり、芸術だ。ヒトとしての生命、ヒトとしての形骸は、その工芸の過程において無意味とされ切り捨てられた──それが、ここで起きた殺獄のすべてだ。  こんなにも創意工夫に興じた殺害、死を以て創作と為すという行為は、ウェイバーの精神の許容量を超えていた。恐怖や嫌悪などという生易しい感情よりも、もっと生々しく由々しい衝撃で、彼は真っ直ぐに立っていることすら出来なくなった。気がつけば血まみれの床に両手両膝をつき、胃の中身をありったけ逆流させていた。  ライダーは戦車を降りて、そんなウェイバーの傍らに立つと、深々と嘆息した。 「だから、なぁ。止めとけと言ったであろうが」 「うるさいッ!」  巨漢のサーヴァントがぼそりと漏らした咳きに──|挫《くじ》けかかっていた心の中で、最後の|衿持《きようじ》の欠片が火花を散らす。  湧き起こった激しい怒りには、何の理由も脈絡もなかった。ここに膝を屈した自分の弱さが憎かった。こんな弱さを、よりにもよって、自分のサーヴァントの前で晒してしまったことが、どうしようもなく悔しくて屈辱だった。 「畜生──馬鹿にしやがって──畜生ッ!」 「意地の張りどころが違うわ。馬鹿者」  そう溜息とともに吐き捨てたライダーの言葉は、なのに、どういうわけか呆れるでも讐めるでもなく、むしろ静かに諭すかのような口調に聞こえた。 「いいんだよ、それで。こんなモノ見せられて眉一つ動かさぬ奴がいたら、余がプン殴っておるわい。  むしろ貴様の判断を|讃《たた》えるぞ、坊主。キャスターとそのマスターを真っ先に仕留めるという方針は�良し�だ。成る程、こういう連中とあっては、一分一秒生き長らえさせておくのも胸糞悪い」 「……ッ」  そこをライダーに評価されても、ウェイバーとしては、とても素直には喜べない。彼がキャスターを標的としているのは、ひとえに監督役が提示した追加令呪の報償が目当てなのだから。勿論、そんな事情はライダーには明かしていない。自らを束縛する令呪が|徒《いたずら》に増えることを喜ぶサーヴァントなどいるわけがないからだ。  ここでライダーが口にした言葉のどれを取っても、ウェイバーに対する悪意があったものは一つとしてない。だがそれでもウェイバーは、聾え立つサーヴァントの存在がどうしようもなく憎くて疎ましかった。  普段はマスターを敬う素振りすら見せず、それどころか小馬鹿にした態度ばかり。それだけならば、まだいい。だがよりにもよって許せないのは──ごく稀にウェイバーを褒めようとするくせに、そんな時に限ってこの大男はどうしようもなく見当違いな誤解をしているという点だ。 「何が……プン殴る、だよ! 馬鹿ッ! オマエだって、今……全然平気な顔して突っ立ってるじゃないか! ブザマなのはボクだけじゃないか!」  嘔吐にえづいて涙しながらも、精一杯の怒鳴り声でウェイバーが噛みつくと、ライダーはさも困った風に口をへの字に曲げた。 「余はなぁ、だっておい、今は気を張っててそれどころじゃないわい。  なんせ余のマスターが殺されかかってるんだからな」 「──へ?」  ウェイバーが耳を疑う暇もあらばこそ、続くライダーの行動は電光石火の早業だった。  腰の鞘から抜き払いざまに振り上げたキュプリオトの剣が、虚空で激しい火花を散らす。 直後、巨躯に似合わぬ猛禽のような素早さで疾駆しながら、ライダーは返す刀で闇の一画を斬りつけた。  肉を切り裂く濡れた音。断末魔の絶叫と血飛沫の紅蓮。  どうと倒れる黒衣の|骸《しくろ》を、ウェイバーは信じられない想いで凝視した。  襲撃者は、一体いつのまにウェイバーの背後に忍び寄り──そしていつからライダーはその気配を察知していたのか。最初にライダーの剣が打ち落としたのは、黒衣の影がウェイバーを狙って投げ放った|短刀《ダーク》の刃であり、その投梛の飛来を以て、ようやくライダーは敵の正確な位置を見定めたのだろう。まったくウェイバーの慮外のうちに、この血塗られた貯水槽は既に戦場へと転じていたのだ。  だが何にも増してウェイバーを瞠目させたのは、ライダーの斬撃に倒れ伏したその黒い影が、白い燭縢の仮面を被っていたことだった。 「アサシン……そんな、馬鹿な?」  有り得ない怪異である。その暗殺のサーヴァントが艶され、消滅するさまを、かつてウェイバーは使い魔の目を通してはっきりと見届けていたのだから。 「驚いてる場合じゃないそ、坊主」  油断なく剣を構えたまま、ライダーが静かに諌める。ウェイバーを庇って立ちはだかる彼と対峙するかのように、闇の中からさらに二つ、燭腰の仮面が亡霊のように浮かび上がる。 「どどど、どうして……何でアサシンが四人もいるんだ!?」 「何故もへったくれもこのさい関係なかろうて」  あからさまな異常事態を前にしても、ライダーの態度は至極落ち着き払ったものだった。 事の成り行きを怪しむよりも、彼にとっては今この局面だけが関心事の全てなのだろう。 「一つ、確かに言えることは──コイツらが死んだと思い込んでた連中は、残らず|謀《たばか》られてた、ってことだわなぁ」  ウェイバーはともあれ、彼を守るライダーには微塵の動揺も隙もない。それを見て取った二人のアサシンは、内心で痛恨の舌打ちをしていた。  事実、この展開は彼ら暗殺者たちにとって言い訳の余地のない失態だったのだ。  キャスターとそのマスターである龍之介を監視するべく配置されていたアサシンたちのうち、両名が出払った後も居残って、引き続き外から工房を見張っていたのがこの三人だった。  可能であれば留守中の工房の中に忍び込んで探りを入れたかったものの、キャスターの陣地とあってはどんな備えがあるか知れたものではなく慎重にならざるを得ない。だがそこへ現れたライダーたちが、馬鹿正直に真っ正面から突撃を仕掛けるのを見届けて、三人はこれを好機と踏んだ。ライダーが切り開いた突破口を密かに後から追跡し、あわよくば工房の防備状況を見極めようと企んだのだ。  ところが、よりにもよってライダーは易々と工房の内部にまで到達し、期せずしてアサシンたちもキャスターの居城への侵入を果たしてしまった。思わぬ展開に気を良くしたアサシンたちの、うち一人が欲に取り葱かれたのである。あまりにも無防備なライダーのマスターを前にして、功に逸る心を抑えきれなくなったのだ。  無論、彼らのマスターである綺礼の指示を明らかに逸した行動である。だがそれでも、ここで首尾良くライダーを排除することが出来たなら、叱責のあろう筈もない。そのぐらいアサシンにとって状況は魅惑的すぎた。  結局、三人は申し合わせて思い切った|博打《ばくち》に訴え──果たして見事に失態を呈したのである。  生き残った二人のアサシンは、慎重にライダーの出方を見計らいながらも、互いに視線で意志を問い合った。今ここでライダーを前にして、なおも二対一の勝負を続行するか否か……  両者とも、思い悩むまでもなく答えは一つだった。奇襲に失敗した時点で、既に勝機は逸している。自分たちとライダーの力量差を見量るに、たかだか二人がかりでは万に一つも勝ち目はない。業腹ではあったが、ここは撤退して綺礼の叱責に甘んじた方が、ただ斬り伏せられるよりは余程ましである。  そうと互いに了解するや否や、二人のアサシンは速やかに霊体化し、ライダーの前から姿を消した。 「逃げた──のか?」  安堵しかかるウェイバーを、「否」とライダーが戒める。 「二人死んでも、なおまだ二人──この調子じゃ、一体何人のアサシンが出てくるやら知れたもんじゃない。ここは、拙い。ヤツら好みの環境だ。さっさと退散するに限る」  剣の構えを解きこそしたものの、依然、刃は抜き身のまま鞘に戻さず、ライダーは顎をしゃくって戦車を示した。 「坊主、余の戦車に戻れ。いざ走りだせば連中とて手出しはできん」 「ここは……このまま放っとくのか?」  未だ直視するのも気が引ける工房の中を示して、ウェイバーが沈響な声で問う。 「調べりゃ何か判るかもしれんのだろうが……諦めろ。とりあえずブチ壊せるだけは壊していくさ。それはそれでキャスタ;の足を引っ張る戦果にはなる」  工房の外で怪魔の対軍を躁躍したときとはうって変わって、ライダーは慎重だった。異形の魔獣が雪崩を打って押し寄せようと歯牙にもかけぬ彼ではあったが、見えざるままに忍び寄る暗殺者の影は、むしろ脅威の度合いとしては遙かに深刻なのだろう。 「生き残りは──」  掠れた声でウェイバーが言いさすと、ライダーは闇を見通す視線でじっくりと周囲を見渡してから、昏い面持ちでかぶりを振った。 「まだ息がある奴なら何人かいるが……あの有様じゃ、殺してやった方が情けってもんだ」  彼が闇の奥に何を見出したのか、ウェイバーは敢えて問いただそうとは思わなかった。  二人は再び戦車の御者台に乗り込んだ。ライダーが手綱を取ると、猛れる牡牛は憤然と噺いて闇の中に雷気を|送《ほごばし》らせる。 「狭苦しい処を済まんがな、ひとつ念入りに頼むぞゼウスの|仔《こ》らよ。灰も残さず焼き尽くせ!」  ライダーの叱咤とともに神牛は|蹄《ひづめ》を鳴らし、猛然と円を描いて血染めの工房の中を周回する。空をも焦がす雷撃の蹄に踏み散らされれば、後に残るのは|完膚無《かんぶな》き破壊のみだ。キャスターと龍之介が愛蔵していた悪夢の工芸品は、一瞬のうちに跡形もなく一掃された。さらに二巡、三巡と戦車が轍を重ねる頃には、広い貯水槽の内部には、焼け焦げた脂の悪臭以外には何一つ遺されていなかった。  徹底的な破壊の爪痕を見渡すウェイバーの眼差しは、だが依然として暗鬱だった。この程度のことでは何の解決にも至っていないというやるせない想いが、見習い魔術師の心に深く蠕ったままだった。  そんなウェイバーの頭を、ライダーが大きくいかつい手でぐりぐりと掴み撫でる。 「こうして根城をブッ潰されれば、キャスターは逃げも隠れもできん。後はふらふら表に迷い出てくるしかあるまいて。彼奴らに引導を渡すのも、そう遠い話じゃないさ」 「ちょ 判ったか、ら──やめろ! ソレ!」  |殊更《ことさら》に短躯を意識させられる屈辱的な扱いに、ウェイバーは憂い顔をかなぐり捨てて激昂した。ライダーは剛胆に笑いながら手綱を繰って、もときた下水道を駆け戻る。  狭いトンネルから未遠川の河面に脱し、夜空へと駆け上がるまで僅か数分。外の冷たく清浄な空気はなぜか久しぶりに味わうかのように懐かしく、安堵がようやっとウヱイバーの神経を和ませる。 「やれやれ、辛気くさい場所だったわい。──今夜はひとつ、盛大に飲み明かして轡憤を晴らしたいのう」 「……断っとくが、ボクはオマエの酒になんて付き合わないからな」  というか、飲めない。いつもライダーの一人酒を隣で眺めているだけで酒臭さに気分が悪くなる有様のウェイバーである。 「ふん、貴様のようなヒヨッコに|相伴《しょうばん》なんぞ期待しとらんわ。あ〜つまらん。どっかに余を心地よく酔わす|河岸《カシ》はないもんか……おお、そうだ!」  ぱむ、と心得顔で手を打ち鳴らすライダー。  ウェイバーは何の理由もないままに、とにかく途轍もないほど嫌な予感に駆られた。 [#改ページ]   -105:57:00  遠坂|凛《りん》には覚悟があった。  魔道の家系の後継者であること。尋常な少女とは異なる運命を歩むということ。  手本は常に身近にあった。彼女が知る中で誰よりも偉大な、素敵な、優しい大人。  彼女から見た時臣という父親は、あらゆる意味で完壁な人物だった。彼女と同年代の女の子が父親に|懐《なつ》くのは当然だとしても、凛は自分ほど深く父親に敬服と愛情を向けている娘はいないだろうと誇っている。  大人になったら歌手になりたい。素敵なお嫁さんになりたい。そう夢見るのが当然の年頃でありながら、凛の願いは違っていた。  職業など二の次だ。彼女は何よりもまず第一に、父のような立派な人物になりたいと願った。  それは即ち、父と同じ生き様を選び、父と同じ運命を受け入れるということ。即ち──遠坂という魔道の血脈を受け継ぐということ。  まだそれは決意というほど揺るぎないものではない。第一、師でもある父その人からの許しが要る。まだ父は凛に対して、自らの家督を託すことを匂わせるような言葉を一度として与えていない。そこにちょっぴり不安もある。もしかしたら父は自分に、魔術師の卵として充分な素養を認めていないのかもしれない。  だがそれでも、そうありたいという願いは常にあった。だから覚悟だけは人一倍だと自負してもいた。  もちろん、今この冬木市で起こっている出来事についても、凛は学校の同級生よりも遙かに多くを知っている。むろん父や母ほどの理解はないにせよ、それでも街にいる大方の大人たちよりも深く真に迫ったところを知っている。  父も含めた七人の魔術師たちが、戦争をしているということ。  今この街の夜の闇の中には、命さえ脅かすほどの怪異が|犇《ひし》めいているということ。  そして事情を知っているが故に、凛の心はいま責任感に苛まれていた。  昨日に続けて今日もまた、友達のコトネは学校に来なかった。  担任の先生は病欠だと言っていた。だがクラスに広まる噂は違う。  彼女の家に電話をしてみても、コトネの両親は凛を相手にしてくれない。  いま冬木市で相次ぐ児童誘拐事件は、ただの捜索活動で解決できるほど生易しい出来事ではない。おそらく警察に委ねたままでは、消えた子供たちは還ってくるまい。学校の先生も、コトネの親も、友達も、決してそうとは気付かない。ただ独り、凛だけが知っている。  コトネはいつでも凛に頼りきりだった。クラスの男子にいじめられた時も、図書館係の仕事を持て余したときも、彼女を助けるのは凛の役目だった。そんな風に多くのクラスメイトから頼られ、尊敬されるのが、凛にとってはささやかな誇りでもあった。『常に余裕を持って優雅たれ』──そんな父の家訓を実行する、またとないチャンスでもあったからだ。  今こうしている間にも、きっとコトネは凛の助けを待ちわびているはずだ。  本当なら一人前の魔術師である父に頼るのが筋だろう。だが父は他でもない『戦争』に参加する当事者の一人であり、先月から深山町の館に閉じこもったきりで、ここ数日は電話でお話することもできない。邪魔をしてはいけないと母からも厳命されている。  勿論、決して夜に出歩いてはならない、とも。  凛はいつでも両親の言いつけには忠実だった。だが、助けを求める友達を見捨てたこともなかった。  そして──眠れない夜を過ごすのは、どうあっても一晩が限度だった。  実際、このときの凛の理解はあまりにも中途半端で、幼すぎたといえよう。  それがただの義務感だの良心の呵責だのといった短絡的な理由では、決して踏み込んではならない領域だということに、彼女はまだ気付いていなかった。  結界に守られた遠坂邸に比べれば、禅城の屋敷から抜け出すのは造作もなかった。  寝室の窓を抜け出して、テラスの支柱にしがみつきながら庭に降り、あとは生け垣の下をくぐって裏門から塀の外へ。  脱走にはものの五分とかからなかった。だが戻るときには同じルートは使えない。テラスの支柱は滑り降りるには問題なくても、しがみついて登るには足がかりがなさすぎる。  今夜の無断外出はきっと隠し|果《おお》せないだろうし、そのときには両親から厳しく叱られることになるだろうが、凛は腹をくくっていた。決して恥ずべきことのために言いつけを破るのではない。彼女は誇り高き遠坂の一員として一人前でありたいからこそ、今こうして禁を破るのだ。戻るときには必ずコトネを連れ帰る。父も母も、どんなに怖い顔をしようとも、きっと心の奥では凛を褒めてくれるに違いない。  装備は三つ。  一番の頼みの綱は、この前の誕生日に父から送られたばかりの魔力針だ。形も構造も、傍目には手の平サイズの方位磁針としか見えないが、この針は北を指すのではなく、常により強い魔力を発している方角を示す。魔道器としては簡易極まりないものだが、凛はこれを使って、風の流れや潮の満ち引きでも微細な魔力の動きがあることを実習した。何らかの怪異が起こっている場所を探し当てるには、間違いなく役に立つ。  さらに、凛が宝石魔術の修行で課題として精製した水晶片が二つ。これまで作製してきた中でも、一番目と二番目に上出来なものを選んできた。|充填《じゅうてん》してある魔力を一気に開放すれば、たぶん──そんな危険な真似は一度もしたことはないが──ちょっとした爆発が起きるはずだ。いざというときは身を守る武器になってくれるに違いない。  これだけの装備品と、あとは持ち前の実力で、凛はコトネを探し出し、連れ帰る気でいた。  大丈夫かと問われれば平然と頷いただろう。  本当に大丈夫かと問われれば、ムキになって頷いただろう。  本当の本当に、絶対に間違いなく大丈夫かと聞かれたら──もしかしたら、あるいは、返答に窮したかもしれない。  そもそもそんな質問自体が、凛にとっては意地悪で意味のないものだった。そんなことよりもまず先に、コトネが大丈夫かどうかを問うべきなのだ、もし仮に、もう二度とコトネが学校に来ることがなかったら、それでも凛は大丈夫なのか、と。そんな質問であれば、何の迷いもなく即答できる。  持ち前の勇気とプライドをありったけかき集めれば、凛は並大抵のことで臆する子供ではなかった。胸の内に忍び込もうとした弱気の虫を追い払い、胸を張って足早に最寄りの駅を目指す。冬木の新都は隣駅だ。電車賃は手持ちの小銭で充分に足りる。          ×              ×  数週間ぶりに吸う、夜の冬木の空気。めっきり冬めいてきた刺すような冷たさが、火|照《て》った肌に心地よい。  終電までにコトネを探し出せるといいな、などと甘い希望を懐いたりもする。そうするとタイムリミットは二時間と少し。決して充分とはいえない。  ともかく、まずは新都の調査だ。深山町まで行ってしまうと魔力針は当然のように遠坂邸を指しっぱなしになるし、第一、父に見つかってしまう可能性もある。  大人の基準でいえば、まだ決して夜の遅い時間ということはない筈なのだが、それにしては街の人通りが奇妙なほどに少なかった。帰宅途中のサラリーマン風な人々は見るからに気忙しい。いかに平日の夜とはいえ、普段ならもう少しは夜の街を遊び歩いている人の波があるはずだ。  さっそく魔力針の蓋を開いて──凛は針の反応に途方に暮れた。 「……なにこれ?」  普段ならぼんやりと揺らぎながら震えているだけの針が、今夜はせわしなく渦を巻いて回転している。初めて見る反応だった。まるで怯えた小動物が錯乱しているかのような針の動きに、凛は薄気味悪くなる。  ともあれ、立ち止まっていても始まらない。すでに通り過ぎる大人たちの幾人かは、保護者同伴ではない凛のことを認しげに横目で見遣っていく。ともかく移動しなければ。  目抜き通りを外れると、人影はさらに減った。これが見慣れた冬木市の光景なのかと、凛は薄ら寒い違和感を懐く。  実のところ、冬木市の夜間は厳戒態勢が敷かれていた。立て続けに起こった猟奇殺人と誘拐事件、さらに一昨日には新都と港湾区で連続した爆破テロである。警察は市民に夜間外出の自粛を呼びかけ、賢明な一般人は素直にそれに従っていた。  もし仮に表立った警戒勧告がなかったとしても、夜歩きを厭わない市民は、決して多くなかっただろう。今の新都が、夜の闇の中に何か不穏なモノを孕んでいることは、勘の鋭い人間であれば本能的に察知できるはずだ。 �──あ、やばっ�  回転灯の赤い閃きを目に留めて、凛は咄嵯に裏路地の陰に身を潜めた。警濯中のパトカーが、ゆっくり徐行しながら目の前を通り過ぎていく。いま新都で夜道を一人歩きしている子供を見かけたら、警察は放っておくまい。そうなったらコトネを探し出すどころではない。  回転灯の光が見えなくなるまで遠ざかり、凛はようやく安堵の吐息を  がたん。  ──漏らそうとして、呑み込んだ。  物音は、いまいる路地の奥から聞こえた。たぶんバケツか何かがひっくり返った音。ゴミを漁っていた野良猫かもしれない。この先に誰かがいると、まだ決まったわけではない。  ふと手の中の魔力針を見下ろし、凛はふたたび息を呑んだ。  針はぴたりと静止している。まるで凍りついたかのように、路地の奥を指し示したまま動かない。  物音がした方角に、何かがある。あからさまな魔力を放つ異常なモノが。 「……」  これは、待ち望んでいた成果ではなかったか。  早くも捜索の手応えがあった。幸先の良いスタートではないか。凛はこれから新都の怪しい場所を片っ端から探して、そこにコトネがいないかどうか確認して歩かなければならないのだ。まずは最初の一ヶ所を、たった今、突き止めた。  さあ、路地の奥へと踏み込んで、そこに何があるのか確かめよう。 �嫌だ�  もしかしたらさっそくコトネの手掛かりがあるかもしれない。或いはそこにコトネ自身がいるかもしれない。 �絶対に嫌だ�  |躊躇《ためら》う理由はない。でなければここまで来た意味がない。凛は|意気地《いくじ》なしではない。友達を見捨てるようなこともしない。由緒ある遠坂の一員なのだから。立派に父の跡継ぎになれることを、勇気をもって証明しなければならないのだから。 �嫌だ嫌だ嫌だ絶対に嫌嫌嫌イヤいやぃゃぃゃぃゃ……�  湿った音がする。ピチャピチャと|舐《な》めるような這いずるような、路地の奥に潜む|何《・》|物《・》|か《・》の|息吹《いぶき》が。  いま凛は過たず理解していた。仲のいい親友との平和な日常を取り戻そうと、そう願って始めたこの探索は、決して望み通りの結末をもたらすことなどない、と。  この闇の奥にコトネはいない。  もし仮にいたとしたら、それはかつてコトネであったというだけの、何か別のモノだ。  今夜、新都の闇の中にコトネを探そうと思うなら、凛は最初からコトネの■■を探し当てるつもりで始めるべきだったのだ。 �イヤ、ダ──�  つまるところ、遠坂凛は極めつけに優秀な魔術の資質があった。  怪異の正体を見ることも、触れることもなく、その気配と直感だけで、いま自分がどれほどの危機に晒されているのかを理解できたのだから。  魔術とは、死を容認し、観念することに他ならない──すべての魔術師見習いが、修行の過程で乗り越えなければならない最初の関門。  逃れられず、理解もできず、ただ絶望的なまでに確実な『死』の冷たい肌触り。  幼い凛はこのとき、そんな魔道の本質を、身を以て思い知らされることになった。  全身が凍りついたように動かない。悲鳴すら上げられない。桁外れの恐怖は、小さな少女を金縛りにするのに充分すぎた。  奇妙な耳鳴りがはじまった。凛はそれが、ココロを押し潰す重く冷たい絶望によるものだと思った。今まさに自分の思考は、五感も含めて壊れはじめているのだと。  わんわんと喩る音は単調なようでいて、なのに猛り狂うように荒々しい攻撃的な響きでもあった。まるで特大のスズメバチが群れをなして襲いかかってくるかのような……  耳鳴りは次第に音量を上げていく。|近《・》|づ《・》|い《・》|て《・》|く《・》|る《・》  次の瞬間、凛の頭上に覆い被さるようにして、漆黒の霧のようなものが一斉に路地に雪崩れ込んできた。  おぞましく捻るソレは濁流のようにうねりながら凛の上を通り過ぎ、猛烈な勢いで路地の奥の闇へと殺到していく。  次いで、身の毛もよだつような凄絶な絶叫が鳴り響いた。まるで猫が生きながらにして煮殺されかかっているかのような──が、断じて猫のものなどではない奇声。  そこまでが凛の精神の限界だった。  目の前が暗くなる。立っていられない。倒れそうになったその瞬間に、ふわりと誰かに抱き留められるのを感じた。  目の前に、左顔だけのバケモノがいた。  醜くねじくれて強張った顔と、死んだ魚のように濁った眼。  なのに、そんな左顔と対になる右の眼は、痛々しく寂しげな、とても哀しい色をしていた。  いつか、どこかで見覚えがある目つき──  凛が意識を失う直前の、それが最後の思考だった。           ×                ×  娘の凛の姿が寝室から消えたことに、遠坂|葵《あおい》は一時間ほどの遅れで気がついた。  子供なりに良心の呵責があったのか、ベッドサイドには詫び言を添えた書き置きが残されていた。行方不明になっているクラスメイトを探しに冬木に戻るという。  葵は後悔のあまり目の前が暗くなった。夕食の席でも凛は、そのコトネという友達のことを気にかけ、冬木の現状についてしきりと葵を問い質そうとしてきたのだ。  あのとき葵は、言葉を濁したりせずに、心を鬼にしてでもはっきりと凛に言い含めるべきだったのだ。──その友達のことはもう忘れなさい、と。  時臣に連絡するべきだと──そう囁く声を理性が押し留める。  葵には魔術の素養はないが、それでも彼女は魔術師の妻であった。いま夫の時臣が娘の安否を気遣えるような状況にないことは、重々承知している。彼は今まさに戦地にいるのだ。彼自身の命を繋ぐためだけに全身全霊を注がなければならないような局面に。  凛を守れる者がいるとしたら、それは自分以外にない。  葵は着の身着のままで|禅城《ぜんじよう》宅を飛び出し、夜の国道に車を飛ばして冬木市へと舞い戻った。  探す宛てというほどのものは、ない。せめて凛の行動半径を予想して|弧潰《しらみつぷ》しに探すしかない。  禅城の家から電車で戻ったのだとすれば、起点はまず新都の冬木駅。そこから子供の脚でおおよそ三〇分までの圏内……  真っ先に閃いたのは、川辺にある市民公園だった。  深夜の公園の静寂は、墓所のそれを思わせた。  まるきり人気のない広場の、そこかしこで空っぽの空間を虚しく照らし出す照明灯は、むしろその間隙に幡る闇をよりいっそう濃いものにして、静けさをひときわ不気味にしている。  冬木市の夜の空気は明らかに変質を遂げていた。魔術師と生活を共にすることで、ある程度の怪異に慣れ親しんできた葵には、それがまざまざと気配で分かる。  普段、凛と遊びに来たときに、葵が好んで腰掛けるベンチを、まず真っ先に眼で探していた。ある種の虫の知らせがあったともいえる。  果たしてそこには、求め探していた赤いセータ──の小さな影があった。 「──ッ! 凛!」  葵は思わず叫んで駆け寄った。凛は意識を失っているのか、ぐったりとベンチに横たわったきり動かない。  抱き上げる。浅いが規則的な呼吸と、確かな温もり。見る限りでは外傷もない。どうやら本当にただ眠っているだけらしい。安堵に思わず涙が滲む。 「良かった……本当に……」  感謝を誰に捧げるべきか。喜びのあまり思考もままならない状態だった葵であったが、やがて冷静さを取り戻したあとで、はたと気付いた。視線を感じる。誰かがベンチの向こうの植え込みから、彼女と凛を見つめている。  怯えよりも、いま腕の中にいる娘を守りたいという母性の方が勝った。 「……そこにいるのは、誰?」  固い声で呼びかけると、案に反して、身を潜めていた人影はゆっくりと街灯の光の中に姿を現す。  ぶかぶかのウィンドブレーカーを着込み、顔を覆い隠すかのようにフードを目深に被った男だった。左足に怪我でもしているのか、いささか歩き方がぎこちない。 「ここで待てば、きっと見つけてくれると思ってた」  謎の人影が、ささやくような掠れた声で言う。まるで呼吸にすら痛みをもよおすほどの末期|癌《がん》に冒されているかのような、喘鳴まじりの低い声。にもかかわらず声音に込められた想いは優しく、和やかだ。  変わり果てた声ではあったが、その口調には聞き覚えがあった。 「……|雁夜《かりや》……くん?」  人影は立ち止まり、やや逡巡してから、ゆっくりとフードを脱いで街灯の下に顔を晒した。  色も艶も枯れ落ちた真っ白い髪。顔の左半面が苦悶の死相で硬直した、おぞましい異相。  悲鳴を呑み込んだ葵ではあったが、それでも怯えた吐息は隠しようもなく漏れた。雁夜は、まだ自由の利く顔の右半分だけで、哀しげに微笑する。 「これが──間桐の魔術だよ。肉を捧げ、命を蝕まれ……それを代価にして至る魔道だ」 「何? どういうことなの? どうしてあなたがここに?」  葵は混乱したまま、目の前の幼馴染みを立て続けに問い質す。だが雁夜はそのいずれの問いにも答えることなく、優しく諭す口調で先を続けた。 「でもね、桜ちゃんは大丈夫。こんなことになる前に……俺が、きっと救い出す」 「桜──」  この一年、遠坂家では決して口にしてはならなかった禁忌の名前。抑え込まれていた離別の痛みが、どっと葵の胸に蘇る。  桜。間桐に捧げられた遠坂の子。  そういえば雁夜が葵たちの前に最後に姿を現したのも、ちょうど一年前ではなかったか? 「臓硯が欲しいのは聖杯だけだ。俺がそれを勝ち取れば、桜ちゃんを開放すると、あいつはそう約束した」  雁夜が口にした『聖杯』という単語に、葵はやおら|眩量《めまい》にも似た悪寒にとらわれる。  聞き違いであって欲しい。そう切に願った。だがそんな葵の心を裏切るかのように、雁夜は右手の甲を差し出して示す。そこにはくっきりと禍々しく、三つの令呪が刻み込まれていた。 「だから、俺が必ず……心配ないよ。俺のサーヴァントは最強なんだ。誰にも負けるはずはない」 「ああ──そんな──」  恐怖。そして悲しみ。その相半ばする混乱が、葵の言葉を奪う。  雁夜が間桐の家に復帰し、サーヴァントを|統《す》べて聖杯戦争に臨んでいるという、事実。  それは取りも直さず、やがて彼女の夫と|幼馴染《おさななじ》みとが、血みどろの殺し合いを展開するという予告に他ならない。 「そんな……神様……」  葵の悲嘆に、だが雁夜は気付かない。彼女の目に滲む涙の意味を、彼はどこかで致命的に履き違えていた。 「今の桜ちゃんにとってはね、希望を懐くことさえ、辛い責め苦にしかならない。  だから……あの子の代わりに、葵さん、貴女が信じて、祈ってくれ。俺の勝利を、桜ちゃんの未来を」  亡者の虚ろな左目が、呪うように葵を睨む。  優しい幼馴染みの右目が、縄るように葵に乞う。 「雁夜くん、君は……」  死ぬ気なの?  時臣を殺して死ぬ気なの?  そう問いたくても言葉にならない。絶望が、真っ黒に葵の心を塗り潰していく。  葵は顔を伏せ、腕の中の凛を固くかき抱いた。残酷な現実から目を逸らすには、せめてそうするしかなかった。  眼を閉ざした葵の耳に、雁夜の優しくも苦しげな声だけが届く。 「いつかきっと、この公園で、また昔みたいに皆で遊べる日が来るから。凛ちゃんも、桜ちゃんも、もとの姉妹に戻って……  だから、葵さん。貴女はもう泣かなくていい」 「雁夜くん、待って──」  最後に呼びかけた声に返答はなかった。左足を引きずる足音は、ゆっくりと遠ざかっていく。立ち上がってその後を追う勇気は、葵にはなかった。今の彼女には、一人きりの愛娘を固く抱きしめたまま、為す術もなく涙に暮れるしかなかった。  何も知らずに眠る凛の寝顔だけが、ただ安らかに、母の涙を受け止めた。          ×              ×  音もなく気配もなく、そして余人の目に映る姿すらもなく、闇に身を潜めたアサシンは、見届けたすべての顛末を念話で綺礼へと送り届けた。 『遠坂時臣氏の内儀とご息女、このまま放置で宜しいか?』 『1構わない。引き続きバーサーカーのマスターを監視するように』 『承知1』  そう頷きはしたものの、アサシンとしては、こんな覗き見の一体何が聖杯戦争の役に立つのやら、皆目検討もつかなかった。  昨日からマスターである綺礼の命令に、奇妙な条件が付加されていた。敵対する五人のマスターについて、その私生活、趣味嗜好、人物像についても子細に観察し、報告するようにという指示である。そのせいで冬木の各所に散った|す《・》|べ《・》|て《・》|の《・》|ア《・》|サ《・》|シ《・》|ン《・》|達《・》は監視の密度を倍増しにせざるを得なかった。今現在も夜の闇のそこかしこで、同じようにマスターの意図に首を傾げているハサンたちが大勢いることだろう。  ともあれ、命令とあっては是非もない。手間こそかかるが困難というほどのこともない作業である。反駁するほどの理由はどこにもない。  アサシンは闇の中を馳せ、間桐雁夜の追跡を再開した。 [#改ページ]   -103:11:39  アインツベルンの森に、ふたたび夜が訪れる。  昨夜とはうって変わって|静誼《せいひつ》に満たされた夜の闇。だが各所に刻み込まれた激闘の爪痕は依然として生々しい。  わざわざ本国から連れてきたメイドたちに手入れをさせた城内も、衛宮切嗣とロード・エルメロイの戦いによって|惨憺《さんたん》たる有様になりはてた。破壊の跡を補修しようにも、雑事を任せられるメイドたちはすべて帰国させた後である。アイリスフィールは溜息をついて、廃嘘もかくやというほど荒れ果てた廊下の様をつとめて意識しないようにしながら通り抜けた。  破壊を免れた寝室は数少ないが、その一室に今は久宇舞弥を休ませている。アイリスフィールが手ずから治癒魔術を行使したとはいえ、そもそもアインツベルンの魔術による治癒は、被術者の負担が非常に大きい。大元が錬金術であるだけに、怪我人の元来の肉体を再生するのではなく、魔力によって錬成した新たな組織を移植し、馴染ませるという手法にならざるを得ないのだ。ホムンクルスの補修であればそれで何の問題もないが、それを人間の治療に応用するのは、現代医学に喩えるならば臓器移植も同然の大手術である。  疲弊しきった舞弥の様態は深い昏睡状態にある。意識を取り戻し、満足に身体を動かせるようになるまでには、まだしばらく時間がかかるだろう。  自分がセイバーの剣の鞘によって守られていたことを思うと、なおのことアイリスフィールは舞弥の傷の深さに心苛まれた。が、聖杯戦争における役割の重要度を考えれば、保護する優先度はアイリスフィールがはるかに上であるという、その厳然たる事実は変わらない。仲間が自分より深く傷つくことに心を痛めるのは、甘い感傷と言わざるを得ない。  一方で切嗣はといえば、負傷した舞弥が担ぎ込まれるのと入れ違いに城を出ていったきり、未だ帰還していない。アイリスフィールとセイバーに行き先を告げることすらしなかったのは──おそらく、取り逃がしたケイネス・アーチボルトを追撃する意図があってのことだろう。敵の魔術師を仕留めそこなった原因がセイバーにあることは、説明されなくても状況だけでアイリスフィールにも察しがついたが、相変わらず切嗣はそれを智めるどころか怒りを見せることもなく、ただ冷淡な無視だけでセイバーをあしらって去っていった。 それがどんな叱責や罵倒よりセイバーの誇りを傷つけるものと知ってか知らずか。ともかく両者の溝がよりいっそう深く、埋めがたいものになったことは間違いない。  夫と騎士王との行く末を案じて、アイリスフィールが深い溜息をついたそのとき、耳を聾する轟音が夜のしじまを切り裂いた。それだけでなく、彼女の魔術回路に強烈な負荷がかかり、眩量のあまりアイリスフィールは廊下に倒れ込みそうになる。  轟音は、まぎれもなく直近での雷鳴だ。同時に来た魔力のフィードバックは、城外の森の結界が破られたことを意味している。それも突破などという生易しい次元ではなく、文字通り術式そのものを破壊されたことによる反動だ。 「なんてこと……正面突破ってわけ?」  苦しげに眩いたアイリスフィールの肩を、華奢ながらも力強い腕が助け起こす。それは異変が起きたと知るや、疾風のように彼女の元へと馳せ参じてきたセイバーの腕だった。 「大丈夫ですか? アイリスフィール」 「ええ。ちょっと不意を討たれただけ。まさか、ここまで無茶なお客様をもてなすとは思ってなかったから」 「出迎えます。貴女は私の傍を離れないように」  セイバーの言葉に、アイリスフィールは頷いた。迎撃に向かうセイバーに同伴するということは、彼女自らもまた敵と対峙することを意味する。だがそれでも、戦場において最も安全な場所とは、即ちこの最強のサーヴァントの隣をおいて他にはないのだ。  アイリスフィールの脚力にあわせた駆け足で、二人は無惨に荒れ果てた城内を走り抜ける。目指すは吹き抜けの玄関ホールを囲むテラスだ。正門を破って侵入してくるであろう敵とは、おそらくそこで遇遁する。 「さっきの雷鳴、それに揮ることを知らぬこの出方……おそらく敵はライダーです」 「でしょうね」  前日の倉庫街で見せつけられた宝具『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』の大威力を、アイリスフィールは思い起こす。雷気を纏う神牛の戦車──あれほどの対軍宝具を手加減抜きで解き放たれたら、森に敷設した魔法陣のポイントが|根刮《ねこそ》ぎにされたとしても無理はない。結界が完全な状態だったならいざ知らず、前日にキャスターとケイネスによって術式を引っかき回されたばかりで、まだ再調整できていないタイミングだったのが痛恨だ。 「おぉい、騎士王! わざわざ出向いてやったぞお。さっさと顔を出さぬか、あん?」  既に正門を踏み越えたのか、ホールから堂々と呼びかけてくる声は、案の定、征服王イスカンダルのそれに間違いなかった。いっそ間延びして聞こえるほどの陽気な胴間声は、これより戦闘に臨む者の語調とは思えない。  だがセイバーは戦意に意識を切り替え、走りながらもスーツの上から白銀の鎧を実体化させる。  ついに廊下を駈け抜けて、ホールを一望するテラスの上に出たアイリスフィールとセイバーは……採光窓から差し込む月明かりの下に胸を張ってそびえ立つ敵サーヴァントの姿に、しばし言葉を失った。 「……」 「いよお、セイバー。城を構えてると聞いて来てみたが──何ともシケた所だのう、ん?」  悪びれもせずに白い歯を見せて笑いながら、ライダーはさも大義そうに首をごきごきと捻り鳴らす。 「こう庭木が多くっちゃ出入りに不自由であろうに。城門に着くまでに迷子になりかかったんでな。余がちょいと|伐採《ばっさい》しておいたから有り難く思うがいい。かな〜り見晴らしがよくなってるぞ」 「ライダー、貴様は……」  気色ばんで呼びかけるセイバーではあったが、あまりに理解しがたい光景に、その先の言葉が続かない。むしろ怪認そうに眉を蟄めたのはライダーの方だった。 「おいこら騎士王、今夜は当世風の|格好《ファッション》はしとらんのか。何だ、のっけからその無粋な戦支度は?」  セイバーの甲冑姿を無粋と評するのであれば、ライダーのウォッシュジーンズにTシャツ一枚という風体には、一体どういうコメントをするべきか。セイバーの誇りを思うなら、そのはち切れんばかりに分厚い胸板でさも自慢げに誇示されているのが、|遊具《ゲームソフト》のタイトルロゴであるなどとは、ただもう『知らぬが仏』としか言いようがない。  ライダーの巨躯の後ろに半身を隠しつつ、アイリスフィールたちを見上げているウェイバー・ベルベットの面持ちも、敵視しているのか恐縮しているのか判然としない微妙な表情であった。もはや言葉を交わすまでもなく、その顔に�帰りたい。早く�と書いてある。  かつてのイスカンダル王が、侵略先の異文化に並々ならぬ興味を示し、率先してアジア風の衣装を纏っては側近たちを|辟易《へきえき》させたという逸話についてはアイリスフィールも聞き知ってはいた。が、それでも目の前のライダーが、まさかセイバーのスーツ姿に触発されて現代世界の装束に固執しているなどとは、とても察してやれるものではなかった。  さらになお奇怪なことに、ライダーが携えているモノが、今夜に限って武器でも何でもない。  |樽《たる》、だった。  どう見ても、何の変哲もないオーク製のワイン樽。筋骨|逞《たくま》しい腕でそれを軽々と小脇に抱えている様は、もはや配達に来た酒屋の若大将といった|風情《ふぜい》である。 「曳貝様陣は……」  再度言葉に詰まってから、セイバーは深呼吸して気を鎮め、抑えた声で先を続けた。 「ライダー、貴様、何をしに来た?」 「見て解らんか? |一献《いっこん》交わしに来たに決まっておろうが。──ほれ、そんな所に突っ立ってないで案内せい。どこぞ宴に|読《あつら》え向きの庭園でもないのか? この荒れ城の中は埃っぽくてかなわん」 「……」  セイバーはうんざりした風に歎息して、胸に溜まった怒気の嵩を|萎《しぼ》ませた。ここまで|素《す》っ|惚《とぼ》けた態度の相手を前にして戦意を維持しつづけるほどの気力は、彼女も持ち合わせていなかった。 「アイリスフィール、どうしましよう?」  そう水を向けられたところで、途方に暮れているのはアイリスフィールも同じである。  こちらは森の結界を破壊されて憤愚やるかたないというのに、ああも緊張感のない笑顔で遇されたのでは、怒気を見せた方が馬鹿を見るのは歴然である。 「|罠《わな》、とか……そういうタイプじゃないものね、彼。まさか本当に酒盛りがしたいだけ?」  考えてみればライダーは、セイバーがランサーと決着をつけるまで交戦を見送ると宣言していた。英霊が誇りに賭けて交わした約定であったなら、今夜、いきなり襲来してきたのは奇妙といえば奇妙な話だ。 「あの男、やっぱりセイバーを懐柔したくて仕方ないのかしら?」 「いいえ、これは|歴《れっき》とした挑戦です」  戦意を鎮めたはずのセイバーだったが、その表情はなぜか相変わらず険しい。 「挑戦?」 「はい。……我も王、彼も王。それを弁えた上で酒を酌み交わすというのなら、それは剣に依らぬ�戦い�です」  そんなセイバーの咳きが耳に届いたのか、征服王はにんまりと破顔して頷いた。 「フフン、解っておるではないか。剣を交えるのが|憚《はばか》られるなら杯を交えるまでのこと。騎士王よ、今宵は貴様の『王の器』をとことん問い質してやるから覚悟しろ」 「面白い。受けて立つ」  毅然として応じるセイバーの横顔は、戦場に臨むのと変わらない凛烈さに冴えている。ここにきてようやくアイリスフィールは、これが冗談事ではない真剣勝負の幕開けなのだと理解することができた。          ×              ×  宴の場所として選ばれたのは、城の中庭の花壇であった。昨夜の戦闘の傷跡もここには及んでおらず、一応はもてなしの面目も立つ場所である。外気の冷たさはこのさい問題ではなかった。  ライダーが持ち込んだ酒樽を真ん中に挟んで、二人のサーヴァントは差し向かいにどっかりと|胡座《あぐら》をかき、悠然たる居住まいで対峙している。下手にはアイリスフィールとウェイバーが列んで座り、ともに先の読めない展開に気を|揉《も》みながらも、ひとまずは休戦を暗黙の了解として成り行きを見守ることに徹していた。  ライダーがいかつい拳で樽の蓋を叩き割ると、|芳醇《ほうじゅん》なワインの香りが中庭の夜気を染め上げる。 「いささか珍妙な形だが、これがこの国の由緒正しい酒器だそうだ」  そう言ってライダーは、竹製の柄杓をさも自慢げに取り上げる。彼の勘違いを指摘できるだけの知識の持ち主は、幸か不幸か、この場には居合わせなかった。  ライダーはまず一杯、樽のワインを柄杓で掬い取って、がぶりと一息に飲み干すと、「聖杯は、相応しき者の手に渡る定めにあるという」  そう静かな声で口火を切った。厳かな口調は、この男にしては珍しいように思えて、なぜかまったく違和感がない。 「それを見定めるための儀式が、この冬木における闘争だというが──なにも見極めをつけるだけならば、血を流すには及ぼない。英霊同士、お互いの�格�に納得がいったなら、それで自ずと答えは出る」 「……」  差し出された柄杓を、セイバーは臆することなく受け取って、こちらもまた樽の中身を掬い取る。  そもそも酒が飲めるのか不安になるほどの|華奢《きゃしゃ》な体躯でありながら、セイバーの飲みっぷりは巨漢のライダーに勝るとも劣らぬ剛胆な岬りようであった。それを見届けたライダーが、「ほう」と愉しげに微笑する。 「それで、まずは私と�格�を競おうというわけか? ライダー」 「その通り。お互いに�王�を名乗って譲らぬとあっては捨て置けまい。いわばこれは『聖杯戦争』ならぬ『聖杯問答』……はたして騎士王と征服王、どちらがより�聖杯の王�に相応しき|器《うつわ》か? 酒杯に問えばつまびらかになるというものよ」  そこまで|厳《いか》めしく語ってから、ふいにライダーは悪戯っぽい笑いに口元を歪めて、白々しく小馬鹿にした口調でどこへともなく言い捨てた。 「ああ、そういえば我らの他にも一人ばかり、�王�だと言い張る輩がおったっけな」 「──戯れはそこまでにしておけ、雑種」  ライダーの放言に応じるように、|眩《まばゆ》い黄金の光が一堂の眼前に湧き起こる。  その声音、その輝きに覚えのあるセイバーとアイリスフィールは、ともに身体を硬くした。 「アーチャー、何故ここに……」  気色ばんだセイバーに、泰然と応じたのはライダーの方だった。 「いや、な。街の方でこいつの姿を見かけたんで、誘うだけは誘っておいたのさ。──遅かったではないか、金ピカ。まぁ余と違って|歩行《かち》なのだから無理もないか」  はたして燦然と実体化した甲冑姿のアーチャーは、燃える|紅玉《ルビー》のような双眸で傲岸にライダーを睨み据える。 「よもやこんな鬱陶しい場所を『王の宴』に選ぶとは。それだけでも底が知れるというものだ。|我《オレ》にわざわざ足を運ばせた非礼をどう詫びる?」 「まぁ固いことを言うでない。ほれ、駆けつけ一杯」  嘉落に笑い飛ばしながら、ライダーはワインを汲んだ柄杓をアーチャーに差し出した。  どう見ても和やかさとは程遠い剣幕のアーチャーは、ライダーの態度に激怒するかと思いきや、あっさりと柄杓を受け取って、何の躊躇もなく中身を飲み干した。  あらためてアイリスフィールは、これを�挑戦�と評したセイバーの言葉を思い出す。  アーチャー──未だ真名の知れぬこの黄金の英霊もまた、王を名乗る以上は、杯によって挑みかかってきたライダーを避けて通ることはできないのだ。 「──何だこの安酒は? こんなもので本当に英雄の格が量れるとでも思ったか?」  柄杓を干したアーチャーは、しかし嫌悪も露わに顔を歪めて吐き捨てる。 「そうかぁ? この土地の市場で仕入れたうちじゃあ、こいつはなかなかの逸品だぞ」 「そう思うのは、お前が本当の酒というものを知らぬからだ。雑種めが」  嘲りに鼻を鳴らすアーチャーの傍らで、虚空の空間が渦を巻いて歪曲する。それが、あの無数の宝具を出現せしめる怪現象の前兆に他ならないことを見知っていたウェイバーとアイリスフィールは、総身に悪寒を感じて腰を浮かせた。  ──が、今夜のアーチャーが傍らに呼び出したのは、武具の類ではなく、眩い宝石で飾られた一揃いの酒器だった。重そうな黄金の瓶は、澄んだ色の液体をたっぷりと湛えている。 「見るがいい。そして思い知れ。これが『王の酒』というものだ」 「おお、これは重畳」  ライダーはアーチャーの憎まれ口など|何処《どこ》吹く風で、|嬉々《きき》として新しい酒を三つの杯に汲み分ける。  セイバーは、まだ素性の知れないアーチャーのことをライダー以上に警戒しているのか、黄金の瓶酒には|僅《わず》かながらも躊躇を見せたが、それでも差し出された杯は|拒《こば》むことなく手に取った。 「むほォ、|美味《うま》いっ!!」  先に呷ったライダーが、目を丸くして|喝采《かっさい》する。それでセイバーも警戒より好奇心が先に立った。そもそも、注がれた杯を干さずにおくなど、|沽券《こけん》を競い合うこの場では有り得ない。  喉に流し込んだ途端、まるで頭蓋の中身が倍に膨れあがったかのような猛烈な多幸感がセイバーを打ちのめす。かつて味わったどんな酒よりも素晴らしい逸品だった。強烈かつ清浄。芳醇かつ爽快。味覚の快感が強烈すぎて嗅覚が消し飛び、視覚や触覚までもが霞むほどだった。 「|凄《すげ》ぇなオイ! こりゃあ|人間《ヒト》の手になる醸造じゃあるまい。神代の代物じゃないのか?」  惜しみなく賛辞するライダーに向けて、アーチャーもまた悠然と微笑する。いつの間にやら彼もまた上座に胡座をかいて居座り、さも満悦そうに杯を手に揺らしていた。 「当然であろう。酒も剣も、我が宝物庫には至高の財しか有り得ない。──これで王としての格付けは決まったようなものだろう」 「ふざけるな、アーチャー」  凛と|喝破《かっぱ》したのはセイバーである。何やら馴れ合いめいてきた場の空気に、そろそろ苛立ちはじめていた頃合いだった。 「酒蔵自慢で語る王道なぞ聞いて呆れる。戯れ言は王でなく道化の役儀だ」  そんなセイバーの剣幕を、アーチャーは鼻で喧って|一蹴《いつしゆう》した。 「さもしいな。宴席に酒も供せぬような輩こそ、王には程遠いではないか」 「こらこら。双方とも言い分がつまらんぞ」  なおも言い返そうとするセイバーを、ライダーが苦笑いしながら遮って、アーチャーに向けて先を続ける。 「アーチャーよ、貴様の極上の酒はまさしく至宝の杯に注ぐに相応しい。──が、あいにくと聖杯は酒器とは違う。  これは聖杯を掴む正当さを問うべき聖杯問答。まずは貴様がどれほどの大望を聖杯に|託《たく》すのか、それを聞かせてもらわなければ始まらん。さてアーチャー、貴様はひとかどの王として、ここにいる我ら二人をもろともに魅せるほどの大言が吐けるのか?」 「仕切るな雑種。第一、聖杯を�奪い合う�という前提からして理を外しているのだぞ」 「ん?」  怪謁そうに眉をひそめるライダーに、アーチャーは呆れきったかのように嘆息する。 「そもそもにおいて、アレは|我《オレ》の所有物だ。世界の宝物はひとつ残らず、その起源を我が蔵に遡る。いささか時が経ちすぎて散逸したきらいはあるが、それら全ての所有権は今もなお|我《オレ》にあるのだ」 「じゃぁ貴様、むかし聖杯を持ってたことがあるのか? どんなもんか正体も知ってると?」 「知らぬ」  ライダーの追及を、アーチャーは平然と否定する。 「雑種の尺度で測るでない。|我《オレ》の財の総量は、とうに|我《オレ》の認識を越えている。だがそれが『宝』であるという時点で、我が財であるのは明白だ。それを勝手に持ち去ろうなど、|盗人猛々《ぬすっとたけだけ》しいにも程がある」  アーチャーの言い分に、今度はセイバーが呆れ果てる番だった。 「おまえの|言《げん》はキャスターの世迷い事とまったく変わらない。錯乱したサーヴァントというのは奴一人だけではなかったらしい」 「いやいや、どうだかな」  セイバーと違って、ライダーは何やら一人で|合点《がてん》がいったかのように捻っていた。見ればいつの間にやらアーチャーの瓶酒を我が物顔のまま手酌で注いでいる。 「な〜んとなく、この金ピカの真名に心当たりがあるぞ余は。まぁ、このイスカンダルより態度のでかい王というだけで、思い当たる名はひとつだったがな」  穏やかではない発言に、アイリスフィールやウェイバーたちまでもが耳をそばだてたが、ライダーは素知らぬ顔で先を続けた。 「じゃぁ何か? アーチャー、聖杯が欲しければ貴様の承諾さえ得られれば良いと?」  にやけた顔で|囎《うそぶ》くライダーを、アーチャーは真紅の双眸で射疎めるように一瞥する。 「然り。だがお前らの如き雑種に、|我《オレ》が報償を|賜《たま》わす理由はどこにもない」 「貴様、もしかしてケチか?」 「たわけ。|我《オレ》の恩情に与るべきは|我《オレ》の臣下と民だけだ」  哺いてから、アーチャーはライダーに向けて|嘲《あざけ》るように微笑みかけた。 「故にライダー、おまえが|我《オレ》の許に下るというのなら、杯のひとつやふたつ、いつでも下賜してやって良い」 「……まぁ、そりゃ出来ん相談だわなぁ」  ライダーはぼりぼりと顎を掻きながら、それでも納得しかねるのか、しきりに首を捻っていた。 「でもなあアーチャー、貴様、べつだん聖杯が惜しいってわけでもないんだろう? 何ぞ叶えたい望みがあって聖杯戦争に出てきたわけじゃない、と」 「無論だ。だが|我《オレ》の財を狙う賊には然るべき裁きを下さねばならぬ。要は筋道の問題だ」 「そりゃつまり──」  言いさして、ライダーは杯の中身を干してから続けた。 「つまり何なんだアーチャー? そこにどんな義があり、どんな道理があると?」 「法だ」  アーチャーの返答は即答だった。 「|我《オレ》が王として敷いた、|我《オレ》の法だ」 「ふむ」  ライダーは観念したかのように、深々と溜息をついた。 「完壁だな。自らの法を貫いてこそ、王。  だがな〜、余は聖杯が欲しくて仕方ないんだよ。で、欲した以上は略奪するのが余の流儀だ。なんせこのイスカンダルは征服王であるが故」 「是非もあるまい。お前が犯し、|我《オレ》が裁く。問答の余地などどこにもない」 「うむ。そうなると後は剣を交えるのみだ」  アーチャーは厳然と、ライダーは曇りの晴れた面持ちで、共に合意の首肯を交わす。 「──が、アーチャーよ、ともかくこの酒は飲みきってしまわんか? 殺し合うだけなら後でもできる」 「当然だ。それとも貴様、まさか|我《オレ》の振る舞った酒を|蔑《ないがし》ろにする気でいたのか?」 「冗談ではない。これほどの美酒を捨て置けるものか」  敵対なのか、友誼なのか、どちらとも判別しがたい交流を築きつつあるアーチャーとライダーを、セイバーは|憔然《ぶぜん》と押し黙ったまま見守っていたが、ここでようやく彼女はライダーに向けて問いかけた。 「征服王よ。おまえは聖杯の正しい所有権が他人にあるものと認めた上で、なおかつそれを力で奪うのか?」 「──ん? 応よ。当然であろう? 余の王道は『征服』……即ち『奪い』『侵す』に終始するのだからな」  沸き上がる怒りを胸に鎮めて、セイバーは重ねて問う。 「そうまでして、聖杯に何を求める?」  はは、とライダーは妙に照れくさそうに笑ってから、まず杯を岬り、それから答えた。 「受肉、だ」  誰も想像し得なかった返答だった。ウェイバーに至っては、思わす「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げてライダーに詰め寄ってしまった程だった。 「おおお、オマエ! 望みは世界征服だったんじゃ──ぎゃわぶっ!!」  毎度のデコピンでマスターを黙らせて、ライダーは肩を疎める。 「馬鹿者。たかが杯なんぞに世界を獲らせてどうする? 征服は己自身に託す夢。聖杯に託すのは、あくまでそのための第一歩だ」 「雑種……よもやそのような環事のために、この|我《オレ》に挑むのか?」  さしものアーチャーすら呆れ顔だったが、ライダーはあくまで真顔である。 「あのな、いくら魔力で現界してるとはいえ、所詮我らはサーヴァント。この世界においては奇跡に等しい──言ってみりゃ何かの冗談みたいな|賓《まれぴと》の扱いだ。貴様らはそれで満足か?  余は不足だ。余は転生したこの世界に、一個の|生命《いのち》として根を下ろしたい」 「……」  考えてみれば──ウェイバーは、何かにつけて霊体になるのを拒み、実体化を維持したがっていたライダーの奇癖を思い起こす。確かに今の彼はサーヴァントという�現象�に過ぎない。ヒトのように喋り、着飾り、飲み食いができるからといって、その本質は幽霊と大差ないのである。 「なんで……そこまで肉体に拘るんだよ?」 「それこそが『征服』の基点だからだ」  節くれ立った手をぐっと握りしめ、その拳をじっと見据えながら、イスカンダルは咳いた。 「身体一つの|我《が》を張って、天と地に向かい合う。それが征服という�行い�の総て……そのように開始し、押し進め、成し遂げてこその我が覇道なのだ。  だが今の余は、その�身体一つ�にすら事欠いておる。これでは、いかん。始めるべきモノも始められん。誰に揮ることもない、このイスカンダルただ独りだけの肉体がなければならん」  アーチャーは、はたしてライダーの口上に耳を傾けていたのかどうなのか、ただ黙々と手にして杯を口に運んでいた。だがよく見れば、その口元に浮かぶ表情は、今までこの黄金の英霊が見せたどんな感情とも異質であった。強いて言うなら笑みに近い。が、これまで嘲笑の類しか見せなかったアーチャーの笑い方にしては、それはあまりにも陰惨で、空恐ろしいものだった。 「決めたぞ。──ライダー、貴様はこの|我《オレ》が手ずから殺す」 「フフン、今さら念を押すまでもなかろうて。余もな、聖杯のみならず、貴様の宝物庫とやらを奪い尽くす気でおるから覚悟しておけ。これほどの名酒、征服王に味を教えたのは迂闊すぎであったなぁ」  |呵々《かか》|大笑《たいしょう》するライダー。だがここにきてもなお、酒宴に加わっておきながら、未だ一度として笑みを浮かべたことのない一人がいるのに気付いていたかどうか。  王道の何たるかを問う問答だと聞かされて、事実そのつもりで参席していたセイバーは、アーチャーとライダーの遣り取りの中に、入り込む余地をまったく見出せなかった。この二人の英霊たちが語り合っている内容は、騎士王である彼女が王道として奉ずる道とはあまりにもかけ離れた、無縁のものとしか思えなかったからだ。  只、我意あるのみ  そんなものは王の在り方ではない。|清廉《せいれん》を旨とするセイバーからしてみれば、アーチャ!やライダーの論法は、ただの暴君のそれでしかない。  いずれも劣らぬ強大な敵とはいえ、セイバーの胸の内には、いま新たに不屈の闘志が|漲《みなぎ》りつつあった。  この二人にだけは負けられない。断じて聖杯は譲れない。アーチャーの言葉にはもとより理があるとは思えないし、ライダーの願望も、武人としての潔さは認めるが、所詮は個人の欲望から端を発したものでしかない。それらに比べれば、セイバーが胸に秘める切なる祈りは、はるかに尊く価値がある。胸を張ってそう言い切れる。 「──なぁ、ところでセイバー。そういえばまだ貴様の懐の内を聞かせてもらってないが」  いよいよライダーがそう水を向けてきたときも、彼女は微塵も揺るがなかった。  真に誇るべきは、我が王道。決然と顔を上げ、騎士王は真っ向から二人の英霊を見据えて切り出した。 「私は、我が故郷の救済を願う。万能の願望機をもってして、ブリテンの滅びの運命を変える」          ×              × 「よりにもよって、酒盛りとはな……」  独り、自宅の地下工房に座したまま、遠坂時臣は相変わらずのライダーの奇行に、もう幾度目ともつかぬ溜息をついた。 『アーチャーは放置しておいて構わぬものでしょうか』  魔道通信機越しに問うてくる言峰綺礼のやや硬い声を、時臣は苦笑で「仕方あるまい」と流した。 「王の中の王にあらせられては、突きつけられた問答に背を向けるわけにもいかんだろうからな」  英雄王ギルガメッシュの、サーヴァントとしての底力さえ見抜かれることがなければ問題はない。幸い、今夜のところは彼らの闘争も酒杯での競い合いに終始することだろう。剣を抜く展開にならなければ、アーチャーも|徒《いにずら》に『|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》』を晒しはするまい。  自らの工房に居ながらにして、遠く離れたアインツベルン城の状況を把握していられるのは、無論、密かに忍ばせたアサシンの報告を綺礼の中継で聞き届けているからだ。ライダーが森の結界を破壊したことで、アサシンもまた気配遮断スキルの効果を維持したまま、城内にまで侵入することが可能となった。  聖杯戦争も第四夜目になりながら、未だ遠坂時臣は深山町の邸宅を一歩も出ていない。 彼は連日、自らの陣地に安穏と引きこもったままで、各所で繰り広げられる聖杯戦争のすべてを把握していた。人知れず潜伏しているつもりになっているであろう他のマスターたちの状況についても、その大方は調査済みである。  目下、彼の注目の対象は、ライダーである征服王イスカンダルと、そのマスターであるウェイバー・ベルベットに絞られていた。  未だ他のサーヴァントと交戦らしい交戦もせず、手の内が杳として知れない不気味な存在。重ねて厄介なのは、キャスターの工房におけるアサシンの手痛いミスにより、言峰綺礼とアサシンが未だ脱落せず健在であることが、彼らには露見しているという点だ。  それゆえ綺礼も、ライダーの近辺には不用意にアサシンを接近させられなくなっていた。気配遮断スキルの|秘匿性《ひとくせい》にも限界はある。ああ見えてライダーも、他のサーヴァントたちよりはアサシンを意識して神経を|尖《とが》らせているはずだ。アインツベルンの城中にまで潜入させたアサシンについても、今夜の盗み聞きにおいては、ライダーに感知されないよう細心の注意が要求された。 「ところで、綺礼。ライダーとアーチャーの戦力差……君はどう考える?」 『ライダーに『|神威の車輪《ゴルディアス・ホイール》』を上回るような切り札があるのか否か。そこに尽きると思われますが』 「うむ……」  問題はそこだった。残る四人のサーヴァントと比較して、未だに必勝法の糸口が掴めないのがライダーである。  とりわけマスターの消耗ぶりが悲惨なバーサーカーと、四面楚歌の上に工房まで破壊されたキャスター。この二組については捨て置いて自滅を待てばいい。  セイバーも手負いの状態であればギルガメッシュの勝利は揺るがない。ランサーは無傷といえば無傷だが、強敵と思われていたロード・エルメロイが脱落し、より下位の魔術師がマスターに成り代わった今では、かつてほどの脅威ではない。  つまり現時点で、ライダーを除く四組までに対しては、アサシンを斥候として運用する段階を終えている。 「……この辺りでひとつ、仕掛けてみる手もあるかもな。綺礼」 『成る程。異存はありません』  皆まで語るまでもなく、通信機の向こうの綺礼も時臣の意図を汲んだようだった。  より貴重な情報を掴むための手段であれば、ここでアサシンを使い潰すという選択肢もある、ということだ。  ライダーが、マスターともども無防備に酒盛りに興じている今は、またとない襲撃のチャンスでもある。この際、勝算があるかどうかは問題ではない。たとえアサシンが敗退するにしても、彼我の戦力差を量ることができれば目的は達成される。首尾良くライダーを倒せれば良し、また返り討ちになったとしても、ライダーが切り札を出さざるを得ないだけの窮地にまで持ち込むことができれば良い。 『|す《・》|べ《・》|て《・》|の《・》|ア《・》|サ《・》|シ《・》|ン《・》を現地に集結させるのに、おそらく一〇分ばかりかかるかと思われますが』 「良し。号令を発したまえ。大博打ではあるが、幸いにして我々が失うものはない」  時臣にとってアサシンは、ギルガメッシュを率いて聖杯に至るまでの一手段にすぎず、使い捨ての道具でしかない。そしてその認識には、弟子である言峰綺礼も何ら異存はなかった。  断を下した時臣は、椅子にくつろいで脚を組み替え、傍らのティーポットからカップに新たな一杯を注ぎ足すと、冷酷な策略の結果が報告されるそのときを待ちつつ、紅茶の芳香を愉しみはじめた。 [#改ページ]   -102:54:10  セイバーが毅然と放った宣言に、しばし座は静まりかえった。  その沈黙に、まず最初に戸惑いを憶えたのは、他ならぬセイバー自身である。  いかに彼女が気を吐いたといえど、ただの一言で気圧されて黙り込むほどに生易しい相手たちではない。さりとて度肝を抜くほどに奇抜でも、理解に苦しむほど難解な言葉でもなかったはずだ。  歴然であり、明白であり、何の疑念の余地もない。そんな理想だからこそ王道として掲げられる。賛辞であれ、|反駁《はんばく》であれ、反応はすぐに現れるはずなのだ。なのに──それが、ない。 「──なぁ騎士王、もしかして余の聞き違いかもしれないが」  ようやく声を上げたライダーは、なぜか、明らかに困惑顔だった。 「貴様はいま�運命を変える�と言ったか? それは過去の歴史を覆すということか?」 「そうだ。たとえ奇跡をもってしても叶わぬ願いであろうと、聖杯が真に万能であるならば、必ずや──」  断言しようとした言葉尻が宙に浮く。ここに至ってセイバーは、ようやくライダーやアーチャーとの間に横たわる微妙な空気の正体に気がついたのだ。今やはっきりと──差し向かう二人の英霊が、白けきっているのだと。 「えぇと、セイバー? 確かめておくが……そのブリテンとかいう国が滅んだというのは、貴様の時代の話であろう? 貴様の治世であったのだろう?」 「そうだ! だからこそ私は許せない」  ライダーたちの反応に苛立ちさえ覚えて、思わずセイバーは語気を荒げる。 「だからこそ悔やむのだ。あの結末を変えたいのだ! 他でもない、私の責であるが故に……」  ふいに、弾けるほどの|哄笑《こうしょう》が|轟《とどろ》いた。淫らに、限りなく下品に、ありとあらゆる礼節と尊厳を足蹴にするかのような何の遠慮もない笑い。それは黄金に輝くアーチャーの歪み開いた口腔から|迸《ほとばし》っていた。  もはや許容しがたい屈辱に、セイバーの表情が怒気で染まる。彼女にとって最も尊い魂の領域を、いまアーチャーは辱めたのである。 「……アーチャー、何が|可笑《おか》しい?」  そんなセイバーの剣幕を意にも介さず、黄金の英霊は笑いに息切れしながらも途切れ途切れに言葉を漏らす。 「──自ら王を名乗り──皆から王と讃えられて──そんな輩が、�悔やむ�だと?  ハッ! これが笑わずにいられるか? 傑作だ! セイバー、おまえは極上の道化だな!」  もはや抑えが効かぬとばかりに笑い転げるアーチャ!の横で、ライダーは眉間に搬を寄せ、いつになく不機嫌そうな風情でセイバーを見据えている。 「ちょっと待て──ちょっと待ちおれ騎士の王。貴様、よりにもよって、自らが歴史に刻んだ行いを否定するというのか?」  自らの理想に一片の疑問さえなかったセイバーは、当然、まさかこんなところで詰問されることになろうとは思ってもみなかった。 「そうとも。なぜ訝る? なぜ笑う? 王として身命を捧げた故国が滅んだのだ。それを|悼《いた》むのがどうして可笑しい?」  答えたのは、またしてもアーチャーの爆笑であった。 「おいおい聞いたかライダー! この騎士王とか名乗る小娘は……よりにもよって! �故国に身命を捧げた�のだと、さ!」  ライダーは笑うアーチャーに応じることなく黙したまま、ますます憂いの面持ちを深めていく。その沈黙はセイバーにとって、笑われるのと同等の屈辱だ。 「笑われる筋合いがどこにある? 王たる者ならば身を|挺《てい》して、治める国の繁栄を願う筈!」 「いいや違う」  断固として、巌のような声で、ライダーが否定する。 「王が捧げるのではない。国が、民草が、その身命を王に捧げるのだ。断じてその逆ではない」 「何を──」  もはや抑えきれぬ怒りのあまりに、セイバーの声が掠れる。 「──それは暴君の治世ではないか──ライダー、アーチャー、貴様らこそ王の風上にも置けぬ外道だぞ!」 「然り。我らは暴君であるが故に英雄だ」  ライダーは眉一つ動かさず、平然とそう応じた。 「だがなセイバー、自らの治世を、その結末を悔やむ王がいるとしたら、それはただの暗君だ。暴君よりなお始末が悪い」  ただ嘲り笑うばかりのアーチャーと違い、ライダーはまだ問答の筋道でセイバーを否定している。そうと解った時点でセイバーも、ひとまずは語気を鎮め、舌鋒によって応じることにした。 「イスカンダル、貴様とて……世継ぎを葬られ、築き上げた帝国は四つに引き裂かれて終わったはずだ。その結末に、貴様は、何の悔いもないというのか? 今一度やり直せたら、故国を救う道もあったと……そうは思わないのか?」 「ない」  即答だった。征服王は堂々と胸を張ったまま、騎士王の厳しい視線を真っ向から見据えて切り返す。 「余の決断、余に付き従った臣下たちの生き様の果てに辿り着いた結末であるならば、その滅びは必定だ。悼みもしよう。涙も流そう。だが決して悔やみはしない」 「そんな──」 「ましてそれを覆すなど! そんな愚行は、余とともに時代を築いた全ての人間に対する侮辱である!」  傲然と言い放ったライダーの言葉に、セイバーはかぶりを振る。 「滅びの華を誉れとするのは武人だけだ。民はそんなものを望まない。救済こそが彼らの祈りだ」 「王による救済、だと?」  呆れたように失笑しながら、ライダーは肩を錬める。 「解せんなあ。そんなものに意味があるというのか?」 「それこそが王たる者の本懐だ!」  力を込めて言い放つのは、今度はセイバーの番だった。 「正しき統制。正しき治世。すべての臣民が待ち望むものだろう」 「で、王たる貴様は�正しさ�の奴隷か?」 「それでいい。理想に殉じてこそ王だ」  一分の迷いもなく、若き騎士王は頷いた。 「人は王の姿を通して、法と秩序の在り方を知る。王が体現するものは、王とともに滅ぶような停いものであってはならない。より尊く不滅なるものだ」  毅然と宣言するセイバーに対し、ライダーはどこか憐れむような気配さえ見せながら、深々と溜息をっく。 「そんな生き方はヒトではない」 「そうとも。王たらんとするならば、ヒトの生き方など望めない」  完壁なる君主であるために。理想の体現者であるために。身体はヒトを捨てて不老を得、心は私情を捨てて|無謬《むびゅう》となった。アルトリアという少女の人生は、選定の剣を岩から抜いたその瞬間に断絶したも同然だ。以後の彼女は不敗という名の伝説であり、賛歌であり、幻影だった。  痛みもあった。苦悩もあった。だがそれに勝る誇りがあった。決して譲れぬその信念が、今もなお剣を執る彼女の腕を支えている。 「征服王、たかだか我が身の可愛さのあまりに聖杯を求めるという貴様には、決して我が王道は解るまい。飽くなき欲望を満たすためだけに覇王となった貴様には!」  とどめとばかりに喝破するセイバー。だがそれを受けたライダーは、ぎょろりと目を剥いて形相を変えた。 「無欲な王なぞ飾り物にも劣るわい!」  そう怒声を放ったライダーの凄味は、ただでさえ大きな体躯がさらに倍に膨れあがったかと見紛うほどだ。 「セイバーよ、�理想に殉じる�と貴様は言ったな。なるほど往年の貴様は清廉にして潔白な聖者であったこどだろう。さぞや高貴で侵しがたい姿であったことだろう。だがな、殉教などという|茨《いばら》の道に、いったい誰が憧れる? 焦がれるほどの夢を見る?  聖者はな、たとえ民草を|慰撫《いふ》できたとしても、決して導くことなどできぬ。確たる欲望のカタチを示してこそ、極限の栄華を謳ってこそ、民を、国を導けるのだ!」  杯に汲み足した酒を一息に飲み干してから、さらに征服王はセイバーを|糾《ただ》す。 「王とはな、誰よりも強欲に、誰よりも豪笑し、誰よりも激怒する、清濁含めてヒトの臨界を極めたるもの。そう在るからこそ臣下は王を|羨望《せんぽう》し、王に魅せられる。一人一人の民草の心に、�我もまた王たらん�と|憧憬《どうけい》の火が灯る!」 「そんな治世の……いったいどこに正義がある?」 「ないさ。王道に正義は不要。だからこそ|悔恨《かいこん》もない」 「……ッ」  あまりにもきっぱりと断言されて、セイバーは怒りを通り越して鼻白む。  何を以て民の幸とするかという基本則において、両者にはあまりにも隔たった断絶があった。  かたや平穏への祈りを。  かたや繁栄への嘱望を。  乱世を鎮めんとした王と、自ら乱世を巻き起こした王との、それは埋めがたい認識の相違であった。  ライダーは不敵な笑みを交えて、さらに|朗々《ろうろう》と言葉を続ける。 「騎士どもの誉れたる王よ。たしかに貴様が掲げた正義と理想は、ひとたび国を救い、臣民を救済したやも知れぬ。それは貴様の名を伝説に刻むだけの偉業であったことだろう。  だがな、|た《・》|だ《・》|救《・》|わ《・》|れ《・》|た《・》|だ《・》|け《・》の連中がどういう末路を辿ったか、それを知らぬ貴様ではあるまい」 「何──だと?」  血に染まる落日の丘。  その景色が、再びセイバーの脳裏を去来する。 「貴様は臣下を�救う�ばかりで�導く�ことをしなかった。『王の欲』のカタチを示すこともなく、道を見失った臣下を捨て置き、ただ独りで澄まし顔のまま、小綺麗な理想とやらを想い焦がれていただけよ。  故に貴様は生粋の�王�ではない。己の為ではなく、人の為の�王�という偶像に縛られていただけの小娘にすぎん」 「私は……」  言い返したい言葉はいくらでもあった。だが口を開こうとするたびに、かつてカムランの丘から見下ろした光景が、|瞼《まぷた》の裏に蘇る。  累々と果てなく続く|屍《しかばね》の山と血の大河。そこに滅んだ命のすべてが、かつて彼女の臣であり、友であり、肉親であった者たちだった。  思えば岩の剣を抜いたそのときに、予言はもたらされていた。それが破滅の形であると。覚悟は決めていたはずだった。  なのに、それでも。  いざその景色を目の当たりにしたとき、想わずにはいられなかった。祈らずにはいられなかった。  かの魔術師の予言すら覆す、まったく違う可能性。そんな奇跡があってくれたらと…… セイバーの心の隙間に染み込むようにして、とある危険な空想が湧く。  もし仮に、自分が救世主としてブリテンを守護するのでなく、覇王としてブリテンを躁躍していたならば  乱世の戦禍はより凄惨さを増していただろう。第一それは彼女が奉ずる王の道ではない。 どう逆立ちしたところで、アルトリアという少女が選び得る選択肢ではない。  だがしかし、そんな忌まわしき覇王がもたらす結末も、あのカムランの丘と比したとき、果たしてどちらがより悲劇なのだろうか…… 「──ッ?」  そのときセイバーは、不意に感じたおぞましい寒気によって、葛藤から意識を引き戻された。  アーチャーの、視線。  さっきからセイバーの追及をライダー一人に任せ、自分は悠然と杯を愉しみながら成り行きを見守っていた黄金のサーヴァント。その真紅の双眸が、いつしか絡みつくように彼女の全身を舐めて廻っている。  言葉もなく、確たる目配せや意図も読みとれない、それでいてこれ以上ないほどに不快で屈辱的な、|淫靡《いんび》な凝視。まるで素肌を蛇に這われるかのような生理的嫌悪があった。 「……アーチャー、なぜ私を見る?」 「いやなに、苦悩するおまえの顔が見物だったというだけさ」  そう嘯くアーチャーの微笑は、この傲岸な英霊にしては意外すぎるほどに優しく柔らかで、それゆえに致命的におぞましかった。 「まるで|衾《しとね》で花を散らされる処女のような顔だった。実に|我《オレ》好みだ」 「貴様……ッ!」  さすがにこれはセイバーにとって許容しがたい|愚弄《ぐろう》であった。今度こそ彼女は何の迷いもなく杯を地に叩きつけ、不可視の宝剣の鞘を鳴らす。  だが次の瞬間、残る二人のサーヴァントたちまでもが一斉に表情を引き締めたのは、セイバーの剣幕に触発されてのものではなかった。  わずかに遅れてアイリスフィールとウェイバーが、周囲の気配の異状に気付く。不可視にして無音でありながら、肌の温度を数段下げるほどの濃密に折り重なった殺意。  月明かりの照らす中庭に、白く怪異な異物が浮かぶ。ひとつ、またひとつと、闇の中に花開くかのように出現する蒼白の貌。冷たく乾いた骨の色。  燭膿の仮面だった。さらにその体躯は漆黒のローブに包まれていた。そんな異装の集団が続々と集結し、中庭にいた五人を包囲にかかっていたのだ。  アサシン……  その健在について既知だったのはライダーとウェイバーだけではない。セイバーとアイリスフィールも、倉庫街における切嗣の目撃談から聞き知ってはいた。  初日に遠坂邸で倒された一体限りではなく、今回の聖杯戦争には複数のアサシンが紛れ込んでいるという怪異な現実。だがそれにしても、この数は異状というほかない。全員が揃いの仮面とローブを纏っていながら、体格の個体差は多種多様である。巨漢あり、|痩身《そうしん》あり、子供のような簸躯もあれば女の艶めかしい|輪郭《りんかく》もある。 「……これは貴様の計らいか? 金ピカ」  撫然と問いかけたライダーに、アーチャーは素知らぬ顔で肩をすくめる。 「さてな。雑種の考えることなど、いちいち知ったことではない」  はぐらかしたアーチャ…ではあったが、内心ではこの展開に落胆を禁じ得なかった。  ここまで思い切ったアサシンの動員は、言峰綺礼の独断ではあるまい。その師である遠坂時臣の指図によるものだろう。  英雄王に対して丁重に臣下の礼を尽くす時臣に対し、アーチャーもまた彼が自らのマスターであることを認許してきたが、それでも時臣の采配の無粋さにはほとほと幻滅していた。  この宴、たしかに席を設けたのはライダーだが、酒を供しているのはアーチャーだ。そんな宴席に刺客を差し向けるとは一体どういう了見か。それが巡り巡って英雄王の沽券に泥を塗る行為だと、はたして時臣は理解できているのだろうか? 「む……|無茶苦茶《むちゃくちゃ》だッ!」  続々と現れる敵影の数に圧倒されたウェイバーが、悲鳴に近い声で嘆く。むべなるかな。 聖杯戦争のルールに|則《のつと》る限り、明らかにこれは論外の逸脱だった。 「どういうことだよ!?何でアサシンばっかり、次から次へと……だいたい、どんなサーヴァントでも一つのクラスに一体ぶんしか枠はないはずだろ?」  獲物が狼狽する様を見届けて、群れなすアサシンたちが口々に忍び笑いを漏らす。 「──左様。我らは群にして個のサーヴァント。されど個にして群の影」  ウェイバーにも、アイリスフィールにも、こればかりは理解しようもない。言峰綺礼が招き寄せたアサシンの正体は、まさに規格外の存在であったのだ。 『山の翁』──その戦懐の称号を脈々と襲名してきた歴代ハサン・サッバーハの中において、とりわけ怪異な能力を持つ一人。  他の代のハサンと異なり、彼は自らの肉体に手を加えることを一切しなかった。その必要がなかったと言ってもいい。なぜなら彼の肉体ぇ庸でありながら、その肉体を駆る精神を、状況に合わせて自在に変更できたのだ。  あるときは知略に秀で、あるときは異国の言葉を解し、あるときは毒物の知識で、またあるときは罠の技工で、いかなる状況においても数多の才覚を自在に切り替えて発揮しながら任務を遂げていった万能の暗殺者。ときには元来の肉体では到底不可能であるはずの怪力や俊敏さを発揮したり、忘れ去られた|幻《まぼろし》の武術を振るうこともあったという。  老若男女の別を問わぬ|巧《たく》みな変装に、およそ演技とは信じがたいほどの堂に入った立ち振る舞い。時と場合に応じて性格すらも豹変する彼の正体は、いかな側近であろうとも最後まで見抜くことができなかった。  果たして誰が知ろうが。ハサンという単一の肉体の内にありながら、彼らがまったく別個の魂を持った集団存在であったなどとは。  当時の知識においては、まだ|多重人格障害《M P D》などという概念は想定すらされていなかった。 現代でこそ病理として定義されるその精神構造も、暗殺者ハサン・サッバーハにとっては秘中の秘策たる『能力』だったのだ。彼は自らの内に住まう|同《・》|居《・》|人《・》たちの多種多様な知識や技術を駆使し、ありとあらゆる手段で敵を幻惑し、護衛の網をかいくぐって、誰も想定しえないような方法で標的を仕留めていった。  今回の第四次聖杯戦争において、言峰綺礼の召喚に答えてアサシンの座に具現したのが、つまりは他ならぬこの『百の|貌《かお》のハサン』である。  単一個人でありながら、その魂は無数に分断されたサーヴァント。根本的に霊的存在であり、生前の肉体という枷に縛られない�彼�ならぬ�彼ら�は、必要に応じて分裂した人格にそれぞれ固有の身体を備えて実体化することが可能であった。  無論、霊力の総量としてはあくまで「一人」に過ぎない以上、分裂行動した際の個々の能力値は他の英霊とは比較にならないほど低い。が、そのすべてが『アサシン』として固有スキルの恩恵を受け、別個に行動できることを鑑みれば、こと諜報活動に徹する限りはまさに無敵の|集《・》|団《・》である。 「まさか……私たち、今日までずっとこの連中に見張られていたわけ?」  苦々しく眩くアイリスフィール。セイバーも、これには悪寒を禁じ得なかった。脆弱な敵とはいえ、気配を消して忍び寄る間者、しかもそれが把握しきれないほどの多人数とあっては、いかに彼女がサーヴァント最強の戦闘力を誇ろうとも、対処しようがない脅威である。  そして、影に潜むのが常道であるはずの彼らが、今こうして気配遮断能力を打ち捨てて、恐れげもなく姿を見せているという事実が意味するところは…… �奴らは勝負に出る気でいる──�  予期すらしなかった窮地に、歯噛みするセイバー。  いかに数を頼みにしようとも烏合の衆。真っ向からの衝突ならばセイバ;には万に一つの敗因もない。が、それは立ち向かうのがセイバー単身であった場合の話である。  庇うつもりで直近に同伴させたアイリスフィールの存在が、ここにきて|仇《あだ》になった。いかにアサシンが脆弱といえども、それはサーヴァントを基準とした話であり、生身の人間にとってはやはり致命的な存在である。アインツベルンのボムンクルスとして一流の魔術行使を可能とするアイリスフィールであろうとも、ただそれだけのことではサーヴァントには抗し得ない。彼女が自力でアサシンの攻撃から身を守りきることは不可能だ。  そして、自衛しきれない仲間を背後に庇いながら戦うとなったとき、あらためて『数の差』が甚大な枷となる。  セイバーの一刀、ただの一撃で、襲いかかるアサシンの群れを果たして何体阻止できるか? ──否、うち何体かを阻止できたとしてもそれでは意味がない。一人でも討ち漏らしたならば、その一人がもれなくアイリスフィールに致命打を与え得る。  つまり『阻めるか否か』を問うならば、それは『一撃のもと、全員を一斉に阻止できるかどうか』の可否なのだ。そしていま彼女たちを包囲するアサシンの数は、あまりにも絶望的だった。  だがこれはアサシンの側からしてみても、最終手段といえる戦法である。  いかに集団戦法を取れるとはいえ、彼らはあくまで有限の総体を分裂させている身である。大多数の犠牲を前提に少数の生き残りで勝利を掴むなどという手段は、いうなれば自殺行為も同然であり、最終決戦でもない限りは決して有り得ない捨て身の殺法なのだ。  アサシンとて、聖杯を手にする願いを胸に召喚に応じたサーヴァントである。時臣とアーチャーを勝たせるための捨て石にされるなど納得できる道理がない。──が、彼も令呪には逆らえなかった。  今夜の襲撃にあたり、言峰綺礼は令呪のひとつを費やして『犠牲を厭わず勝利せよ』と命を下していた。サーヴァントにとって令呪の強権は絶対である。こうなればアサシンは、せめて指令を徹底的に完遂することで意地を通すしかなかった。  最強ともてはやされるセイバーが肝を冷やしている様は愉快ではあったが、実のところアサシンにとってアインツベルン勢は員数外だ。当夜の標的として指定されているのはライダーのマスターである。ライダーの宝具がいかに強力とはいえ、その破壊力は指向性だ。 四方八方から同時に襲いかかるアサシンの攻撃は、必ずやあの怯えきった播躯のマスターに届くことだろう。  そう、これは征服王イスカンダルにとって、絶体絶命の窮地であるはずなのだ。  なのに──何故あの巨漢のサーヴァントは、今もまだ余裕の構えで杯を岬っているのか? 「……ラ、ライダー、なぁ、おい……」  不安げにウェイバーが声をかけても、なおもライダーは動じない。周囲のアサシンを眺め渡す眼差しは、未だ泰然としたものだ。 「こらこら坊主、そう|狼狽《うろた》えるでない。宴の客を遇する度量でも、王の器は問われるのだぞ」 「あれが客に見えるってのかあ!?」  逆上するウェイバーに、ライダーは苦笑混じりの溜息をつくと、周囲を包囲するアサシンに向けて、間抜けなほど和やかな表情で呼びかけた。 「なぁ皆の衆、いい加減、その剣呑な鬼気を放ちまくるのは控えてくれんか? 見ての通り、連れが落ち着かなくて困る」  ライダーの言葉にセイバーは耳を疑い、アーチャーまでもが眉を顰めた。 「あんな|奴儕《やつばら》までも宴に迎え入れるのか? 征服王」 「当然だ。王の言葉は万民に向けて発するもの。わざわざ傾聴しに来た者ならば、敵も味方もありはせぬ」  平然とそう哺いて、ライダーは樽のワインを柄杓に汲み、アサシンたちに差し出すようにして掲げ上げる。 「さあ、遠慮はいらぬ。共に語ろうという者はここに来て杯を取れ。この酒は貴様らの血と共にある」  ひゅん──と、虚ろに風を切る音がライダーの誘いに返答する。  柄杓はライダーの手の中に柄だけを残し、残る頭の部分は寸断されて地に落ちた。アサシンたちのうち一人が投げ放った|短刀《ダーク》による仕業である。汲まれていたワインは無惨に中庭の石畳に飛び散った。 「……」  言葉もなく、零れた酒を眺めるライダー。それを嘲るかのように、閥膿の仮面たちがクスクスと忍び笑いを漏らす。 「──余の言葉、聞き違えたとは言わさんぞ?」  ことのほか静かなライダーの語調が、このとき、何かが決定的に変質していると気付いたのは、それまで彼と酒を酌み交わしながら語らっていた面々だけだった。 「『この酒』は『貴様らの血』と言った筈──そうか。敢えて地べたにブチ撒けたいというならば、|是非《ぜひ》もない……」  そのとき、旋風が吹き込んだ。  熱く乾いた、焼けつくような風だった。夜の森の、それも城壁に囲まれた中庭では決して有り得ないはずの──まるで|灼熱《しゃくねつ》の砂漠を吹き渡ってきたかのような、轟然と耳元に喩る風。  ざらつく礫を舌に感じて、ウェイバーが慌てて唾を吐く。それは砂塵だった。怪異なる風が運び込んできた、有り得ないはずの熱砂であった。 「セイバー、そしてアーチャーよ。これが宴の最後の問いだ。──そも、王とは孤高なるや否や?」  渦巻く熱風の中心に立って、ライダーが口を開く。その肩に|轟《ごう》と翻るマント。いつしか征服王の装束は英霊としての本来の|戦支度《いくさじたく》へと転じていた。  アーチャーは口元を歪めて失笑した。そんなことは問われるまでもない、という、無言のままの返事だった。  セイバーもまた躊躇わなかった。己の王道を疑わぬならば、王として過ごした彼女の日々こそ、偽らざるその解答だ。 「王たらば……孤高であるしかない」  そんな両者の返答に、ライダーは豪笑する。その笑い声に応じるかのように、逆巻く風がよりいっそう勢いを増す。 「ダメだな! まったくもって解っておらん! そんな貴様らには、やはり余が今ここで、真の王たる者の姿を見せつけてやらねばなるまいて!」  条理ならざる|理《ことわり》のもとに吹き寄せた熱風が、ついに現実を侵食し、覆す。  夜の森に有り得べからざる怪異の中、距離と位置とは意味を失い、そこは熱砂の乾いた風こそが吹き抜けるべき場所へと変容していく。 「そ、そんな……ッ!」  驚愕の声は、ウェイバーとアイリスフィール……魔術の何たるかを知る識者たちのものだった。 「固有結界──ですって──!?」  照りつける灼熱の太陽。晴れ渡る|蒼弩《そうきゅう》の彼方、吹き荒れる砂塵に霞む地平線まで、視野を遮るものは何もない。  夜のアインツベルン城から、ただの一瞬で変転したそこは、あきらかに現実を侵食する幻影。奇跡と並び称される魔術の極限に違いなかった。 「そんな馬鹿な……心象風景の具現化だなんて……あなた、魔術師でもないのに?」 「もちろん違う。余ひとりで出来ることではないさ」  広大なる結界の直中に屹立し、誇らしげな笑みを湛えながらも、イスカンダルは否定する。 「これはかつて、我が軍勢が駈け抜けた大地。余と苦楽を共にした勇者たちが、等しく心に焼き付けた景色だ」  世界の変転に伴って、そこに巻き込まれた者たちは位置関係までも覆されていた。  多勢で包囲を組んでいたはずのアサシンたちは一群の塊となって荒野の|彼方《かなた》に追いやられ、中央に立つライダーを挟んで、反対側にセイバー、アーチャーと二人の魔術師が退避させられている。それは群れなすアサシンの軍勢を前に、ライダーが単身で立ちはだかる構図でもあった。  ──否、はたして今ライダーは単独なのか?  誰もが目を見張り、彼の周囲に立ち現れた|蛋気楼《しんきろう》のような影を|凝視《ぎょうし》する。ひとつではない。ふたつ、四つと倍々に数を増しながら隊伍を組んでいく|朧《おぼろ》な騎影。それらが次第に色と厚みとを備えていく。 「この世界、この景観をカタチにできるのは、これが|我《・》|ら《・》|全《・》|員《・》の心象であるからさ」  誰もが驚愕の眼差しで見守る中、続々とイスカンダルの周囲に実体化していく騎兵たち。 人種も装備もまちまちではあるが、その屈強な体躯と、勇壮に飾り立てられた具足の輝きは、まるで各々が競い合うかのように|華々《はなばな》しく精桿だ。  ただ一人、ウェイバーだけが理解できた。この度外れた怪異の正体を。 「こいつら……一騎一騎がサーヴァントだ……」  正当なる契約を果たしたマスターのみに与えられる、サーヴァントの霊格を見抜き、評価する透視力。今この場でそれを持ち合わせていた唯一の人物であったが故に、ウェイバーは知ってしまった。自らのサーヴァントである英霊イスカンダルの切り札。その恐るべき最終宝具の正体を。 「見よ、我が無双の軍勢を!」  いま限りなく誇らしげに、高らかに、征服王は居並ぶ騎兵の隊列を両腕で振り示す。 「肉体は滅び、その魂は英霊として『世界』に召し上げられて、それでもなお余に忠義する伝説の勇者たち。時空を越えて我が召喚に応じる永遠の|朋友《ほうゆう》たち。  彼らとの絆こそ我が至宝! 我が王道! イスカンダルたる余が誇る最強宝具──『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』なり!!」  ランクEX対軍宝具。独立サーヴァントの連続召喚。  軍神がいた。マハラジャがいた。以後に歴代を連ねる王朝の開祖がいた。そこに集う英 雄の数だけ伝説があり、その誰もが掛け値なしの英霊だった。  そして彼ら全員が、その威名の大元に等しく同じ出自を誇っているのだ。──かつて偉大なるイスカンダルと|轡《くつわ》を並べし勇者、と。  唯一、乗り手のいない空馬がライダーの元へと進み出る。ひときわ精桿で逞しい、巨獣と呼びたくなるほどの駿馬であった。人ならざる存在でありながら、その威風は他の英霊たちに負けず劣らず勇壮だ。 「久しいな、相棒」  子供のような満面の笑みで、ライダーは巨馬の首を強く腕で抱く。まぎれもなく『彼女』こそ、後に神格まで与えられ崇拝された伝説の名馬ブケファラスに他ならない。征服王の陣営にあっては、もはや馬までもが英霊の格にあるのだ。  誰もが驚嘆に声もなかった。同じEXランクの超宝具を誇るアーチャーですら、この輝ける軍勢を鼻で暇うことはしなかった。  王の夢に賭け、王とともに駆けた英傑たち。  死してなお果てることのなかったその忠義を、破格の宝具へと形を変えて具現させる征服王。  セイバーは総身が震えた。ライダーの宝具の威力を畏怖してのものではない。その宝具の在り方そのものが、騎士王としての彼女の誇りの根幹を揺さぶるものだったからだ。  かくも完壁な、絶大なる支持──  宝具の域にまで達する臣下との絆──  理想の王で在り続けた騎士王の生涯において、最後まで彼女が手にし得なかったモノ── 「王とはッ──誰よりも鮮烈に生き、諸人を魅せる姿を指す言葉!」  ブケファラスの背に跨ったライダーが、声高らかに謳い上げる。それに応えて居並ぶ騎上の英霊たちが、一斉に盾を打ち鳴らして歓呼する。 「すべての勇者の羨望を束ね、その道標として立つ者こそが、王。故に──!」  圧倒的な自信と誇りを込めて、征服王はセイバーとアーチャーを脾睨する。 「王は孤高にあらず。その偉志は、すべての臣民の志の総算たるが故に!」 『|然《しか》り! 然り! 然り──』  英霊たちの斉唱は地をどよもし、蒼天の彼方へと突き抜けていく。いかな大軍も、城壁も、心をひとつにした征服王の朋友たちの前に敵ではない。昂る彼らの戦意の総和は、大地を穿ち海を割る。  まして、影の間者の集団なぞは|雲霞《うんか》の群れにも等しかろう。 「さて、では始めるかアサシンよ」  そう影の群れへと微笑みかけるライダーの視線は、限りなく檸猛で残忍だった。王の言葉を阻み、王の酒を拒んだ狼籍者に対して、すでに彼は一片の情けもかける気はなかったのだろう。 「見ての通り、我らが具象化した戦場は平野。生憎だが、|数《・》|で《・》|勝《・》|る《・》こちらに地の利はあるぞ?」  ハサンの中の百の貌は、このとき聖杯を忘れた。勝利を、令呪の使命を忘れ、サーヴァントたる己を見失った。  無駄を承知で逃走する者。自棄にかられて|哨城《とっかん》する者。為す術もなく棒立ちになる者Il算を乱した閥縢の仮面は、もはや烏合の衆でしかない。 「躁踊せよ──」  容赦なく躊躇なく、断固と轟くライダーの号令。そして 『|AAAALaLaLaLaLaie�《アァァァララララライッ》!!』  応じて轟く岡の声。かつてアジアを東西に横断した無敵の軍勢の雄叫びが、ふたたび戦場を震憾させる。  それは、もはや闘争ですらなかった。|掃討《そうとう》と呼ぶほどの手応えもなかった。  芥子粒が挽き臼に潰される様ですら、もう少し見応えがあっただろう。  輝く『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』の鏃型陣形が駆け抜けたその後には、かつてアサシンというサーヴァントが存在した形跡など微塵もなく、ただ血臭を孕んだ砂埃が、虚しく|朦々《もうもう》と立ち上るだけだった。 『──ウォオオオオオオオオオオッ!!」  勝ち鬨の声が湧き起こる。王に捧げた勝利を誇り、王の威名を讃えながら、ひとたび役目を終えた英霊たちは、ふたたび霊体へと還って時の彼方へと消えていく。  それに伴い、彼らの魔力の総和によって維持されていた固有結界も解除され、すべては泡沫の夢であったかのように、景色は元の夜の森に、アインツベルン城の中庭へと立ち戻っていく。  白い月明かりの中の静寂は、微塵も乱されていなかった。三人のサーヴァントと二人の魔術師は、腰を下ろした位置もそのままに、再び杯を手にしていた。ただ、アサシンたちの姿だけがない。|短刀《ダーク》によって両断された竹の柄杓の残骸だけが、唯一の名残であった。 「──幕切れは興醒めだったな」  何事もなかったかのようにライダーがそう咳いて、まだ杯に残っていた酒を一息に飲み干す。セイバーは応じる言葉を持ち合わさず、アーチャーだけが何やら不機嫌そうに鼻を鳴らすばかりだった。 「成る程な。いかに雑種ばかりでも、あれだけの数を束ねれば王と息巻くようにもなるか。──ライダー、やはりおまえという奴は|目障《めざわ》りだ」 「言っておれ。どのみち余と貴様とは直々に決着をつける羽目になろうて」  涼しく笑って受け流し、ライダーは腰を上げる。 「お互い、言いたいところも言い尽くしたよな? 今宵はこの辺でお開きとしようか」  だが当然、好き放題に扱き下ろされたままで反論を返していないセイバーが、これに納得できるはずもない。 「待てライダー、私はまだ──」 「貴様はもう黙っとけ」  突き放すような固い声で、ライダーはセイバーの言葉を阻む。 「今宵は王が語らう宴であった。だがセイバー、余はもう貴様を王とは認めぬ」 「あくまで私を愚弄し続けるか? ライダー」  セイバーが語気を荒げても、イスカンダルはむしろ憐れむような眼差しで彼女をあしらうばかりだった。答える代わりにキュプリオトの剣を抜き、その切っ先で虚空を斬り払う。雷鳴一閃、轟きと共に具現する神牛の戦車。『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』ほどの壮大さはないとはいえ、それでも間近に見るその威容には誰もが目を奪われる。 「さあ坊主、引き上げるぞ」 「……」 「おいこら、坊主?」 「──え? あぁ、うん……」  アサシンが一掃される様を見届けてから、ウェイバーの表情は心ここにあらずといった雰囲気で、明らかに妙だった。尤も、あれだけ常軌を逸した規模の宝具を目の当たりにしたとあっては、無理からぬ反応とも言える。しかもそれが自分自身の契約したサーヴァントの実力なのだと、彼は今はじめて知らされたのだ。  ふらふらと頼りない足取りでウェイバーが戦車に乗り込むと、イスカンダルは最後にセイバーを一瞥し、どこか真摯とも聞こえる口調で語りかけた。 「なあ小娘よ。いい加減にその痛ましい夢から醒めろ。さもなくば貴様は、いずれ英雄として最低限の誇りさえも見失う羽目になる。──貴様の語る�王�というユメは、いわばそういう類の呪いだ」 「いいや、私は──ッ」  セイバーの反駁を最後まで聞くこともせず、雷神の戦車は空へと駆け上がった。そして遠雷の響きだけを残し、東の空へと消えていく。 「……」  最後に問答を退けたライダーに対し、口惜しさを感じるならば、それは順当な感情だっただろう。だが今セイバーの胸を捉えて放さないのは、得体の知れない�焦り�の念だった。  大義もなく、理想もなく、ただ我欲のままに威勢を振るった暴君。にもかかわらず、死してなお不滅の絆で臣下たちと結ばれた、王。  その生き様はあまりに騎士王と遠く、その哲理は決して相容れない。  にもかかわらずセイバーは、イスカンダルの言葉を笑止なものとして胸から消し去ることができなかった。どうにかして論破し、撤回させずには気が済まない──そんなやりきれない後味の悪さがあった。 「耳を傾ける必要などないそ、セイバー。おまえは自ら信ずる通りの道を行けばいい」  横合いからそう口を挿んだのは、よりにもよって、彼女を嘲笑っていたはずのアーチャーだった。真意の掴めぬその激励に、セイバーは却って面持ちを硬く強張らせる。 「さっきは私を嘲笑しておきながら、今度は私に|阿《おもね》るのか? アーチャー」 「無論だ。おまえが語る王道には微塵たりとも間違いはない。正しすぎて、その細腰にはさぞ荷が重かろう。  その苦悩、その葛藤……フフフ、|慰《なぐさ》みものとしては中々に上等だ」  そう哺いてアーチャーは再び、あのおぞましい笑みでセイバーを凝視する。  端麗な風貌。深みのある玲礎な声音。にもかかわらずその表情、その声は、限りなく邪悪で淫靡。  この黄金のサーヴァントを前にする限り、セイバーは一分の迷いも懐かない。ライダーのように言葉を交わす余地すらなく、この敵は一切の許容を赦し得ない存在だと本能的に即断できる。 「おのれの器に余る『正道』を背負い込み、苦しみに足掻くその道化ぶり。|我《オレ》は高く買おう。セイバー、もっと|我《オレ》を笑わせろ。|褒美《ほうび》に聖杯を賜わしても良いぞ?」  嘯いたアーチャーの手の中で、玉杯が砕け散った。 「ライダーは去った。宴は終わりだ。──アーチャー、|疾《ご》く|去《い》ね。さもなくば剣を抜け」  たとえ不可視であろうとも、セイバーの振るう宝剣の一閃は、その風圧だけで致命的な威力を物語って余りある。杯を打ち割られたアーチャーが顔色一つ変えなかったのは、余程の剛胆か、あるいは極めつけの愚鈍か、いずれかでしか有り得ない。 「やれやれ。いま割れた酒杯を求め争って、いくつの国が滅びたか知っていような? lIまぁ良い。敢えて罰するまい。道化の狼籍に怒っては王の名折れだからな」 「何とでもほざけ。私の警告は一度限りだ。──次は、容赦なく斬る」  冷ややかなセイバーの桐喝も意に介さぬかのように笑いながら、アーチャーは腰を上げた。 「せいぜい励めよ騎士王とやら。ことによるとおまえは、さらなる我が|寵愛《ちょうあい》に値するかもな」  最後にそう言い残してから、アーチャーが霊体化して姿を消すと、黄金の照り返しが失せた中庭は、夢から醒めたかのように空虚でひなびた空気しか残らなかった。  かくして、ひとつの戦いが幕を下ろす。  いささか風変わりではあったが、それはまぎれもない闘争であった。王としての意地を貫くという行いは、彼ら英霊にとって命を賭すだけの理由があることなのだ。  すべての敵が去った後に黙然と停むセイバーの姿に、アイリスフィールは既視感を懐く。──そう、その孤影は一昨日の倉庫街での大乱戦と一緒だった。  だが今日の彼女の横顔には、強敵たちを退けたという清々しい達成感はない。むしろ物思いに|耽《ふけ》るかのような沈響な表情が、アイリスフィールの胸を騒がせる。 「セイバー……」 「──最後にライダーを呼び止めたとき、もし彼が足を止めて振り返っていたら、私はどう言い返すつもりだったのでしょうね」  それは誰に向けるでもない問いだった。セイバーが振り向いてアイリスフィールに見せた苦笑いは、自嘲であったのかもしれない。 「思い出したのです。──『アーサー王はヒトの気持ちが分からない』と、かつてそう言い残してキャメロットを去った騎士がいたことを」 「……」 「あれは、もしかしたら──あれは円卓に集った騎士たちの、誰もが胸に懐いていた言葉だったのかもしれません」  アイリスフィールはかぶりを振って、セイバーの弱気を否定した。 「セイバー、あなたは理想の王だった。それはあなたの宝具が証明しているわ」  ライダーに『|王の軍勢《アイオニオン・ヘタイロイ》』があるように、セイバーには『|約束された|勝利の剣《エクスカリバー》』がある。征服王の宝具が統率者としてのカリスマ性の具現であるとするならば、騎士王の宝具とは、彼女の至尊の王道の具現である。その誇りと輝きは誰にも否定できない。 「たしかに私は、理想の王たらんとして自らを律してきました。過ちを避けるために私情を封じ、決して本音を言うこともなかった」  それは王という役割を務めるために、ヒトとしての自分を捨てるということ。  誰よりも貧欲に『ヒト』たらんとした征服王の王道とは、真っ向から異なる生き様だ。 「その采配が常勝であり、その行いが正しくあれば、それで王とは十全なのです。だから私は誰にも理解など求めなかった。たとえ孤高であろうとも、それは王として正しい姿だ。  だが私は──その気持ちを、はたしてライダーほど晴れやかに胸を張って誇示できるのかどうか」  何がそこでセイバーを躊躇させるのかは、アイリスフィールにも解る。  アーサー王伝説の終幕は、親族と臣下の裏切りという悲劇によってもたらされる。イスカンダルがひけらかした『臣下との絆』を、ついに確固たるものにできなかったが故に、騎士王はその栄華を失うのだ。 「──ねぇセイバー、運命はたとえ不可避だとしても、それが必定であるとは言い切れないわ」  しばし黙考してから、アイリスフィールは諭すようにそう切り出した。 「どういうことですか?」 「未来は�|理《ことわり》�だけに導かれるものじゃない。そこには運勢がある。偶然がある。ありとあらゆる不条理な積み重ねが、最後に運命の形を決めるのよ。  あなたが騎士王であったが故に、あなたの滅びが定まったなんていう理屈は通じない。だからこそ、あなたには聖杯を求める意義がある」 「……そうですね。貴女の言うとおりだ」  かつて王の魔術師は告げていた。選定の剣を抜いたその果てにあるのは、不可避なる破滅の運命だと。  それでも、彼女は駆け抜けた。  覚悟はあっても|諦観《ていかん》はなかった。たとえ希望を信じられなくても、自らの祈りが正しいものであると信じ抜くことはできた。  だからこそ、いざ予言の成就を目の当たりにしたときも、彼女はそれを清々と受け入れることはできなかった。  祈らずにはいられなかった。願望せずにはいられなかった。  これは、何かの間違いなのではないかと。  自らが信じて貫いた道には、もっと他に相応しい結末があったのではないかと……  その一念が彼女を英霊にした。冬木の聖杯の許へと導いた。 「感謝しますアイリスフィール、私は、肝心なものを見失うところだった」  頷いたセイバーの眼差しは、以前のままの清澄で静かな自信を取り戻していた。 「王としての私の是非を、過去に問うても始まらない。それは聖杯に問うべきことだ。だからこそ私は今、ここにいる」 「そう。その意気よ」  アイリスフィールは安堵した。この気高く凛々しい騎士の王には、自省の憂い顔など似合わない。常に揺るがぬ信念をもって、前だけを見て突き進む。そんな姿こそが相応しい。 そう在ってこそ光の剣も、彼女に常勝を約束するのだ。          ×                ×  深山町、遠坂邸の地下工房は、重苦しい沈黙に沈んでいた。 「ライダーの……宝具評価は……」  さも聞きたくなさげな重い口調で、時臣は通信機の向こうの綺礼に問いかける。 『ギルガメッシュの『|王の財宝《ゲート・オプ・バビロン》』と同格……つまり評価規格外、です』  ともに溜息しか出なかった。  目論んだ通りの結末ではある。ライダーの奥の手について事前に知識を得られたことは、アサシンを犠牲にしてもなお余りある価値を持つ。もし何の予備知識もないままにライダーと対決する羽目になっていたら、時臣はあの超宝具に対して何の対処もできなかっただろう。  ただ唯一、目論見を外れたのが、その宝具の格である。──果たして事前の知識を得たからといって、アレに対処する術があるのかどうか。  時臣は自らのサーヴァントであるアーチャーの宝具こそが、抜きんでて最強の威力を誇るものとばかり過信していた。まさか『|王の財宝《ゲート・オプ・バビロン》』に比類しうるだけの宝具を持つサーヴァントが他に現れるなどという展開は、まったくの想定外だったのだ。  まず滅多なことでは懐くことのない�後悔�の念が、じわじわと時臣の思考を締め上げていく。  ここでアサシンを捨て駒にしたのは、あるいは致命的なミスだったのかもしれない。ライダーほどの危険なサーヴァントであれば、リスクを冒して真っ向から衝突するより、間諜による策謀で追い詰めていった方がはるかに効率は良かっただろう。たとえばライダーのマスターをサーヴァントと別行動せざるを得ないような状況に誘い込み、そこで暗殺を試みる、等…… 「……馬鹿な」  時臣はかぶりを振って、狼狽する自分自身を諌めた。そんな策略は余裕とも優雅さとも程遠い。遠坂の頭首としてあるまじき発想だ。  なにもそこまで万事が絶望的なわけではない。前向きな材料もまた多くある。たとえば、英霊イスカンダルと契約を結んだマスターが三流の魔術師であるという点だ。もし彼が当初の予定通りにロード・エルメロイのサーヴァントとして召喚されていたならば、事態はより深刻だっただろう。サーヴァントの能力値は契約した魔術師の力量に比例して変動するからだ。ケイネスとその弟子とのトラブルは、結果として時臣を利する形の僥倖をもたらした。やはり第四次聖杯戦争の運気は、間違いなく時臣に味方している。  いよいよ、ここからが本番なのだ。時臣は椅子の傍らに立てかけてある|樫《かし》材のステッキを手に取って、静かな決意とともに撫でさすった。握りの頭に象眼された特大のルビーは、時臣が生涯を掛けて錬成してきた魔力が封入されている。これこそが魔術師、遠坂時臣の礼装に他ならない。 「アサシンを捨てた今となっては、綺礼、君の力を出し惜しみしておく必要もない」 『はい。承知しております』  魔道通信機の向こうから、言峰綺礼が低く淡泊な声で応じる。魔術師の弟子にして一流の代行者でもある彼は、サーヴァントを失った後であっても心強い戦力だ。アサシンを運用するための偽装を必要としなくなった今では、もはやその能力を封じておく必要もない。  予定通り、ここから先は第二局面だ。アサシンによって収集した情報をもとに、ギル.ガメッシュを動員して敵対者たちを駆逐していく。ライダーに処する対策も、その中で自ずと見えてくることだろう。  ついにこの工房を出て、冬木という戦場に立つ時が来た。  静かな闘志に魔術刻印が疹くのを感じながら、時臣は椅子から立ち上がった。 [#改ページ]    解説(注意一作中ネタバレ有り)                       東出祐一郎  さて、皆様お待ちかねの『Fate/Zero』二巻である。  序盤の小競り合い──というには、あまりに烈しい戦闘が巻き起こった一巻から、聖杯戦争もいよいよ本格化。  『Fate/stay night』用語辞典で語られた切嗣のビル丸ごと吹き飛ばし事件や、『Fate/hollow ataraxia』のあちこちで語られた第四次聖杯戦争のエピソードも次々と明らかにされていく。  たとえば、『Fate/hollow ataraxia』でセイバーがこう叫んでいることを覚えていらっしゃるだろうか。 「ま、まざかシロウ達の言うタコというものが、あの魔魚などとは思わなかったのです! ……なんという事だ。あの斬っても斬っても果てなかった異界の邪神を、私は口にしていたと言うのか……!」(『Fate/hollow ataraxia』より)  言うまでもなく、今巻における青髭戦のことである。そりゃ、『実はセイバー、君はあの〇〇の××から飛び出てきたアレを食べていたんだよ』と言われれば、怒るワケである。トラウマになりそうだものなあ、アレは。  他にも様々なエピソードがそれまでの『Fate』シリーズで語られている、読み終わってからもう一度そこらへんをチェックしつつプレイするのもまた、一興であろう。  さて、皆さんにはいまさら言うべきことでもないと思うのだが──『Fate/Zero』の結末は定められている。  衛宮切嗣は生き残るが、他の全てを失うことを定められている。  セイバーは勝ち残るが、聖杯を手にすることはできない。  そればかりか、彼女は令呪によって自身が望んだ聖杯を破壊する──。  そして、残されたのは『冬木市最悪の大災害』という事実のみ。  徹頭徹尾救いようのない、残酷極まりない話である。 『Fate/stay night』の結末が、様々なもの──悲惨な結末も、幸福な結末も──であることはユーザーの皆様もご承知の通りだろうが、『Fate/Zero』はそうではないのだ。  なぜならこれは『Fate/stay night』本編における�過去�の話だからだ。『Fate』ルートにおいて士郎が苦悩しつつも、結論づけたように過去を|違《たが》えることは、誰にもできない。  結末は|一つだけ《オンリーワン》。それは覆しようがない。  つまり『Fate/Zero』二巻までに登場した魅力的なキャラクターのほとんどが、展開はどうあれ死ぬ、あるいは消滅することを定められているのだ。  このように悲惨な結末が定められた物語に、気が滅入るという方もいらっしゃるかもしれない。憂轡になるから、と敬遠する方もいらっしゃるだろう。  だがしかし、だがしかしだ。  そのような貴方にこそ、この『Zero』を読んで欲しいと思う。  |理想《ユメ》を捨てた後の彼しか見たことがなかった衛宮士郎も、冷徹な魔術師としての側面しか見たことがなかったセイバーも知らない、衛宮切嗣がここにいる。  この世の誰もが幸せであるように──。  そんな愚かで悲しい願いを抱いた衛宮切嗣が。そして、愛する者を失う恐怖に怯え、それゆえに強くあろうとする衛宮切嗣がここにいるのだ。  だから読んで欲しい、そして『Fate/stay night』本編における衛宮切嗣最後の台詞である 「ああ────安心した」  この台詞に、辿り着いて欲しいのだ。                  ◆  さて、この他にも『Fate/Zero』には、まだまだ謎が多い。  たとえば、本編では語られることのなかったイスカンダル──ギルガメッシュと互角の宝具を持つ、この稀代の怪物に、セイバーはどう戦うのか?  未だ正体不明の黒騎士──彼(?)は何者なのか、そしてセイバーに突如として牙を剥いた理由は?  間桐雁夜、遠坂葵、遠坂時臣たちの関係はいかなる結末を迎えるのか? (悲劇的であることはほぼ確実なように思えるが)  我々は『Zero』における、ありとあらゆる結宋を知っている。  しかし、そこに至る『道』を知らない。そして、死ぬべき、消えるべき運命である彼らが、いかに戦い、いかに果て、いかに堕ちていったのかも。  その謎を知りたいと、彼らの『道筋』を知りたいと、そう思われる方は、やはり『Fate/Zero』を読んで欲しいと思う。  さて、もう一つ。  実は『Fate/Zero』は|救《・》|い《・》|の《・》|物《・》|語《・》でもある。  第四次聖杯戦争が悲惨な結末を迎えるのと同様、衛宮切嗣が衛宮士郎を救うことも、セイバーが士郎のサーヴァントとして召喚されることもまた、定められた|運命《Fate》なのだ。  衛宮切嗣は苦悩し、絶望し、衛宮士郎という存在に救われて死んでいく──たとえそれが、不倶戴天の敵である言峰綺礼に道化と罵られるものであるにせよ、それは幸福な結末なのだ。  暗黒と絶望の結末に向けてひた走る衛宮切嗣を、あるいは様々な想いを抱いてこの聖杯戦争に挑むサーヴァントと魔術師たちを、どうか読者の皆様も共に見守っていただきたい。                  ◆  さて──真面目に決めたところで、話はこの解説を書くちょっと前に遡る。  虚淵玄氏からの「解説書くんでしたら、二巻の原稿読んでおきますか?」というありがたい申し出に「喜んで読ませていただきます。さあ下さいすぐ下さい」と応じた私は、一心不乱に二巻の原稿を幸福度満タンで読み耽っていた。  これぞ関係者の特典、むしろ宝具。  まことに貴くない『|卑怯な幻想《ずるっこ・ふあんたずむ》』。  今この瞬間、誰よりも先に『読んでいる』というたまらぬ快感は、ウフフ、イヒヒと一巻のウェイバーのようにパンツを台無しにしそうな勢いであった。  そんな私が、二巻でもっとも心を打たれた部分を紹介しよう。これは読者の皆様もきっと間違いなく、絶対確実に、同意見であると信じている。  そう、『Fate/Zero』で我々がもっとも衝撃を受けた一文、それは──────。  ぱんつはいてないイスカンダル──────だと。 (ラストで台無しにしつつ、幕) [#改ページ] 虚淵玄 GEN UROBUCHI ニトロプラス所属のシナリオライター。 -代表作- ファントム-PHANTOM OF INFERNO- 吸血臓鬼ヴェドゴニア 鬼哭街 沙耶の唄 [#改ページ] フェイト/ゼロVoL2.「王たちの狂宴」 2007年3月31日初版発行 著者        虚淵玄(ニトロプラス) 発行者       竹内友崇 発行所       TYPE-MOON イラスト───────武内崇 作画・彩色──────こやまひろかず・蒼月誉雄・MORIYA・simo ロゴデザイン─────yoshiyuki〔ニトロプラス) 平成二十年四月二十七日 入力・校正 にゃ?